涅槃 | QVOD TIBI HOC ALTERI

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Das ist ein Tagebuch...

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 「瞑想の際、私は何をしたでしょうか?私はとてもシンプルなことをやっていたというか、実際のところ何もしてはいなかったのです。私はただ、いまこの時に起こっていることに、ふれ続けていただけでした。」

 「物事は生じては滅してゆく。それらはどこに行くのか?どこにも行きません。それはただ消えるのです。生じる前には、物事はどこにあるのか?どこにもありません。それらはどこから来たわけでもなく、どこに行くわけでもないのです。
 
  これもまた非常に深遠な教えです。自分自身でそれを観察した時に、あなたにはその深さがわかるでしょう。いかなる心の瞬間(心刹那)、いかなる現象、形ではなく感覚、そして経験。これらのものは、どこから来たわけでもなく、どこに行くわけでもない。何かを経験する前は、その経験はどこにあるのか?どこにもありません。何かを経験した後は、その経験はどこに行くのか?どこにも行きません!  ここで語られているのは、現象の直接経験についてです。抽象的なものでは全くない、本当の直接経験。音は経験であり、聞くことは経験です。触れることは経験であり、動きは経験。こうした全ての経験がいま生じており、そしていま滅しているのです。」 
 
 「そうしてあなたは、精神的・物質的プロセスの停止へと着地する。プロセスのこの停止状態のことを<道心(magga-citta)>と呼んでおり、その対象が涅槃です。これはたいへんな速さで、非常に短い数瞬の連続のうちに起こります。それぞれの心の状態というのは、おそらくは千分の一秒、あるいは百万分の一秒といった、非常に短い時間しか持続しませんからね。それぞれの心の状態は連続的に起こり、その時にはもう後戻りすることはできません。その後には完全な静寂、完全な静止がある。生成するものは存在せず、消滅するものも存在しない。もう観察は存在しません。あなたはもはや観察していないのですからね。

 
 涅槃の状態に入る前でも、それがいかなるものであり得るかということを、外側から理解することは可能です。もしこの精神的と物質的のプロセスが停止したら、完全な平安があるであろうが、しかし自分はまだその状態に入っていないのだ、ということが、あなたにはわかりますからね。涅槃の状態に入った時、あなたはそれをもはや観察していない。観察が可能であるためには、あなたはその外側にいなければなりませんから。だから瞑想者がこの涅槃の状態にある時には、その人はもう涅槃を観察してはいないのです。それを観察することはできません。自身の精神的な状態を、観察することすらできないのです。

 
 道心の後には、直ちに果心(phala-citta)が続きます。この果心(結果の意識)は道心と同じもので、唯一の違いは、それが煩悩の根絶をしないことです。果心の後に、観察智(paccavekkhana-Jana)と呼ばれるもう一つの洞察智がありますが、そこであなたは、<何かが起こった!一瞬前は、すごく安らかで、生成も生滅もなく、とても静かで、とても明らかで、完全な平安だった>と思い返す。 
 

 停止状態へ迫り、そこへ入っていくというのは、心の非常にパワフルな状態です。ひとたびそれが起こると、全く違った感覚をあなたはもつ。道心は一刹那だけ起こることで、また果心は二刹那――エネルギーの状態によっては、ひょっとしたら三刹那――の間に起こることですから、しばらくすると、あなたはその状態から出てきます。そして、その後になってから、何が起こったのかを思い返すのです。この反省が起こっている時、心は非常に落ち着いて安らかであり、あなたは振り返って涅槃の状態について考えます。この観察智は、実のところ一種の思考です。あなたは考えて、完全な平安とは、精神的と物質的のプロセスの完全な停止であるということを理解するのです。 
 

 瞑想者は多くのことについて熟考します。道について、果について、涅槃について、そして根絶された煩悩と、まだ残っている煩悩について。悟りの最初の段階によって、我が存在するという誤った見解(有身見)と疑い、即ち、見(ditthi)と疑(vicikiccha)が除かれ、完全に根絶されます。既に最初の洞察智においても、見と疑の一部、つまり有身見と、また前世と来世で起こることや、他の多くのことに関する疑いは克服されている。この状態においては、誤った見解と疑いの、完全なる根絶があるわけです。」 
 
 「その瞬間、心は五蘊のどれも観察できなくなります。無常も苦も無我も、また我も、観察できなくなるのです。完全な静謐と停止が、ただ知られるのみ。こうして瞑想者は、涅槃とは現象の完全な停止であることを理解するのです。これについて語ることは、たいへん難しい。それは存在しないものではありません。涅槃とは<何も存在しないこと>だと言ったならば、同時に私たちは、<涅槃も存在しない>と、言えることになりますからね。 
 
 涅槃とは一つの経験です。その瞬間には、対象と観察が停止する。その二つのものが停止するのです。瞑想者には、全てが終焉したように感じられます。これについて例を挙げることなんてできるでしょうか?  この状態は、言葉を超えたものです。それについて語ることはできません。それはまるで、重い荷物を運んでいて、それを下ろしたようなものです!  あるいは、何かとても重いものを引っ張っていて、ロープがプツンと切れたようなもの! 
 

 以下のパーリの一文は、簡潔で明晰です。 "yaṃ kiñci samuda­ya­ dhammaṃ sabbaṃ taṃ nirōdha dhammam." (SN 56.11)
  
  samuda­ya­ dhammaṃ とは、生成する本性を意味します。何であれ(yaṃ kiñci)生成する本性をもつものは、全て(sabbaṃ)消滅する、消失するという本性をもっている(nirōdha dhammam)。あなたはこのことを、非常にはっきりと観察する。何であれ生成する本性をもつものは、完全に消滅するという本性をもっているのです。

 

 この洞察智の後、瞑想者はその経験を反省し、サンカーラの終わりが涅槃、即ち完全な平安であることを理解します。…


  涅槃の経験によって起こる変化については、二、三の重要な点があります。瞑想者は有身見(sakkaya-ditthi)、即ち我の存在を信じること、疑(vicikiccha)、即ち疑い、そしてまた戒禁取(silabbataparamasa)を克服しています。戒禁取を克服することは、とても重要です。瞑想の方法論には多くのものが存在し、また多くの人が瞑想している。彼らが瞑想していると言うことは可能です。瞑想には多くの側面がありますから。しかし、もしある人が、単にサマタ(止、samatha)瞑想を実践することによって、完全な自由がもたらされ得ると信じているならば、それは一種の戒禁取です。ブッダの時代に存在した一部の行者たちは、ただ牛のように振る舞うことで、解脱がもたらされるであろうと、つまり全ての煩悩がまさに焼き尽くされるであろうと信じていました。動物のように実践し、身体を苦しめることで、全ての煩悩が焼き尽くされ、清浄になるであろうと信じていたのです。これは一種の誤った実践です。戒禁取とは、誤った実践のこと。何か誤ったことを実践し、それが自由をもたらすであろうと信じることです。… 」(Sayadaw U Jotika, "A Map of the Journey.")

 

 「生成する本性をもつものは全て、完全に滅するという本性をもっている。」有名な「転法輪経」の一節である。つまり、諸行無常である。そしてこれは誰にでも見える事実である。それ故、人は「そんなの当たり前だ」と言う。桜が散る。春が来て、夏が来る。盛者必衰で、人が死ぬ。「そんなの常識で、誰でも知っている。だから何だ」と言う。違うのである。一時も何も持続しないのである。瞬間瞬間、生じては即座に滅しているのである。今あることはもう二度と生じない。同じことは二度と起こらない。一切は常に新しい。取り付く島もない。これが「諸行無常」である。

 

 しかし、ただそれだけのことで、確かに大したことではない。だから、一切皆苦なのである。私見では、苦とは価値のない、つまらないという意味をも有する。一期一会なのであるが、別に感情的になるほどのものでもない。我々生命とは、いわば水泡程度の存在に過ぎない。とはいえ、上述の「形成されたものは滅する本性を有する」という指摘は、確かに意味深である。何があっても尽く滅するという事実は、何もする必要がないと同時に、何の問題も生じ得ないということを意味する。ないものに対して、我々は本来は何も出来ないからである。

 

 生じたものは滅する本性を持つということは、ものが実在しない(継続的に存在できない)ということも意味する。我々は本来空無である。実在していない。実在しないから、生きることができる。というのも、生きるとは、千変万化することである。千変万化するということは、実体がない証拠である。つまり、我々はないから、あることができる。これが「諸法無我」である。

 

 自(主体)も他(客体)も実在しないのならば、一体我々は何を主体的に為す必要があろうか。しかも、何をしてもしなくても、良いことも悪いことも、一切は生じたら全て滅する。後始末する必要がない。何もしなくても、それで皆済んでしまう。これを大安楽と言わないで何と言うべきだろうか。だから我々はすでに、そして常に、涅槃にいる。今、すでに絶対の安穏にいるのである。これが、「涅槃寂静」である。

 

 諸行無常で諸法無我ではあるが、目の前の現実は絶対である。微動だにしない。不生不滅である。事実は絶対の帰依処なのである。結局のところ、無始なる過去からの行為の結果に過ぎない現在の状況に適切に対応して、自他の不利益にならず、自他の利益になるように、ただ、無為で過ごせばいいだけである。これが涅槃の過ごし方である。