続・偏愛アボリジナルアート
と、いうわけでまだまだ続くアボリジナルアートの話である。
アボリジナルアートは「情報」であるというのがわたしの見解であるが、それだけではない。
アボリジナルアートは「地図」である
アボリジナルの人々は深く土地と結びついており、先祖から受け継いだ土地を「メンテナンス」するために実によく歩く。
もともと狩猟採集民族であり、自らの土地のエコシステムについて把握しているのだ。
(「自分の土地」といっても、わたしたちのせせこましい区画的な土地所有の概念とは違う。
なんせ白人に奪われるまで、彼らは広大な大陸を所有していたのだ。)
そのためアボリジナルアートには、旅や移動の要素が頻繁に出てくる。
また、彼らの世界観を表すキーワード「ドリーミング」もアボリジナルアートには深く関わっている。
「ドリーミング」とはアボリジナルの神話や世界観というふうに説明されるのかもしれないが、いろいろ読んでもいまだにピンとくる説明に出会ったためしがない。
今のところわたしは「先祖代々受け継いできた、土地と結びついた物語」といったイメージで受け止めている。
土地との関連、がミソだと思う。
アボリジナルアートで「ドリーミング」を表現すると、誰がどこそこの丘に行って何をして、次に川まで行って何をした、というような移動の形跡が一枚の絵の中に描かれる。
つまりアボリジニアートは彼らの土地や物語の「地図」である。
そしてその「地図」はとてつもなく広い範囲なのである。
下の2枚は全く異なるスタイルだが、どちらもわたしには「地図」に見える。
(NGV(ビクトリア国立美術館)の展示(以下同)。
Wing Tingimaによる《Minyma Tjuta》は、「セブン・シスターズ」つまり7人の姉妹の逃避行を描いており、最後に彼女たちは空へ移動しプレアデス星団となる)
アボリジナルアートは意外と「具象」である
アボリジナルアートというと高度に抽象化されたもの、さらには抽象化しすぎてわけがわからないもの、と思われがちである。
彼ら自身、部族の秘密をあからさまに描くのを避けるために抽象化したという面もあるようだ(これも以前読んだ英語の本によるもので、今出典を確認できない。
たしかそんな記述があった……と思う)。
が、アボリジナルアートには秘密性を持たず、一般に公開して差し支えないモチーフの方がはるかに多いはずであり、そうしたものはあえて抽象化する必要がない。
たとえばこれらの絵。
赤やオレンジの円や線や点々であり、一見抽象的に見える。
しかしわたしはこうにらんでいる。
意外とアボリジナルアートって、風景をそのまま表しているんじゃないか……?
そう思ったきっかけは6年前に参加した、アリス・スプリングスからの1日ツアーであった。
このときはジープでオーストラリアのど真ん中の地域をまわった。
見どころは大地そのものだった。
土は赤く、奇岩があり、岩山はときに横たわる動物のようであった。
そして山々の連なり。
どこまでもどこまでも広い空の下に赤い土地が広がっている。
その色はまさにアボリジナルアートによく見られる赤やオレンジだったのだ。
また、その赤い大地に生えている植物は丸くこんもりした小さなかたまり。
少しずつ間隔をあけて点在しており、
「アボリジナルアートのドット(点々)みたいだ!」
と不意にひらめいたのだ。
つまりアボリジナルアートは抽象画ではなく、彼らのものの見方に従って忠実に描いた風景画なのではないか。
……というのはわたしにとってはそう見える、というただの仮説であるけれども、そう思いいたった瞬間、それまでに見てきたアボリジナルアートの「わからなさ」が一気にほぐれたように感じたのであった。
で、後編に続く。
後編が本題である。
(Papunyaのアート運動が起こる何十年も前にAlbert Namatjiraによって描かれた、中央オーストラリアの風景。
これは「ザ・具象」の傑作)