山上の垂訓 | QVOD TIBI HOC ALTERI

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Das ist ein Tagebuch...

 「…しかし、聞いているあなたがたに言う。敵を愛し、憎む者に親切にせよ。のろう者を祝福し、はずかしめる者のために祈れ。あなたの頬を打つ者にはほかの頬をも向けてやり、あなたの上着を奪い取る者には下着をも拒むな。あなたに求める者には与えてやり、あなたの持ち物を奪う者からは取りもどそうとするな。

 

 人々にしてほしいと、あなたがたの望むことを、人々にもそのとおりにせよ。自分を愛してくれる者を愛したからとて、どれほどの手柄になろうか。罪人でさえ、自分を愛してくれる者を愛している。 自分によくしてくれる者によくしたとて、どれほどの手柄になろうか。罪人でさえ、それくらいの事はしている。また返してもらうつもりで貸したとて、どれほどの手柄になろうか。罪人でも、同じだけのものを返してもらおうとして、仲間に貸すのである。

 

 しかし、あなたがたは、敵を愛し、人によくしてやり、また何も当てにしないで貸してやれ。そうすれば受ける報いは大きく、あなたがたはいと高き者の子となるであろう。いと高き者は、恩を知らぬ者にも悪人にも、なさけ深いからである。あなたがたの父なる神が慈悲深いように、あなたがたも慈悲深い者となれ。

 

 人をさばくな。そうすれば、自分もさばかれることがないであろう。また人を罪に定めるな。そうすれば、自分も罪に定められることがないであろう。ゆるしてやれ。そうすれば、自分もゆるされるであろう。

 

 与えよ。そうすれば、自分にも与えられるであろう。人々はおし入れ、ゆすり入れ、あふれ出るまでに量をよくして、あなたがたのふところに入れてくれるであろう。あなたがたの量るその量りで、自分にも量りかえされるであろうから」(ルカ 6:27-38)。

 

 上記は、新約聖書中の有名な「山上の垂訓」の一部である。以前にも同様のことを書いたが、高校生の時、私はこの聖句を初めて目にした際、これは生身の人間のできることではないと思った。つまり、絵空事であると思った。だからやってみようとも思わなかった。しかし、今にして思えば、人が上記の教えをを忠実に実践すれば、その時からこの世界は瞬時に理想郷となる。何となれば、自分は他人であり、他人は自分であるからである。自他の区別は、本来はないからである。

 

 だから、与える者は与えられ、助けるものは助けられ、慈しむ者は慈しみを享ける。逆に、奪う者は奪われ、虐げる者は虐げられ、殺すものは殺されるのである。

 

 結局の所、「自分も、自分のものも、ない」という、この一言に帰着する。そして、全てが自分でも自分のものでもないということは、言い換えれば、全て自分であり、全て自分のものであるということにもなる。そうなると、聖書に書かれていることは、当初私が思ったような空想ではなく、真実そのものであったということなのである。

 

 しかし、このことを信じることが出来ないから、人は相争い、苦しみ、そして滅びに至る。なんとなれば、「自分がいて、他人がいて、自分のものがあり、他人の物がある」という世間の常識は、事実真相に反するからである。