日々雑感 | QVOD TIBI HOC ALTERI

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Das ist ein Tagebuch...

(1)事実を言う人、真相を指摘する人は、大体、相手にされない。相手にされないどころか、下手をすると誹謗中傷攻撃の的とされる。何故か?ほとんどの人は、事実には興味がないから。それどころか、事実を嫌っているからである。

 

 事実とは、明々白々なこと、当たり前のことである。例えば、見ようと殊更努めることなくものが見える。聞こうと努力しなくても音が聞こえる等々、である。理解を要するものでもなく、秘匿されているものでもない。今の有様そのものである。ちなみに、そんなことを人に言ってみると、大抵、それが何だ、そんなことが何の役に立つ、と返ってくる。今の有様ほど、重要なものはないにも関わらず…。最も大切な事柄であるにも関わらず、誰も興味を持とうとしないのが事実真相である。

 

 逆に、事実でないこと、嘘偽りを言う人は、大体、世間の脚光を浴び、衆人の関心の的となり、称賛されさえする。例えば、玄関にある物を置くと運が良くなるとか、このお守りを買えば事故に遭わないとか、毎日あるお経を唱えれば金持ちになれるとか、あるお寺でご祈祷してもらえば癌が治るとか、もう巷に溢れている。そして嘘にも関わらず、それにのせられる馬鹿な人たち。事実を嫌い、道理に反することを好むからである。

 

(2)週末は、坐禅会に通っていることが多い。田舎のお寺でやっているような、参禅者が精々十人程度の小規模な坐禅会は、何の問題もない。理想的な坐禅会である。違和感を感じるのは、参禅者が数百名を超え、全国各地に支部を持つような、大規模に組織化された坐禅会・瞑想会である。これではまず指導者が全員を指導することは、不可能である。

 

 それに、求道や修行と組織化は、相反するものである。修行はあくまで個人的な事柄であり、組織や集団とは相容れない。他人を必要としないからである。それ故、精神的な事柄で組織化が生じると、それは大体堕落につながることが多い。

 

 求道する人々の集団が生じ、組織化されると、何が起こるのか?他人を気にしだすのである。そうなると、大抵は本当の修行が疎かになる。見せかけの、他人に見せるための修行が始まるからである。自分自身に目を向けなければならないのに、他人の目が気になるようになる。法に用があるのに、人が気になる。

 

 そしてその次は、大抵、指導者の神格化、(目の開いていない)取り巻き連による「信者」の序列化、信者同士の張り合い、である。こうなってくると、もはや真相の追求のための修行どころではなくなってくる。どんなに指導者が卓越していたとしても、こんなところに関わっていれば、本来の修行ができない。したがって、そんな集団からは距離を置くか、離れるかした方が、身のためである。

 

 私は、日本人は本来、求道や仏教に向いていない民族であると思っているが、その根拠がこれである。