全て敵 | QVOD TIBI HOC ALTERI

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Das ist ein Tagebuch...

 全て自分、一切は自分の様子である。自分でないものはない。他人の目で物を見た人も、他人の耳で音を聞いた人もいないはずである。この世界は、自分しかいない、自分そのものなのである。こちらが自分でそれ以外は他というような境界線も事実もない。それどころか、こちらは自分、それ以外は他と区別するのも、自分なのである。本当に、この世界は自分一人の独壇場である。

 

 事実はそうであるが、このちっぽけな身心を自分と誤解し、独立して存在する自分があると誤解すると、同様にちっぽけな身心を有する、独立して存在する他者がいると誤解するようになる。この身心は単なる「身心」に過ぎず、本来誰でもないし、誰のものでもない。つまり、「自分」であるわけがないので、全くの錯誤なのではあるが、これを自分と思い込むと、何が起こるのか?そうすると、自分と誤解した、非常に限定された身心の存続を脅かす他者という存在が、多数生じてくる。

 

 そうすると、元々ない(限定的な)自分の存続のために、元々ない(限定的な)他者と抗争しなければならなくなる。つまり、自分以外は全て敵といった状況が生起してくる。しかし、この抗争は不毛であるだけでなく、必ず敗北に終わる抗争である。何故ならば、実在しない敵相手の抗争であるだけでなく、敵とみなされた他者は、実は自分(の様子)だからである。自分で自分を殴っているようなもの、同士討ちなのである。自滅するのは当たり前である。

 

 それでは、自分の存続を確保するために、他者と仲良くすればいいのでは、ということになるわけであるが、仲良くする相手があれば、仲違いする相手が必ず出てくる。余計ごとなのである。したがって、一切は自分という事実に即して、殊更に相手を作り出さなければいいだけである。そのためには、この身心を自分と誤認し限定してはいけないということになる。

 

 というのも、限定すれば、必ずそれ以外(他)が出てくる。そうすると、そこに争いの種が生じる。そうではなくて、一切が自分なのである。事実はそうなのであるが、世間を見てみると、多くの人が、自分を矮小化し限定し、他者を作り出し、自分が作り出した他者と諍い争い格闘し、全ては敵といった妄想の中で、徒に疲弊し斃れている。幻覚を相手に、独り相撲を取っているのである。その様子は哀れというよりも、滑稽である。

 

 限定された、つまり、不完全な自分があれば、同じく限定された、不完全な他者が生じてくる。本来完全な全体を人為的に分別、限定すれば、それは事実に反する故に、あらゆる齟齬が生じてくる。しかし現実は、自もなく他もなく、是非善悪もなく、足不足もなく、何の問題もなく、絶対的に円成しているのである。