ヒトラーは「産業事故」だったのか | QVOD TIBI HOC ALTERI

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 見ているドイツ紙("DIE ZEIT")に気になる記事が掲載されていたので、例によって雑ではあるが、和訳してみる。

 

 タイトルは、"Deutsches Kaiserreich: War Hitler doch ein Betriebsunfall?" とあり、「ドイツ帝国:ヒトラーは結局のところ産業事故であったのか?」と直訳できる。推測するに、NSDAP(国民社会主義ドイツ労働者党:ナチス)の権力掌握を単なる偶然と見なす研究に対し疑義を呈する記事であろうか。「ドイツ帝国の近代性についての論争の背後には、今なお紛糾的な問題が存在する。1871年と1933年を結び付けるものは何であるのか。」なお、この記事は、ベルリンのフンボルト大学の近代史名誉教授であるハインリヒ・アウグスト・ヴィンクラー (Heinrich August Winkler) による寄稿とのこと。以下、内容である:

 
 ドイツ帝国建国150周年は、ミュンヘン防衛大学で近現代史の教授を務める歴史学者ヘドヴィヒ・リヒター (Hedwig Richter) による諸著作を含む、大量の刊行物を惹起した。ZEIT Nr. 4/21 上で、彼女は再びお気に入りの論敵、近代におけるドイツの特別な道のテーゼの実際あるいは想定された擁護者に目を向けた。彼女の干渉のきっかけは、マールブルク大の歴史学者エッカート・コンツェ (Eckart Conze) によるある論文で、それは、1918年の君主制転覆後のワイマール共和国において、民主主義にとっての負担であることが判明したことを無視してまで、ドイツ帝国の進歩的側面を強調することに対し、警告を発したものであった(ZEIT Nr. 2/21)。

 コンツェに対するリヒターの返答は、ドイツ帝国の支配が「国家社会主義を直線的に」導いた、である。彼女はあらゆる「特別な道の説明」への同様のショートカットを想定している。実際、彼の最新の著書である『ドイツ帝国の影』において、コンツェは、ー19世紀~20世紀のドイツの発展の特殊性を強調するすべての歴史家と同様にー1933年が1871年以来のドイツ史の「避けられない終着点」であったという主張に断固として反論した。 

 この分野の研究の中心的な問題のようなものがあるとすれば、それはドイツが1930年代初頭に大惨事への道を転げ落ちて行った、より根本的な理由についてである。ヒトラーが必然的にも偶然にも権力を掌握したわけではないことは、意見の一致がある。彼の首相就任は最後まで回避できた。1933年1月30日に、パウル・フォン・ヒンデンブルク大統領がヒトラーに政府機関の最高職(首相職)を与えたという事実は、この出来事が長い前史を有することを否定するならば、説明し得ない。

 ドイツ帝国はこの前史の一部である。失敗に終わった1848年革命への対応と考えられる、上からの改革によって生じたもので、非常に矛盾した構造を有した。この国は、世界に冠たる卓越した科学者を擁する高度に発展した工業国であっただけではなく、いくつかの点で模範的な立憲福祉国家でもあった。その建国以来、イギリスやベルギーのようなリベラルな模範的君主制よりも早く、ドイツ帝国は(男子の)普通・平等な参政権を実現し、したがって強力な民主主義を享受していた。しかし、1871年以前には、ドイツには議会に責任を負う政府が存在しなかった。帝国宰相は、選挙によって成立した帝国議会(国会)にではなく、皇帝に責任を負っていた。ドイツ皇帝とプロイセン王の軍事司令権(統帥権)は、大臣の副署さえ必要としなかった。それは、この帝国に部分的絶対主義をもたらした。

 ドイツ帝国は、第一次世界大戦での軍事的敗北によって、1918年になってやっと議会制君主国になった。それは、陸軍最高司令部(OHL)が、講和を望む、帝国議会の多数派政党である、社会民主党、カトリック中央党および左派自由主義の進歩人民党に、休戦協定と講和条約の交渉の責任を押し付けようとしたからである。最初のドイツ共和国のすべての負担の中で、これは最も重いものであった。すなわち、若い民主主義は、右翼国粋主義の反対派にとって、敗北の産物として、西側戦勝国の政府の一形態として、非常に「非ドイツ的な」システムとして、みなされたからである。

 1930年の春、ワイマールの最後の議会多数党政府が崩壊し、それとともに議会制が崩壊した。その代わりに、民主的に選出された帝国大統領、ヒンデンブルク元陸軍元帥の緊急勅令による半権威主義体制が誕生した。この状況で、1930年9月の選挙以来、議会第二党の党首であったヒトラーは、帝国の非同時的民主化の主な受益者であることが証明された。すなわち、1918年以降、最終的に女性にも適用された普通選挙の早期導入と、政府システムの遅れた議会主義化。それ以来、NSDAPは、ワイマール共和制の議会制民主主義に対する広範な憤慨だけでなく、ビスマルク時代から投票権の形で明文化されていたものの、ワイマール共和制末期の大統領政権下ではほとんど効力を発揮しなかった、国民参加権にも訴えることができた。

 しかし、ヒトラーは選挙の勝利によっては権力を握ることはできなかった。1932年11月6日の二回目の帝国議会選挙で、彼の党は200万票以上を失い、共産党はほぼ70万票を獲得した。ヒトラーを首相に任命することを長い間ためらっていたヒンデンブルクを説得したのは、東エルべ地方の大土地所有貴族(ユンカー)と一部の重工業資本家からなる旧ドイツ帝国のエリートたちであった。これらのエリートが1918/19年の革命を通じて権力を維持できたという事実は、ドイツ帝国と「第三帝国」の間の議論の余地のない連続性の一つである。

 リヒター教授は、これについて何も述べていない。彼女の2020年刊行の著作 "Demokratie. Eine deutsche Affäre" を読むと、法の支配と民主主義の観点から、他の国々、特にアメリカの欠陥について多くを学ぶことができるし、女性運動はもとより、ドイツ帝国の進歩的な側面についても同様である。その一方で、帝国の権威主義的、国家主義的、軍国主義的特徴については比較的少ない叙述にとどまっている。

 同様に、彼女が有名無名のワイマール共和国の代議士について著述していることは興味深くかつ有益に読むことができる。しかし、共和国の解体は彼らによって問題とはならない。彼女は、中央党のハインリヒ・ブリューニング首相の下で議会によってまだ容認されていた穏健な大統領制と、フランツ・フォン・パーペンやクルト・フォン・シュライヒャーといった短命の首相による、1932年の権威主義的転換について、一言も述べていない。

 権威主義体制は戦間期のヨーロッパに出現した。高度に発展した工業国であったドイツがなぜ、1929年以降の危機の中で、旧西側で唯一、民主主義体制を右からの全体主義独裁に置き換えたのか?ーそれは人文科学者や社会科学者を何世代も悩ませてきた問題である。ヘドヴィヒ・リヒターはこの疑問に答えない。1933年に関しては、彼女の著作は、実際のところ意図的ではないだろうが、1950年代の西ドイツでまだ普及していた古い国家弁証学的論文の復活につながる。つまり、「第三帝国」はドイツ史における一種の産業事故であったと。…


 以上である。ドイツ近現代史を研究していた者にとっては、興味深い記事であるが、日本の近現代史と重複する場面が見えてしまうのは、単なる錯覚であろうか。特に興味深かったのは、"die ungleichzeitigen Demokratisierung des Kaiserreichs" (ドイツ帝国の非同時的な民主化)に関する記述である。最も進歩的な普通選挙権の存在と、その一方での統帥権に見られる絶対主義的な皇帝権力、更には議院内閣制の不在など、ドイツ帝国の矛盾した構造が、その後継国であるワイマール共和国の脆さにつながったという示唆は、目が覚める思いがした。

 研究を止めた身ではあるが、やはりドイツ近現代史は、抜群に面白いと思う。