大変大事なブログが「らんだあ」さんによって書かれています。

『真の近代史』として、中国の共産党支配に至る経緯を6回に分けて書かれていました。

私は「らんだあ」さんをフォローしているのですが、気づかずにいまして、今朝、フォロアーを辿って行ってみました。それでとても大事なきっじだと思うし、もっと広く読んでもらいたいと思って、序章から5回まで、全てリブログしていきます。

今回は、その1回目です。

序章 中国近代史:中華民国の興亡

 

 

 今回は、中国の近代史と、周辺諸国の関わりを、公正な立場で客観的に説明する。

 偏向教科書では、日本が中国を侵略したように見せかけるため、辻褄の合わない矛盾した記述をすることが多いが、下記の図を見て解るとおり、1912年に建国された 自由民主主義の中華民国を侵略したのは、共産主義である中華人民共和国 (旧名:中華ソヴィエト共和国)に他ならない。下線は私が引いた)

  中華民国は、共産主義の侵略を受けた結果、今は台湾のみが実効支配地域となっている。

  また日本も、中華ソヴィエトに侵略を受けた被害者であり、左翼識者が言う「日本は中国を侵略した。中国に謝罪しなければならない」との発言は、180度逆の妄言である。

 次章移行、1912年から中国で何が起こったのかを、時系列で公正に説明する。


中華民国


***クラスで話し合ってみよう***
  中華民国を侵略した国は、どこでしょう??

  (1)日本が侵略したのでしょうか? 日本が侵略したせいで、

     台湾だけになるまで領土が縮んだのでしょうか?

  (2)中華民国の領土を侵略して奪い取ったのは、何者でしょうか?。

          みんなで話し合ってみましょう。、

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中華民国の歴史(ウィクペディアから)

中華民国の歴史(ちゅうかみんこくのれきし)では、1912年に中国に樹立されたアジア二番目の共和制国家[3]である中華民国の歴史を記述する。なお、本稿の記述は中華民国が中国大陸を支配していた1949年10月1日までの歴史である。
台北遷都後(1949年10月1日 - 現在)の中華民国の歴史については、「中華民国」と「台湾の歴史#中華民国統治時代(1945年 - 現在)」をそれぞれ参照すること。
◆北洋軍閥時代(1912年 - 1928年)
中華民国成立
北京政府時代の国旗
北京政府とは、1912年から1928年まで北京に存在した中華民国の正統な政府である。北洋軍閥政府ともいう。
中華民国は、1911年の武昌起義に始まる辛亥革命において、1912年1月1日、南京において成立した(なお、国号については黄遵憲の「華夏」、劉師培の「大夏」、梁啓超の「中国」の他に「支那」や「大中華帝国」という提案もあったが、最終的には章炳麟の「中華民国」が採用された)。この時点では、北京に清国が存続しており「中国を代表する」政府が南北に並存する状況にあった。

しかし、同年2月12日に清国の皇帝、宣統帝である愛新覚羅溥儀が退位することによって、中華民国政府が中国を代表することになった。

(*辛亥革命がおきて、1ケ月後に清朝が崩壊したことになる。)

◆孫文と袁世凱
1912年の中華民国内閣初組閣時の記念写真
後列左より、農林総長宋教仁・交通総長施肇基・陸軍総長段祺瑞・司法総長王寵恵・翰長魏宸祖
前列左より、教育総長蔡元培・商工総長代理王正廷・海軍総長劉冠雄・外務部総長代理胡惟徳・総理唐紹儀。

袁世凱
(写真)中華民国成立を祝うポスター
左に袁世凱・右に孫文

南京に成立した臨時政府では、国家元首に当たる臨時大総統は孫文であった。だが、孫文は当時国内で最も軍事力を有し、また清朝の全権を握っていた袁世凱と交渉し、南北分裂状態であった中国を臨時政府によって統一させるため、宣統帝の退位、臨時約法の遵守といった条件と引き換えに臨時大総統職を彼に譲った。しかし、袁世凱は臨時大総統就任後、責任内閣制の導入を図る国民党(中国同盟会を改組したもの。現在の中国国民党とは異なる)の宋教仁を暗殺したほか、統治の拠点を自らの軍事基盤である北京において専制体制を強化した。こうした袁の専制への反発から、

1913年7月には江西の李烈鈞らが中心となって第二革命が勃発した。しかし、反袁勢力の結集に失敗して鎮圧され、袁は正式に大総統へ就任した。

第一次世界大戦の最中である1915年日本から出された対華21ヶ条要求(中国に於ける日本の利権を絶対的に保証する内容)を批准し、更には自らが皇帝となることを前提に帝政復活を宣言して国号を「中華帝国」に改めた。これに対して国内外からは非難の声が殺到し、雲南の唐継堯らが倒袁運動を展開(第三革命)したほか、袁の権力基盤である北洋軍閥の諸将からも反発を受けた。

このため袁は翌1916年に帝政復活取消を宣言せざるをえなくなり、権威を失墜させ、そのまま同年6月に病死した。(*1912年から1916年6月までの袁世凱時代)
◆中国国民党の設立
孫文
袁世凱の死後、中華民国には中国全土を完全に統治する「統一政府」が存在しない状態が生まれた(1916年 - 1928年)。*無政府時代:軍閥割拠時代(1916年~1928年)

そのため、軍閥が群雄割拠する軍閥時代となり、同時に大日本帝国やフランス共和国やアメリカ合衆国などの列強諸国による中国の半植民地化も進行したのである。しかし同時に、この時期には大日本帝国から出された対華21ヶ条要求の廃棄を挙国的に要求する五四運動(1919年)が起きたほか、陳独秀などが主導した新文化運動が広範な人々の支持を受けるなど、中国近代化を象徴する出来事が起こっている。また、1919年の寛城子事件のような日中の衝突に続き、1920年にはシベリアに派遣された中国艦隊が赤軍と協力して日本軍を殲滅する尼港事件を起こすなど戦力を充実させてきた。このような中、孫文は1919年に中国国民党を創建し、1921年には後の国民政府の基となる革命政府を広州で樹立した。

*いろいろと知らないできたことが多い。

*尼港事件(にこうじけん、)は、ロシア内戦中の1920年(大正9年)3月から5月にかけてアムール川の河口にあるニコラエフスク(尼港、現在のニコラエフスク・ナ・アムーレ)で発生した、赤軍パルチザンによる大規模な住民虐殺事件。港が冬期に氷結して交通が遮断され孤立した状況のニコラエフスクをパルチザン部隊4,300名(ロシア人3,000名[4]、朝鮮人1,000名[4][5]、中国人300名[4])

(参謀本部編『西伯利出兵史』によれば朝鮮人400-500名、中国人900名[6])が占領し、ニコラエフスク住民に対する略奪・処刑を行うとともに日本軍守備隊に武器引渡を要求し、これに対して決起した日本軍守備隊を中国海軍と共同で殲滅すると[4][7]、老若男女の別なく数千人の市民を虐殺した。殺された住人は総人口のおよそ半分、6,000名を超えるともいわれ、日本人居留民、日本領事一家、駐留日本軍守備隊を含んでいたため、国際的批判を浴びた[8]。日本人犠牲者の総数は判明しているだけで731名にのぼり、ほぼ皆殺しにされた[9]。建築物はことごとく破壊されニコラエフスクは廃墟となった。この無法行為は、結果的に日本の反発を招いてシベリア出兵を長引かせた。小樽市の手宮公園に尼港殉難者納骨堂と慰霊碑[10]、また天草市五和町手野、水戸市堀原、札幌護国神社にも殉難碑がある[11]。

(*朝鮮人と中国人が共に引き起こした国際事件で、『皆殺し』にするのが彼らの流儀だ!この事件はこの記事で初めて知った。)

*寛城子事件(かんじょうしじけん)

1919年7月19日に満洲寛城子(長春内の行政区分)で発生した日本人暴行事件に端を発した日中両軍の衝突事件[1]。長春事件とも呼称された[2]。
事件概要
1919年7月19日午前11時半、寛城子を通行中の南満州鉄道長春駅駅夫船津藤太郎が中国兵に故なく頭部を殴打され昏倒させられた[6]。

これに遭遇した邦人から駐留部隊に報告されたことを受けて[6]、駐屯歩兵第53連隊第1大隊副官住田米次郎中尉が下士官兵数名を従えて[11]、中国軍混成第三旅第二団[8]屯営に談判に赴き、松岡大尉の到着をもって中国軍在陣の営長と談判を行っていたところ、第二営の兵士等が事件を起こしたのではないかとされ第二営長に調査することを依頼し、

第二営長が直に調査することを約したところ、孟奎魁団長(孟恩遠の甥)が帰営するとの報告があり、休憩のために営長が日本軍将校を天幕内に招き入れようとしたところ銃撃が始まった[11]。

営長は銃撃を止めさせようとしたが銃撃は激烈になり、日中将校は四散した[11]。

また、屯営付近に警備のために控えていた30名の日本軍将兵に対しても銃撃が加えられ突然の銃撃に死傷者が続出した[11]。このため、駐留日本軍は、応援部隊を送り中国軍との間に戦闘が開始された[4]。しかしながら日本守備隊約50名と中国兵約1,500名との間に行われたものであったため衆寡敵せざることとなった[5]。
事件により
日本側に陸軍将兵以下17名、警察官1名の戦死者将兵17名、民間人1名の負傷者が出たが、中国軍は日本側に比べて軽微な損害であった[12]。事件当時、在長春日本領事館に来訪中であった高俊峯旅長等は事件の一報を受けて、日本領事館員等とともに自動車で現地に急行し、中国軍に対して射撃を中止せしめた[13]。

その後、遺体収容中に再び射撃が始まると高俊峯旅長は絶対射撃中止命令を出して止めさせ、遺体収容できるよう中国軍を撤退させた[13]。
20時には寛城子守備隊兵営にて、高士儐師長、高俊峯旅長、斉藤大佐、森田領事、林守備隊長、橋本警視等によって検死が行われ、
中国軍幕営付近で殺害された日本側の犠牲者は眼球をえぐり出され、耳を削がれ、顔面を切り刻まれるなどして惨殺されたことが確認された[13]。(*このような虐殺は中国人に固有の残虐性でと言える。)

蒋介石

また、孫文は成立したばかりのソビエト連邦(1917年建国)と接触し、その後の

1924年には中国共産党党員(1921年創党)がその党籍を保持したままで国民党への入党を認めるという、いわゆる第一次国共合作を行なっている。

孫文は1925年に死去したが、1926年になると蒋介石が孫文亡き後の国民党の主導権を握り、広州を起点に北伐を開始、その過程で軍閥なども糾合していくことによって中国の統一が進められた。
1927年に、蒋介石率いる国民革命軍が南京を占領するが、

ソビエト連邦のコミンテルンと、その指揮下にある中国共産党の指令、扇動による日本、イギリス、イタリア、フランス、アメリカの列強諸国の領事館を襲撃し民間人を虐殺した南京事件が起こるこの事件により蒋介石は共産勢力を敵視するようになり、

1927年4月国共合作を解消すると、上海、武漢などの各地方で国民党内部から共産党を掃討する運動、いわゆる上海クーデターを起こした。

この際、北伐は一時停滞、国民政府は蒋介石の南京国民政府(1927年4月18日)と、これに反対する汪兆銘等の「武漢国民政府」に分裂する。
しかし、劣勢な武漢国民政府は数カ月後の1927年8月19日には南京国民政府に合流することになり、結果、南京国民政府を主導する蒋介石の権力はより一層強固なものとなった。1928年4月8日に北伐が再開される。北伐に押され、北京から撤退した北方軍閥の張作霖が、6月4日に日本軍(関東軍)によって爆殺された後(張作霖爆殺事件)、1928年6月9日には国民党軍の北京入城によって北伐完了が宣布され、同年10月10日、蒋介石は訓政の実施を発布し南京を首都とする国民政府が正式に成立した。一方で、満州ではソ連に挑んだもののソ連軍に圧倒された(中ソ紛争)。さらに同年12月29日には東北の張学良が易幟を行ない国民政府に帰順する。ここにおいて、中華民国は各地の軍閥や共産党勢力といった反抗勢力を抱えつつも、南京国民政府によって一応の全国統一をみたのである。[4]

 

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