寺脇さんのこだわり
タイの遺跡の町、アユタヤのお気に入りのカフェ2軒目である。
この店も宿から徒歩圏内で、夫がgoogleマップで見つけた場所だ。
やや入りにくく席数の少ないその店は、男性一人できりもりしているようだ。
見たところわれわれと同世代で、若い頃の寺脇康文をややナイーブにしたような顔をしている。
カウンターの内側には様々な器具が置かれている。
わたしはタイのシングルオリジンを、夫はカフェラテを注文。
まず寺脇さん(と、われわれはひそかに呼んでいた)は夫のラテからとりかかり、見たことのない器具に挽いた豆を設置し、左右の持ち手をつかんでゆっくり力を込めて下ろした。
どうやら手動のエスプレッソ抽出機らしい。
よく目にする箱型のマシンとは形状が全く異なる。
見たところ、力加減で淹れ方を変えられるのではないかと思う。
そのエスプレッソをスプーンで舐めさせてくれ、いかにもラテに合いそうなコクと旨味のあるコーヒーであったので期待して待つと、ラテは期待通りたいへんにおいしい。
次にわたしのフィルターコーヒーへと移った寺脇さんは、コーヒースケール(お湯の量や時間を計る計測器)にタブレットをつなぎ、画面を見せてくれた。
抽出の時間と分量が書かれている。
それに沿って淹れられてゆくコーヒーはオレンジがかった綺麗な赤色をしており、まるで濃い紅茶のように見えた。
味は澄んでいてほのかな酸味がある。
とてもおいしい。
暑い暑いアユタヤにぴったりでゴクゴク飲めそうだが、そうするにはもったいない、丁寧に淹れられたコーヒー。
わたしたちはこのカフェも大変気に入って、1日おきにこのカフェを訪れたのだった。
2度目は「ゲイシャ」だ
2度目に訪問した際は寺脇さんにおすすめの豆をたずねた。
2つ勧めてくれたうちの一つはコロンビアの豆で、味は「ジャスミン、ベルガモット、ピーチ……」と続いて上品でさっぱりしていそうだ。
わたしはその豆のハンドドリップを、夫はタイスタイルコーヒー(前編参照)を注文。
で、注文してから豆の袋の裏側に書かれた値段を見て、わたしははっとした。
どれを選んでもせいぜい500円くらいだろうとたかをくくっていたが、それは倍の値段であった。
さらに表側をよく見ると、小さく「ゲイシャ」とある。
ゲイシャ。
ゲイシャか。
……ああ……ゲイシャ……なら仕方ない……っ。
寺脇さんの前だったので動揺を顔に出さぬよう努めたが、心中はかなり複雑であった。
ゲイシャというのはとってもフルーティーで稀少なコーヒーであるが、うまさも値段もとびきりである。
一杯のコーヒーとして許容できる金額を超えている。
しかしゲイシャはうまいので出会ったら飲みたい。
今回は値段を見なかったからこそ注文できたのだ、と自分に言い聞かせて平常心を保つ。
寺脇さんは前回とはフィルターを変え(今回は「オリガミ」という蛇腹のものを使っていた)、丁寧に丁寧に淹れてくれた。
そして見たことのない2種類の透明なカップで、器による飲み比べをさせてくれた。
口が広めで浅いカップ、そして細長く深めのカップの2種類である。
ゲイシャはやはりとびきりおいしく、酸っぱい酸味ではなく複雑な味だ。
浅いカップでは最後に甘味が強くなり、細長いほうはいろんな味が次から次へとやってくる。
夫とああだこうだと言い合いながら飲み比べていたら、寺脇さんが「細長いカップは酸味のある派手な味になります」と教えてくれた。
値段は高かったが、それは店の儲けというより、おそらく豆が本当にいいものなのだ。
よい豆を最大限活かしてくれる店で飲めてよかった。
寺脇さんはわれわれがゲイシャを飲み終わったあと、タイスタイルのコーヒーを出してくれた。
練乳の入ったこってりしたこのコーヒーは、ゲイシャと同時に飲むのはおすすめしない、という理由で後で出してくれたのだ。
なるほどたしかにそうであろう。
日本酒でもさらっとした純米大吟醸は一番初めに飲み、そのあと純米を飲むではないか。
そしてゲイシャはコーヒー界の純米大吟醸であり、タイコーヒーは磨きの少ない純米と言えよう。
インドネシアのジョグジャカルタで「コーヒーは日本酒である」という新説に行き着いたわたしは、やはりアユタヤでもその説が正しいのではないかと確信を深めた。
寺脇さんの言う通り、華やかなゲイシャのあとに飲むタイコーヒーはよりうまさがひき立ち、コーヒーのフルコースを堪能した気分になったのだった。
アートなマッチャ
アユタヤを出る前日の夕方、われわれはまた寺脇さんの店に行った。
わたしはいつものようにシングルオリジンのハンドドリップを注文したが、夫はめずらしい飲み物を頼んでいた。
「エスプレッソマッチャラテ」である。
この店に対する信頼感が醸成されていたことにより、夫は
「ちょっと変わったメニューでも、ここならおいしいんじゃないか」
と考えたのだった。
寺脇さんはまず抹茶をふるいにかけ、茶せんで抹茶をたてる。
そして一番下にタイの豆を使用したエスプレッソ、次にミルク、そして最後に抹茶の順でカップに注いでいく。
すると黒、白、緑の3色が綺麗に一つの容器におさまった。
「芸術や」
と夫は言った。
全く同感である。
普段飲み物や料理は徹底的に混ぜてから飲み食いする性癖のある夫も、さすがにこれは現状の3層のまままず味わうことにしたらしく、ストローを上下させ、顔を移動させながら味見した。
そしてにこにこしながらわたしに「飲んでみ」と言ってきたので試してみると、層のどの部分をとっても濃く、そしてコーヒー部分も抹茶部分もそれぞれに深いコクがある。
夫はその後そのアートな3色を徹底的に混ぜ合わせたが、混ぜると別のおいしさがあらわれた。
寺脇さんは翻訳機能を使って
「日本人に飲んでもらえる抹茶を作ることに興奮しました」
と言ってくれたので、興奮しているのはわれわれのほうです、と思いながらわたしは
「日本のマッチャ以上です……!」
と返した。
よく考えたら抹茶について何の造詣も持ち合わせておらず、抹茶と言えば辻利しか思い浮かばないていたらくだが、しかしそれでもこれは本当にうまい抹茶であり、コーヒーの苦味とよく合っていた。
寺脇さんのコーヒーを他のメニューでも試したかったが(タイでは暑いせいかオレンジコーヒーやらレモンのコーヒーがあった)、アユタヤの滞在は6日間で終わりだ。
しかしいつかまたコーヒーを飲むためだけにでも、わたしはアユタヤを再訪したい。
おいしいカフェは世界中にある。
しかし、新しいやり方や工夫に驚かされる機会はめったにない。
アユタヤはわたしたちにコーヒーの様々な楽しみ方を経験させてくれた。
この町は驚きと発見に満ちた、コーヒーの実験場なのである。
(最終日のタイのシングルオリジンは3種のカップで飲み比べ。
まるで理科室)
(コーヒーは芸術である。
REACH COFFEE Slow Barにて)