道元禅師の真意を学ぶ(2) | QVOD TIBI HOC ALTERI

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 この八日は成道会と申しまして、お釈迦様が悟りを開かれた日です。では、悟る、とはなんでしょう。一言で言えば、自分自身の本当の有り様を見届けることです。それを自覚と言っています。自らに目覚める。自覚をした人を仏陀と言います。何を悟るのかと言えば、申し上げたように、自分自身の内容なのです。だからお釈迦様も修行をしながら、なにと付き合ったのかと言えば自分と付き合ったのです。

 
 そうでないのならば、立派な図書館にでも毎日通って、書物からただただ知識を得れば良いわけです。そうでなければ、学者さんのところでも行って、貴重なお話をたくさん聞いて、どんどん知識を貯える。一般的には賛嘆されるわけです。頭が良い、利口であると言われる。

 でもお釈迦様はそんなことをしていないんですよね。くる日もくる日も自分自身と向き合った。自分自身の有り様、知識や考え方ではない、まっさらな自分自身に触れておられた。そして自覚されたわけです。

 みなさん、自分の中に疑問が起きた時に自分でその疑問に応えていたら、まさしくそれは自己流になりますよ。自分の都合の良い応えを自分で用意する。それで良しとしてしまう。でも仏道とはそういうものではないのです。そういうことから離れないと、いつまでたっても本当の意味での得心がいかない。 
 

 「人は皆な身心あり」。これは身と心とは読みません。身心で一つです。身体だけで生きている人はいません。心だけで生きている人もいません。必ず一緒にあります。西洋の学問では身と心を分けるようになった。だけど実際に、どこまでが身体の様子で、どこまでが心の様子と生活していて分けられることではないのですね。「作は必ず強弱あり。勇猛と昧劣となり」。これは、これから一時間坐禅をしましょうと言った時、余裕で坐っていられる人と、疲れ果ててしまう人といます。一生懸命に取り組める人とそうでない人もいる。道元禅師様はどちらが良いとは言っておられません。その各自のそのままで修行ができる。「この身心をもって」、仏道を学ぶ。それ以外にはないのですね。
 

 このことは、考えてみたら当たり前なんですね。 みなさん、今日までどう過ごしてきましたか。この地球上にはすごい数の人が暮らしていますが、生まれてこのかた、ずっと自分の目でものを見てきましたね。他の人の目を借りて見たことはないでしょう。耳だって、良く聞こえるからと、他の人の耳を借りて何かを聞いたことはないでしょう。自らの身心で、ものを見て、音を聞いてきた。生涯そういうものですね。

 人は、他人の事をやった事は一度もないのですよ。そんな事はないと思われますか。誰かが、これやっておいてと人に頼む。頼まれた人はその人のためにやってあげたと思う。だけど実際には、私がやったのです。頼んだ人がやったわけではないでしょう。この頭が、あの人に頼まれたことをやってやったと思っていても、真実としてはそんなことはありませんね。この身心がやったのですから。だけど、頭がやってあげたと思っているから、ありがとうの一言もないと腹を立てる。そんなことに腹を立てなくても、生涯自分のことを生きるだけなのです。この身心の活動だけなのです。

 いま、私の話を聞いてくださっていますが、それだってみなさん自身の耳が聞いているだけです。考え方として頭で理解するだけです。真実がわかったのとは違いますでしょう。先ほどの話で言えば、今日の内容を実践して得心して、初めてみなさんのものになるのです。


 ものを見たり聞いたりして、むかっとする。これはどこに問題があるのでしょうか。見たもの、聞いたものに問題があるのでしょうか。見た目や聞いた耳に問題があるのでしょうか。問題を起こしている のは、自分の頭の中でしょう。日常の生活を振り返ればよくわかりますね。同じような状況になっても、 腹が立つ時と立たない時があるでしょう。何が違ってそうなるのか。自分の頭の中の問題なのですね。 最初に「擬議の一念」と出てきましたが、これが生きる上で自分自身をそうとう左右してしまうということなんです。

 同じように、皆さんは人に言われたことがいつまでも残ってしまう。思い返しては腹を立てている。そこから離れる力がない。だけど、皆さん方の身体を見てご覧なさい。どこにも留まっていませんよ。見たものが目にずっとくっついていますか。聞いたことがずっと耳に残っていますか。                

 いったいいつ捨てたのでしょうか。見たもの、聞いたものを捨てようと思って捨ててきましたか。なにもしないのに、皆さんの有り様というのはこんなにうまくできているのです。これが皆さんの本心、本来の面目です。皆さんの有り様はこれから修行して作るのではない。すでにできているのに、気付いていない。知らないから、頭で色々考えてとんでもない方向に道を求めていくのです。
 

 お釈迦様は自分の本心の有り様に目覚めたのです。ですから普通の教えとはぜんぜん違うのです。道元禅師様はこのことで言葉を遺されています。当時の日本の仏教界への批判ですが、「心外に法を求めしめ」「他土の往生を願わしむ」。ほとんどの教えが、自分のいまの有り様の他に本当のものがあると教えている。これは人を迷わせ乱れさせる根本だ、と。間違いなく誰も、いつでもこの身体といつも一緒なのです。この身体以外で生活できません。仏教とか禅というものが、自分の身体以外にあると思ったら大間違いなのです。

 二つ目の文章は、頭に浮かんでしまった疑問や考え方をどう対処すれば良いのかが書かれています。

 「念起れば即ち覚せよ。之を覚せば即失す。久久に縁を忘じて、自ずから一片となる。」

 坐禅をすると、眠ってしまうという人がいます。ときどき、どうしたら眠くならないのかと聞かれます。 ごもっともな質問ですけれども、でも、眠っていた、と自分で気がついたら、その時に寝ている人はいません。寝ていないということは、解決しているということです。だけど人間の頭はそうは思わないんですね。今はそうだけれども...とすぐ言うんです。これから先、また寝るかもしれないと心配するんです。思いを相手にすると厄介なんです。「之を覚せば即失す」。探し物でも見つかると、物事を考えたり、思い描く「念」というものはすぐになくなるんです。 

 最後に坐禅の効用についてご紹介します。みなさん、坐禅は無功徳、何にもならないと教わっている方が多いと思いますが、道元禅師は天福本に六つも効用を挙げられておられます。 

1.四大軽安...物質界を構成する四大元素(人間の身体)が軽やかで安らか。つまり身体自体が坐禅をすると軽くなる、安らかになる。気にするものがなくなったら、楽になるのは当たり前です。 
 

2.精神爽利...物事に対する気力が割り切れてネチネチしない。ああじゃないか、こうじゃないかといつまでも考えるのをやめて、本心に触れると、どうあれば良いかわかるわけです。

3.正念分明...邪念を離れ、物事がはっきりする。
 

4.法味資神・仏法の妙味を味わう力を助ける。
 

5.寂然清楽...静かで心や行ないに汚れがなく、清々しく簡素でけじめがあり、とけ込める。自己主張のない状態。どんなものでもとけ込むことができる。 
 

6.日用天真也...日々の生活が自然のままで飾りっ気がない。偉ぶることもない、へりくだることもない。 

 このような素晴らしい効用が得られると天福本では書かれているのに、なぜ流布本でカットされているのでしょうか。それは、こうしたことを目的にした坐禅を嫌ったからです。これらのことは、坐禅の副産物なのです。本当の坐禅は、思いや考え方から離れて、まっさらな自分と付き合うことなのです。

 本日は若き日の道元禅師が示された「普勧坐禅儀」の天福本から、より坐禅に真剣に取り組んでいただければと思い、お話をさせていただきました。
 

 ありがとうございました。(合掌)

 

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 以上で引用は終わり。私にとって響いた言葉:「坐禅の時に、いま自分の中で問題になっていること、気にかかっていることを思い起こして、ああだった、こうだった、どういう事なのか、どうすれば良いのかと、思慮分別を使って探ってみたり、詮索したりしている。そうしたことを止めなければ、坐禅にならない。」

 

 考えてどうなるわけでもないのに、ああだこうだと詮索する。しかも、貴重な坐禅の最中に。馬鹿者は何をやっても馬鹿者である。今どき坐禅などというものに興味を持つ人がどの程度いるかわからないが、この提唱を読めば間違いのない坐禅ができる。坐禅を行ずる上で、肝心要のポイントなのに、誰もはっきりとは教えてくれない点を明示してくれているからである。