道元禅師の真意を学ぶ(1) | QVOD TIBI HOC ALTERI

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 現在参禅しているご老師の提唱が掲載されている冊子(成願寺「季報」113<平成29年6月18日>)を見かけたので、以下、全文引用してみる。

 

 

平成二十八年一泊坐禅会 提唱
道元禅師の真意を学ぶ
静岡県少林寺東堂 井上貫道

 こんばんは。これから一時間ほどお時間を頂戴しまして、本日は一泊坐禅会でございますので、坐禅を修行するのに役に立つのではないかな、というお話をさせていただきます。 曹洞宗の開祖道元禅師様は「普勧坐禅儀」という坐禅の指南書を遺しておられます。日頃から坐禅に 親しまれている方でしたら、よく読まれていると思います。永平寺に所蔵されている国宝の「普勧坐禅儀」、これは道元禅師様の真筆で、天福本と呼ばれています。実はこの天福本にはあって、みなさんが日頃より読んでおられる流布本には無い文章がございます。本日はその元々天福本にある三つの文章に注目し、その内容をお話してまいります。


 早速一つ目の文章を見てまいります。これは冒頭のほうで出てまいります。 

 「須く知るべし、歴劫の輪廻、還って擬議の一念に因る。塵世の迷道、覆た商量の無休に由る。向上の徹底を超えんと欲せば、唯だ直下の承当を解すべし。」

 これはどういうことかと申しますと、坐禅の時に、いま自分の中で問題になっていること、気にかかっていることを思い起こして、ああだった、こうだった、どういう事なのか、どうすれば良いのかと、思慮分別を使って探ってみたり、詮索したりしている。そうしたことを止めなければ、坐禅にならないと言っておられるのです。

 みなさんには、ご自分が坐っている時のその内容を思い返してみていただきたいのです。坐禅の際、どういうふうにして過ごしていますか。作法通りの形で坐っていますけど、それは外身だけです。それだけで坐禅をしていると思ったら、ちょっと的外れなんですね。坐った時に、どのように過ごすかということが、重大な鍵なのです。この重大なことが、一般的には、不明確。問われていないのです。

 考えてみますと、足を組んで、背筋を伸ばして坐るなんてことは、そこにテキストでもあれば、難しいことではないんですね。誰でもできます。それで一時間こうして坐っていれば、坐禅をしたことになるのかと言えば、そういうことでは無いんですよ。

 ここで先ほどの文章を見てみますと、最初に、「須く知るべし」、是非とも知るべきだと断った上で、「歴劫の輪廻」、無限とも思える長い長い間、あれこれと思い計ることにより、「還って擬議の一念に因る」、決択がつかずにぐるぐる、ぐるぐる廻っている。「塵世の迷道」この汚れた世界で道に迷っているのは、「覆た商量の無休に由る」、条件、種々の状況などを計り、考えることが休まないからだ。


 「擬議」というのが、ああだった、こうだったとくよくよと思うことです。「商量」というのは、商いという字に量るですから、値踏みをするようなものでしょう。例えば、畑で育てた大根などは値段が付いていないでしょう。それを抜いてきて、作り手と買い手が量り合って、いくらにしましょうと値段を決めるようなことが商量。お寺の世界で商量というのは問答のことといって良いでしょう。そういったことをいつまでもやっていると、決択がつかないんですね。

 結論としては、「向上の徹底を超えんと欲せば」、これは、本当にどうあるべきかと言えば、「唯だ直下の承当を解すべし」というのです。

 ここで、参考文献として同じく道元禅師様の示された「学道用心集」の第十に「直下承当の事」という項がございます。これを読んでみますと、理解できるのではないかと思うわけです。直下というのはいまのことです。承当というのは、そのとおりに受け継いでいくということです。

 「右、身心を決択するに、自から両班有り。参師聞法と、功夫坐禅となり。聞法は心識を遊化し、坐禅は行證を左右にす。これを以て佛道に入るに、なお一を捨てて承当すべからず。夫れ、人は皆身心あり、作は必ず強弱あり。勇猛と昧劣となり。また動、また容、この身心をもって、直ちに佛を証す、これ承当なり。いわゆる従来の身心を回転せず、ただ他の證に随い去るを、直下と名付くるなり。承当と名付くるなり。ただ他に随い去る、ゆえに旧見にあらざるなり。ただ承当し去る、ゆえに新巣にあらざるなり。」 

 こうした一文でございます。まず決択を着けるということですが、これは、手放しで安心できる状態になること。疑いが残らないことです。そういう状態になるためには、「参師聞法」、師に付いて教えを聞く。そして、「功夫坐禅」、教えられたことを実践するという二つのことが必ず必要だという。「なお一を捨てて承当すべからず」、どちらか一方だけでは、ことは成就しません。 

 本当の意味での理解というのは、頭でわかっただけでは難しいですね。実践する、また実際に触れてはじめて得心がいきます。例えばトマト、文章をよく読んだり写真を見れば、赤い色だとか、どんな味なのかとか、一応の理解はできる。だけど実物のトマトを見て触って食べてみると、直下、いきなり誰でもはっきりします。理解の仕方がぜんぜん違う。本物に直面すると、理解でなしに得心がいくようになっています。われわれも修行をしていますと、必ず同じようなことになる。

 そもそも最近の仏教、禅というものが、思想に落ちてしまっているように思えてなりません。ちょっと勉強して説明ができると、それらしく見えてしまう。それでは頭で一応の理解をしているだけ。本来はそういうものではないのです。

 修行とはどうすれば良いのかが、はっきりしないでいるから、坐禅をしていてもいつも気にかかる。あの本にはこうして書いてあった。あの人はこんなことを言っていた...、そう自分の中に疑問がわき起こり、坐っている間中、自分の中の考え方というものを相手に時を過ごしてしまう。これでは坐禅とは言えません。

 坐禅がなぜ尊い行かと申しますと、普段の生活と時の過ごし方がまったく違うのです。思えたことでも、考えをつけないとどうなるか。問題が起きません。悩まないし、苦しまない。悩んだり、苦しんだりしている時は、必ず自分でつまらない考え方を起こした時でしょう。自分の中の思いや考えが自分を苦しめたり、悩ませたりするのではないですか。
   
 では、そういうことをやめたらどうなるか。やめれば、いま生きている自分そのものが出てくるのです。坐禅をすると、必ず本心にふれる。考えや思いではなく、事実・本心。それが坐禅の時に用いる非思量なんですね。

 教えられたとおりにできれば、手放しに安心して坐ることができる。すると自分の本心に出会える。自分のこと、自分がどうあるかがゴロッと出てくるのです。自分を知るということは、他の人ではできないのです。

 

 たとえば外の音を聞くのに、それが人の声であったり、車の音かもしれません。そこにはただその音がしているだけです。そこに自分の思いや考えを起こして、うるさいなと思ったら、音を聞いているのではなく、思ったことを相手にしているのですね。
 
 坐禅も同じことなのです。坐っている間、思いや考え方から離れて、実物に親しくするのです。そうでなければ、坐禅そのものと違ってしまうのです。  

(続く)