パレスチナ紛争 | QVOD TIBI HOC ALTERI

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„Was du dir wünschst, das tu dem andern“.

 坐禅会に行ってきた。独参で、ご老師(以前参禅していたご老師のご兄弟)に、「坐禅中、考え事をするなと言われますが、どんなに妄想していても、必ず止みますから、そんなこと必要ないです。ずっと妄想していられませんから。妄想しているときは妄想しているだけで、それが事実です。」と申し上げたら、驚いた表情をされていた。いつもやられっぱなしなので、もう、自暴自棄である。

 思えたら、思えただけ。別にどうということはない。実際には何の(現実的)問題も生じない。しかし、その思えたことを気にしだすと、苦悩することになる。実際には何の問題もないのに、自分で問題を作り出す。それで困りだす。これが人が苦悩する有様である。全て自分がやっているのである。

 

 しかも思いや思考には実体がない。目に見えないし、触れない。要するに、ないものなのである。ないものを気にしてそれに苦しめられるというのが、我々人間なのである。完全にイカれていると言っても過言ではないと思う。思考概念が現実ではないことを知らないからである。よって、人間世界が混乱するのは必然である。坐禅や瞑想の目的は、この錯誤を正すことである。私はそう思っている。

 


 上記の話と若干関係があるが、昔、大学の学部生の時、世界の紛争問題を扱った講義を聴講したことがある。その講義の中で、パレスチナ紛争のドキュメンタリー映画を見せられた。それで、パレスチナの人々の住む町が丸ごと、イスラエル軍の戦車やブルドーザーで粉々に破壊されていくという、とんでもない光景を目にした。言葉に出来ないほどの大変な衝撃を受けた。あまりにもショッキングな映像で、それでその日は心が騒いで寝ることができなかった。それどころか、その日以来、始終その光景が頭から離れず、気が狂いそうになったほどである。

 

 しかし、そんな混乱した様子で一ヶ月程度経過したある日、思い悩んで疲労困憊した通学途中の地下鉄の中で、今の自分にはそういった状況を解決する力など微塵も持ち合わせていない以上、独りで苦しんでも何の意味もないということに気づき、やっと落ち着くことができた。この経験以降、自分がどうすることも出来ない事柄は、気にしても仕方がないという、当たり前のことを学んだ。愚かで世間知らずなので、この程度のことも分からなかったのである。


 そして世の中の出来事のほとんど全てが、自分がどうすることもできない事柄、管轄外の出来事である。気にしても仕方がないし、いわんや感情的になる必要もないことである。それなら放っておくしかない。原発問題然り、政治経済問題然り、社会問題然り、である。一方、自分の管轄内のこと、目の前のことで実際にやれることは着実に、そしてしっかりとやればいいし、それは可能である。

 

 我々一般人の責務は、社会を良くするとか、世の中を正そうとすることではなく、己の身心を正すことだけである。当たり前の事であるが、あの原発事故以降、やっとこうしたことが分かるようになってきた。もちろん、遅きに失した感はあるが。