身心脱落と脱落身心 | QVOD TIBI HOC ALTERI

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 井上義衍老師の「身心脱落と脱落身心について」(『宗学研究』第二十三号、53-56頁、昭和56年3月)という一文を目にした。我々修行者にとって極めて重要な点が述べられていると感じ、備忘のため、全文引用して掲載する。


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「身心脱落と脱落身心について」

井上義衍


 身心脱落は、一言で云へば声聞縁覚等の学道の様子である。即ち自己を認めた上から仏教を学び、本来の面目を見せしめんとする道で、真の仏の教えではない。仏の真意ではない。本懐ではない。
 

 脱落の身心は、本源自性天真仏なり。即ち本来の面目たる仏智見を開き、元来仏であり、大道そのものであり、法自体である自己の真性を徹見するの道である。此に注意して置きたいのは、本源自性天真仏とか、本来の面目とか云うと、直に天然見、自然見を起してこの様な見方、思い方をして、其の態度で生活すればよいかの如くに思い勝ちであるが、これは天然外道見で仏法ではない。仏道は必ず発心修行菩提涅槃と修行の過程がある。此の経路なくしては仏道は実現しないのである。
 

 高祖道元禅師の現成公案の冒頭にも云はれているが如くに「諸法の仏法なる時節すなわち迷悟あり修行あり生あり死あり諸仏あり衆生あり」とある通りに、人は生まれると必ず知らないうちに自我を認める。これ無明なり。ここにこの自我を認める執性がある。此の執着する性質に随って、自他の見を起し環境と人との区分をし、此の見を教育し来るが故に、自性の真性を知る事が出来ぬ。人生々活と云へば必ずこの自我見の生活である。この故に見解以外に道有る事を知る者は一人も無いのである。これに気付かれたのは人類始まって以来仏以外にはおられない。人類の苦の根源を徹見し、人類苦を根本的に拭い尽してくれる道は仏法以外に絶対にない。此に於いて邪見としての迷い苦しみを絶滅するのが、発心修行菩提涅槃なのである。
 

 此の故に云う、「万法ともに我にあらざる時節まどひなく悟りなく諸仏なく衆生なく生なく滅なし」と。これ忘自己の実現である。此に於て始めて本源自性天真仏、本来の面目が実現するのである。道元禅師が如浄禅師の処に於て身心脱落せられる迄は、天然自性身が絶対に信じたくっても信じきれなかった。一般にも、信じたくって種々理由を付けて信じる人が有るが、信じ切れるものではない。自問自答する時に必ず不信の起るもので、絶対に真に自分自身で許せるものではない。これは古今の道に於ける鉄則である。
 

 脱落身心は即ち法華経開演以後の道である。普勧坐禅儀の冒頭に示された「道本円通争か修証を仮らん、宗乗自在何ぞ功夫を費さん、況んや全体迥かに塵埃を出ず、孰か払拭の手段を信ぜん、大都当処を離れず、豈に修行の脚頭を用ゆるものならんや」と。又、本来本法性天然自性身と云はれた仏教研究の決論を得られた真相である。

 

 如浄禅師と道元禅師の在り方を見るに、道元禅師が如浄禅師を拝し「身心脱落し来る」と云はれるのに対して直下に「脱落身心」身心を脱落して来たというが、初めより脱落の身心じゃあないかと証明せられている。然るに道元云く「這箇は暫時の伎倆(この宗毫末なれども沙界含有せり)師猥りに印すること勿れ」と。即ち忘自己の一刹那から自覚を得る時の一刹那、自己が先きに起るか、法が先きに起るかに依り、此の一刹那に声聞となるか、仏智見(本来の面目)となるかの危機一髪(紙一重)の処が有る。浄云く「猥りに印せず脱落脱落」と一々が自己の見解を離れきった様子じゃあないかと、直下本来の面目自体を示され、道元禅師は、ここに於て参学の大事了りぬと云はれている。これ浄祖が明眼の師なるが故に此の危機一髪の処を示された。これによって道元禅師も此の危機から脱する事を得た。師の明眼の重大性を深く感ずる処である。
 

 趙州の如き人ですら、即ち、十八歳の時破家散宅(なにもかも忘じきった体験)した人ですら、若し南泉なかりせば声聞の人となるところ、南泉に依りて仏智見に徹せられた。

 

趙州云く「如何なるか是れ道」
南泉云く「平常心是道」
趙州云く「還って趣向を仮るや」

南泉云く「向はんと擬すれば即ち乖く」 

趙州云く「擬せずんば争かれ道なることを知らん」 

南泉云く「道は知にも属せず不知にも属せず知は是妄覚。不知は是れ無記、若し真に不疑の道に達せば猶太虚の廓然として洞豁なるが如し。豈強いて是非すべけんや」と。

 

 これは気が付かれた後の問答です。然るに、如何に有る可きか、これから如何にあればよいのか、道に対して今の自分はどうあればよいのかと、疑いが起きたので、師の南泉に道に活るとは如何に有る可きかと問う。南泉云く、平常心是道と、一々道ならぬはない。皆道じゃと示されたが趙州には通じない。己に離れた自己なるに従前の自己を認めた為に、道と隔たる。この故に還って趣向を仮るやと、即ち師の境涯まで進まねばならんでしょうと。まだ自我の見を離れる事が出来ない。故に道に人我の見を起して、自ら道と一如にならんと造作する。これを知る南泉、向う様はないと直示す。重ねて自己を道に造り変える必要はないと示されたにもかかわらず、猶曽つ進まねば解らないではないか、師の境涯まで行かねば解らないではないかと、あくまで造作して止まぬ。そこで泉云く、道は知にも属せず不知にも属せず。道は人が知る知らぬ解かったから道であるとか、解らねば道ではないとかと云う事ではない。其れらは皆人我の見の上の様子であり、言分である。知は是れ妄覚、不知は是れ無記、知っただけ余分なことじゃ。妄想を描いた。一方は全くの門外漢で、こうした真実の在り方などどうでもよいという人の様子である。若し真に不疑の道に達せば猶太虚の廓然として洞豁なるが如し豈強いて是非すべけんや。今の処に疑いもなにもなければ、どうして居なければならないと云う心配も何にもなくて、この身心の活動がある。これが道なのじゃというを聞い初めて趙州も眼が醒めたのである。ここに於て仏の悟られた境界を真に実証し得るのである。ここに於て趙州が真箇趙州たることを得たのである。此れ等の如きも、師(南泉)に依り声聞道から離れ、仏の智見を開き、自在の人となった。山上更に山有りとは此の事である。これ等は、真の忘自己、即法身としての自己に徹せしにも拘らず、再び従前の人を見る、即ち悟を得た人を見るなり。この大きな誤りを知らぬ故に、元来なき自己を知りながら、誤って自己の見を生じ、此の身心をして、法の如くせんとて血涙を以って修行するも、法の如く自在ならずと嘆く人多し。古仏と称される趙州も、廓然の処に至って初めて此の見を離れて自在人となる事を得たり。これ偏えに南泉の明眼に依る。然るに一般的に云へば、この誤った道の方を実行する事の方がより真実の如くに思はれ勝ちで、世俗に喜ばれるものである。六祖慧能と神秀上座の如きは何人が見ても能く解る。即ち神秀云く「身是菩提樹、心明鏡如台、時々勤払拭、勿惹塵埃」慧能云く「不菩提元樹、明鏡亦菲台、本来無一物、何処惹塵埃」と。宗教の名称の付いたものが沢山あるが、真実を示す教は、仏の教以外にはない。皆人見の上に起きた宗教と云う言分の範囲で、見が見を起して気分を暫く変化させる程度のものである。

 

 昔より多くの人師が悟後の修行とて、今の我等を法の如くなる迄、血の涙を流して訓練に訓練を重ねられるのは、皆の一大事を明らめず、身心脱落と脱落身心の違いを知らざる故である。


 白隠和尚に代表される様に「大悟十八遍、小悟その数を知らず」と云う様なことがありますが、こう云うことを聞かされて、何回も何回も悟らなければ本当の悟りが得られない様に思はれますが、それは一方から云いますと一寸と変化があった、その変化の小さいのと、大きいのとの違いであって、矢張り底抜けじゃなくて途中辺の在り方なのです。

 本当の悟りと云うものは「終り初もの」とある様に、一回きりのものです。それは、どうしてかと云うたら、見たいと思うていたものを一回見たら、もうそれで疑惑は起きんのです。事実を見たんじゃから。ところが、それに疑惑が起きるんじゃったら、本当に見たんじゃなくて、どこか見損ねておったんです。何かがあったんです。それだから、そう云う様なものを皆悟りとか、見性とか云うてごっちゃにするから、それで色々に悟りと云うものに対する批判が出るのです。 

 

 幸に、高祖道元禅師には、此の悟後の修行としての訓練の用がないまでに、徹底せられた。これが仏の本懐である、大悟である。故に「眼横鼻直なることを認得して一毫も仏法なし」と又「一生参学の大事ここに了りぬ」と明確に述べられ「道を得心を明らめて衝天の志気を挙し、入頭の辺量に逍遙すと雖ども幾んど出身の活路を虧闕す」と云はれる所以である。これ仏智見と声聞縁覚等の人の境涯と万里の隔てある事を知る可し。以上は全世界に於ける宗教の実態である。識者のよく知る処である。

 誤りを誤りと知らず、愈々深みにはまり込んで、どうしようもない有様である。此の故に我れ、事更に声を大にしてこの事を述べて置くものである。

 仏教が何故に人類に対して必要な教えであるかを改めて一考願い度いものである。