御近所意識 | はぐれ国語教師純情派~その華麗なる毎日~

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国語教師は生徒に国語を教えるだけではいけない。教えた国語が通用する社会づくりをしなければ無責任。そう考える「はぐれ国語教師純情派」の私は、今日もおかしな日本語に立ち向かうのだ。

 「町内会」「隣組」「御近所」「向こう三軒両隣」……。古き良き時代、日本の社会はおおよそこうした「御近所意識」に支えられて成り立っていました。

 旅行に出かける際、仲の良い御近所さんに鍵を預けて行ったり、犬や猫の餌を頼んだり、植木の水かけを頼んだり、買い物に行く奥さんについでに何かの買い物を頼んだり、醤油や味噌やお米を切らした時には「貸して」もらったり、お惣菜を余計に作った場合には「お裾分け」をしたりするのは、まったくもってごく普通の「近所づきあい」のうちだったのです。

 

「よその子も我が子と同じ声かけて」

 

 昭和40年代か50年代ぐらいまでは普通に見られたこんな標語の根底には、そうした意識の共有があったといってよいでしょう。

 ところが時代は変わりました。「声かけ事案」というタームはいつ生まれたのでしょうか? 子どもが外で知らない人に声を掛けられたとなると、即時警察に通報。無論、警察は出動……。

 

「よその子も我が子と同じ声かけて」

 

 この標語は、もはや日本の社会では通用しなくなってしまったのでしょうか?

 以前、私が町内会の役員をしていることに触れました。毎月、回覧板では用を足さない配布物を全戸配布します。散歩にはちょうど良いのですが、私の守備範囲のお宅には、

 

「営業・新聞・販売・宗教 セールス禁止 悪質な場合即刻通報します」

「広告やチラシ、DM類うを入れないでください」

 

などとと印刷されたシールをドアに貼っているお宅があります。きっと過去、嫌な思いをされたことがおありなのでしょう。私はセールスでも勧誘でもありませんし、町内で選ばれてその役目をはたしているだけなのですが、配布物をドアの差し入れ口に入れようとする時、どうしたわけか何か後ろめたいような気分になってしまいます。

 

『ああ、今、ドアが開いて、ここにお住まいの方が出てきたらどうしよう?』

 

 ついついこっそりと、音も立てずに入り口から立ち去ろうとしてしまいます。泥棒じゃないのに。世の中の変化に抗う気持ちもないのですが、あののどかな古き良き時代は、もう二度と日本の社会に再現することはないのかと寂しい気持ちにもなります。

 子どもの頃、ドリフがテレビでこんな歌を歌っていましたねえ……。

 

「とんとん とんからりと 隣組 格子を開ければ 顔なじみ 廻して頂戴 回覧板(中略) あれこれ面倒 味噌醤油 御飯の炊き方 垣根越し 教えられたり 教えたり(後略)」

 

 日本PTA全国協議会による「テレビ番組に関する小中学生と親の意識調査」においては、子供に見せたくない番組」にいくつもランクインさせていたドリフですが、案外、社会における啓蒙活動になっていたのかもしれません。