1960年代の流行 | 直芯のブログ

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以前に日本は1960年代から始まったと書いたことがあるが、それ以前の時代はまだ第二次大戦の名残りがあったからで、今に続くもの全般、生活スタイルも文化も音楽も、ほとんどが1960年代に確立された。
今あなた達が生きているこの世界は、1960年代に完成したものなのだ。
それ以前は洗濯板や洗濯用石鹸を使っていた時代だった。
当然のことながら、映画がカラー作品になったのも1960年代なのだ。
ということは、それ以前の映画は本当の意味での映画ではなかったとも言える。
デジタル技術でHDリマスターになるのは、ほとんどが1960年代以降の作品なのだ。
1950年代~60年代とは、SFというジャンルで日本が世界一の技術を誇り、世界の先端をリードしていた輝かしい黄金時代だった。
後に登場するハリウッド映画のアイデアのほとんどは既に日本がやり尽くしていて、ハリウッドはそれを後から焼き回ししているだけということだ。
日本が外人の俳優を雇って英語のシナリオでSF映画を作り、世界に輸出していたのだ。
そして日本はバブル崩壊までの間、特許出願率も世界一で、自国の農産業が農水省に潰されたため、アイデアや技術力のみで外貨を稼いだアイデア大国だったのだ。
前置きはこれくらいにして、私はこの時代の経緯に非常に興味が湧いて来た。
一体あの時代の流行や人々の意識には何があったのかを振り返ってみたいと思った。

1960年代と言うと、多くの人がオースティン・パワーズの描いている音楽やファッションの世界観を思い浮かべるだろう。
それも間違いではないのだが、当時を生きていた世代は、何よりプレスリーと共に持ち込まれたアメリカ文化が思い浮かぶのではないだろうか。
エルヴィス・プレスリーがあの時代を作り、プレスリーがいなければロックもなかった。
後に続く偉大なミュージシャンもなかった。
そしてプレスリーと言ったら映画だった。
代表作でヒット作と言っていい『ブルーハワイ』が1962年5月に公開され、たちまち世の中を席巻した。
それ以降も映画は続き、60年代はプレスリーのミュージカル映画が次々と公開されるのだが、それを真似たのが加山雄三の若大将シリーズだった。

それと1962年に大ヒットしたのはゴジラ映画だった。
ゴジラ映画は1954年に第一作が作られたのではないかと言う人もいるが、とんでもない。
確かに第一作はその年であり、翌年には第二作『ゴジラの逆襲』が公開されているが、一旦それで終わりだった。
そこでゴジラ映画は終わっているのだ。
私達が今見ているゴジラに繋がるイメージやシリーズは、1962年8月に公開された『キングコング対ゴジラ』に端を発する。
この映画の出来が良かったからシリーズ化されたのだ。
それに前二作は白黒映画であり、そういう意味でも区別して考えた方がいい。
その間の東宝映画は、様々なSF映画にチャレンジしていた模索の時期だった。
『キングコング対ゴジラ』からゴジラ映画のブームは始まった。

その次の流れとしては、007シリーズの第一作『007は殺しの番号』が1963年6月に公開され、大ヒットしている。
007がきっかけで様々なスパイ映画やそれを真似た冒険活劇が大量生産された。
モンキー・パンチの『ルパン三世』初期のコミックも、この映画の影響をふんだんに受けている。

そこからも影響の度合いが窺い知れると言うものだ。
その後もシリーズは順調に年一ペースで作られ、日本を舞台にした1967年の『007は二度死ぬ』が大きな話題になったり、途中低迷しながらも1977年の『私を愛したスパイ』が大ヒットしてブームになったりした。
その大元は1960年代から始まっている。

その後の変化としては、1964年10月10日に東京オリンピックがあったことが大きな出来事だった。
この動きは1964年以前から話題になって着々と準備が進められて来たとも言えるが、この時から大阪万博までの間に日本が完成したと言われる。
この時にテレビが普及し、大阪万博が終わった頃には、どこの家庭にもカラーテレビが1台置いてある時代になったのだ。
東京オリンピックで流行語となった日本の体操選手のウルトラCという技から『ウルトラQ』という番組タイトルができた。
『ウルトラQ』の放送が始まったお陰で、1966年1月から日本では毎週怪獣の出て来る特撮ドラマが観られるようになったのだ。
こんなことは日本だけで、よその国ではテレビで怪獣が見られるなんて考えられなかった。
怪獣を見たければ映画館に行くしかなかったのだ。

1966年4月には、イギリスのテレビドラマ『サンダーバード』が始まった。
これも大きな出来事だった。
なぜなら、ここから『ウルトラマン』『仮面ライダー』『ガンダム』が生まれたと言っても過言ではないからだ。
音楽業界のエルヴィス・プレスリーと同様、『サンダーバード』がなければ何もなかった。
当時『ウルトラQ』を制作していた円谷英二は、憶測ではあるが『サンダーバード』を見て大大大ショックを受け、そこから多大な影響を受けて『ウルトラマン』の構想が生まれ、もう次の作品を作りたくて作りたくてどうしようもなくなったと思う。
『サンダーバード』が始まってから3箇月で『ウルトラQ』は終了し、同年7月から後番組『ウルトラマン』が始まった。
ウルトラマンという巨大ヒーローと科学特捜隊という特殊部隊の組み合わせはアイデアの相性としてドンピシャで、初めから完全なものがいきなり現れたので度肝を抜かれた。
残念ながらその2週間ほど前に『マグマ大使』が始まり、日本初のカラー版巨大ヒーローの座は奪われてしまうのだが、完成度の高さから『ウルトラマン』の方が遥かに大きな評価を受けた。
この『マグマ大使』を制作したピープロが後に『スペクトルマン』を制作し、それが『帰ってきたウルトラマン』と『仮面ライダー』が放送される火付け役となったので、円谷プロとピープロは当初から影響を与え合ったライバル関係だったかも知れない。

最後の大きな出来事は1969年に集約される。
その後長く続くあらゆるものがこの年に生まれた。
007よりも作品数が多くてギネスブックに載っている『男はつらいよ』シリーズの第一作が1969年8月に公開されている。
さらに秋には、ドリフの代名詞と言っていいモンスター番組『8時だョ!全員集合』が1969年10月4日から始まっている。
その翌日5日には、アニメの長寿番組でギネスブックに載っている『サザエさん』の第一話が始まった。
これらが全て同じ年というのは凄いことではないか?
ドラキュラとフランケンシュタインのアイデアが同じ日、同じ部屋で生まれたというのは有名な話だが、それと同じようなエネルギーや何らかの熱気を感じる。
こんなことを書きながら新年を迎えようとしている私にとって、2022年はいい年になるのだろうかと考えてしまう。

ちなみに翌年1970年にはノッポさんで有名な『できるかな』が始まっている。

これらの流行を経て、時代は1970年代へと入って行ったのだ。
思えば東京オリンピックから約10年は戦後最大のベビーブームと言って良く、その中心となったのは1940年生まれを中心とした世代の子供である1969年生まれであり、その後もテレビやメディアやレジャー産業は、1969年生まれをターゲット層に選定して動いて行く。