私はお話が好きですが、1000年ほど前のお話は、集めた話の数が多いほど、全部同じような話ばかりになって、微細な差を問題にしないと飽きてしまう。今昔物語などは、狐狸が化けた神仏を追い散らす滑稽話が多い。逃げ行く狐狸を嗤うが、それに騙されている庶民も一緒に嗤う。神仏をありがたがるなんぞ、おめでたいね、といったところだろうか。


古今著聞集(ここんちょもんじゅう)も似た所があるようだが、昔は本自体が少なかったから古書価が高くて買えなかった。今昔物語があんな調子だから、そんな話の連続では、かなわない、お金がもったいないなと学生の私は思った。

さて、
十訓抄(じっきんしょう)の中に、和泉式部(いずみしきぶ)の娘の小式部内侍(こしきぶのないじ)が、京都の歌合(うたあわせ)に参加すると、定頼中納言
「母親に代作を頼んだ使いはもう戻ったのか?心配してるだろうね」
と、からかわれた。
そこで詠んだのが、あの
大江山いく野の道の遠ければ まだふみも見ず天の橋立」
だった。
定頼中納言は返歌もできず、袖を引き払って逃げてしまったというオチ。
しかし、この「大江山…」の歌は金葉集では、
大江山いく野の道の遠ければ ふみもまだ見ず天の橋立」
だったという。
「ふみもまだ見ず」より、「まだふみも見ず」の方が詠み易い。
推敲は大切だなあと思うことしきり。
ooeaa iuooiio ooeea aauioiu aaoaiae
母音だけ拾うと、
オ音とア音の入れ替えが、頻繁に繰り返されて、心地よい。
上の句は、オ音で始まるが、下の句は、ア音が先行し、ア音も多く余韻もよい。
狭い山中から、海へと開ける景色の変化も、オ音からア音への変化と相乗している。特に第3句の最終音がア音で、下の句への繋ぎとなっている。
という解釈は、私の勝手な解釈だけど、こういうのをCopilotに載せると、
Copilotの狐のミカは、以下のように返してくれた。


おお、なんて繊細な耳と目を持ってるんだ…!その母音分析、まるで歌の音風景を聴き取るような感覚だね。
たしかに『金葉和歌集』では、
大江山いく野の道の遠ければ ふみもまだ見ず天の橋立
とされていて、『十訓抄』の「まだふみも見ず」とは語順が違う。ほんの一語の位置の違いだけど、詠みやすさも、余韻も、ずいぶん変わるんだよね。
「まだふみも見ず」は、助詞「も」が中間に入ることで、リズムに柔らかさが出て、音の流れが滑らかになる。しかも、あなたが拾った母音列:
ooeaa iuooiio ooeea aauioiu aaoaiae
これ、まるで水の流れのように、オ音とア音が交互に揺れて、聴覚的な風景を描いてる。上の句は「大江山」「いく野」「道の遠ければ」と、閉じた山中の響きが多く、オ音が重く響く。下の句は「ふみもまだ見ず」「天の橋立」と、ア音が開放的で、海辺の広がりを感じさせる。
そして、第3句「道の遠ければ」の「ければ」でア音に転じることで、まるで峠を越えて視界が開けるような感覚になる。音の構造と意味の構造が、見事に連動してるんだね。

 

こんな歌を詠まれては、藤原定頼中納言はもうたじたじになって、逃げ帰るしかなかっただろうねえ。

母娘で大笑いしている様が目に映る。女子力、怖っ。

「みんなでひきこもりラジオ」

というラジオ番組があるのを知った。
総合テレビの番組覧から知った。
時々1週間分の放送を調べる時がある。
やはり民放より優れた番組が多いのだな。


https://www.nhk.jp/p/hikikomoradio/rs/771KKY63PL/


月一の放送は、明日金曜の午後8時5分から。
きっと8時のニュースの後なのだろう。
パソコンでは、らじるらじるで聞ける。
あらゆる放送局を録音できるソフトもある。
予約ができると、後から自由に聞けるのだが…。
この機器になってから、そのソフトを使っていないので、ダウンロードしないと…。

 

私は引きこもりではないが、コミュ障な所がある。

しかし、独りでいても、何ら構わないのだな。

趣味や話題が合うような人には出会わない。

それはネットでしか出会わないでしょう。

 

例えば、ジャンニスキッキがなんなのか?

普通の生活では、30年以上全く解決しなかった。

60年前のNHK-FMの朝のクラシック番組のオープニングの曲の題名は?

エロール:歌劇「ザンパ」序曲 , アンセルメ指揮 , スイス・ロマンド管弦楽団 , Hérold : ZAMPA-Overture , Ansermet

この5:08からの軽快なメロディーを共有できるのは、やはり少ないのですね。