わたしのスペイン語
さて、8年前《フランス人の道》を歩いていたとき、わたしは
「オーラ(やあ)」
「グラシアス(ありがとう)」
「カフェ・コン・レチェ、ポル・ファボール(ミルク入りコーヒーください)」
以外のスペイン語をほとんど知らなかった。
今回は違う。
わたしは旅立ちの前の数年間、隙間時間のほぼ全てを語学にあて、その中でもスペイン語には多くの時間を使った。
ほぼ毎週末訪れていた夫の実家でも「何も家事を手伝わず外国語をやってる変な嫁」と思われるのを覚悟でNHKラジオ講座の予習を黙々としていた。
今思えばスペイン語の一応の基礎が身についたのは、労働の大部分を引き受け自由時間を与えてくれた夫と、好き放題机に向かわせてくれた義母のおかげであるともいえよう。
そして今スペインでいざ使おうとしてみると、
……いったいどうしたことであろうか。
旅の間に活用がすっぽ抜け、呪文のように唱えて覚えた過去形も未来形もさっぱり思い出せず、過去未来形や線過去や接続法などもう存在すら忘れかけている。
しかし一方場数は増えた。
巡礼初期にオスピタレイラ(巡礼宿の管理人女性)にアドバイスされたとおり、なるべく宿や観光案内所、バルではスペイン語で話しかけるようにしており、すると相手もゆっくり話してくれることが多い。
動詞の原形や単語を並べ、あとは身振りと指差しで補う。
文法はめちゃくちゃでも、たいてい意図は伝わる。
宿のチェックインや想定内の定型質問には答えられるようになってきたので、おそらくわたしのスペイン語力は夫の英語を超えたであろう。
かなりおおざっぱではあるものの「スペイン巡礼会話」を習得しつつある。
以前はわからなかった言葉が理解できるということが、とてもうれしく楽しい。
「英語を話す」という期待
巡礼32日目、その日も山を越え、バルのほとんどない区間を歩き、たどり着いたのはソト・デ・ルイニャという小さな町。
小さな町であるが教会、スーパーやバルがあり、アルベルゲ(巡礼宿)も複数あって、巡礼者にとっては投宿しやすい場所である。
わたしはドネーション(寄付)制の、夕食と朝食付きアルベルゲを予約しておいた。
早く着いたため宿のキッチンに荷物を置き、夫と町の散策に出かけ、巡礼者像の前で写真をとったりスーパーでおやつの買い出しをしたりした。
そして宿に戻りチェックイン。
4人部屋のドミトリーに荷物を運び込む。
私がシャワーを浴びている間に若い白人男性が同じ部屋にやってきた。
とりあえずの挨拶だけかわし、あとはいつもどおりカメラを充電したり日記をつけたり、細々とした用事をこなしていく。
そしてしばらくして気づいた。
その青年は決してわれわれには話しかけてこなかったが、他の白人の巡礼者には「今日はどこから歩いてきたの」など早口の英語で話しかけている。
これは面白い現象だと思う。
わたしがアジア系の人々に親近感を感じるように、その青年も自分に似た顔だちの人間に親近感を感じるのであろうが、決定的な差は「白人なら英語を話すだろう」という期待感である。
その青年の英語の流暢さと、英語以外で話しているのを滞在中見かけなかったことから、おそらく英語圏から来たのであろう。
巡礼者の共通語はたしかに英語になりやすいが、英語が母語である人間はむしろ少数派であって、スペイン人やフランス人やドイツ人が必ずしも英語が話せるわけではない。
実際にスペイン人とドイツ人の会話の手助けをわたしがしたこともあった。
一方アジア人でもフィリピンや香港の人々は英語を流暢に話す。
(フィリピンのマニラでは英語に「ポ」をくっつけるので、そうと知らずに旅したら英語圏の人間は度肝を抜かれるのではないか。
詳しくはフィリピン編を参照いただきたい。)
にもかかわらず、青年の中には「白人=英語を話す」「英語を話す=白人」という思い込みが少なからずあるようにみえるのだ。
この「白人は英語を話す」という思い込みは、わたしたち日本人にもあるかもしれない。
ともあれ海外を旅していると、「相手が国籍問わず白人には英語で話しかけるが、意図的にわたしたちには話しかけてこない」という状況は今回に限らずたまにある。
そうしたときわたしはちょっと意地悪な気持ちで、
「どうかな、なんか話しかけてくるかな」
などと思いながら黙って成り行きを見守るのである。
後編に続く。
(アストゥリアスに入ってからよく見かける花。
内部が毒々しい)
(夫が気になっていた花。
この花を正面から見ると↓)
(中心部分が深く、裏側にある飛び出た部分につながっていることがわかる)
(別々の木の枝同士がつながっている。
手をつないでいるかのよう)
(「ヤギにはわたしらはどう見えとんのやろな」と夫。
夫はよく動物の気持ちを想像している)
(民家に貼り付けられたイカしたタイル)
(ソト・デ・ルイニャの巡礼者像)