実相(1) | QVOD TIBI HOC ALTERI

QVOD TIBI HOC ALTERI

„Was du dir wünschst, das tu dem andern“.

 前回同様、タイのブッダダーサ比丘の著作を、和訳してみる。今回も、『人間ハンドブック』(Buddhadāsa Bhikkhu, "Buddhismus verstehen und leben: ein Handbuch für die Menschheit," Hrsg.: Buddhistische Gesellschaft München e.V., 2006)という著作の、第二章を読んでみる。

 

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Ⅱ 事物の本質


 「宗教」という言葉は、「道徳」という言葉よりも広い意味を持つ。道徳とは、内的および社会的調和をもたらす行動様式であり、基本的に世界共通である。一方、宗教はより高次の秩序の実践の道であり、実践の様式は宗教によって大きく異なる。

 

 道徳は、一般的に適用される社会的共存の原則に従って行動する、誰も悲しませることのない善良な人々を作り出す。しかし、いくら最高の道徳的基準を満たした人であっても、苦しみから逃れられない可能性は十分にある。生、老、病、死に伴う苦を根絶するには、そして、貪、瞋、痴の専制を終わらせるためには、道徳だけでは不十分なのである。


 宗教、特に仏教は、あらゆる形態の精神的苦痛の破壊を目的としており、純粋な道徳をはるかに超えている。これを理解したら、今度は仏教自体に目を向けることができる。

 
 仏教は、事物の本質について、体系的かつ実用的な知識を生み出すために特別に意匠された、実践の道である。この知識は、適切な実践方法と密接に結びついている。この定義を覚えておけば、仏教の理解に問題はない。


 事物の本質を知っているかどうか、自ら吟味して確認して欲しい。我々が誰であるのか、どのような人生であるのか?あるいは、仕事、義務、生活手段、お金、財産、名声などを「知っている」としても、完全に知っているとは断言できない。事物が本当はいかなるものなのかを知っていれば、不適切な行動をとることは決してなく、何かに苦しむことは決してない。しかし、実際のところ、我々は事物の本質を知らず、その結果、適切に行動していない。それが、我々の日常生活に苦が存在する理由である。仏教の実践の目標は、事物が実際にどのようになっているのかを確認することである。この知識は、おそらく最高の果実である、涅槃への道とその果実を我々が得るのに役立つ。なぜならば、煩悩を除去するのは、事物が実際にどのようになっているのかに関する知識であるからである。


 事物に対する我々の熱意は、事物の本質を認識するやいなや失望に変わる。その後、事物は自動的に手放され、もはや我々を苦しめることはない。我々が事物の本質に気付くまで、我々が夢中になっているすべてのもの、我々が好み、望み、楽しみ、欲し、執着し保持しているすべてのものが、継続性がなく不十分であり、そして実体がないという理解を欠いている。仏教の方法論を用いて事物を適切に見ることにより、我々はそれらの影響範囲から脱出できる。

 

 ここで、「四聖諦」を用いて、正確な定義を示したいと思う。「四聖諦」の最初のものは、すべてのものが苦しみであると述べる。それは事実に正確に対応しているが、そのように見えないので、我々はそれらを欲する。事物が苦しみの源として認識され、把握して保持する価値がなく、束縛される価値がない場合、我々は確かにそれらを欲しないはずである。


 第二の「聖なる真実」は、欲望が苦しみの原因であることを我々に指摘している。そのように見えないので、我々はそれを欲する。というのも、苦しみを引き起こすという欲望の本質を理解していないからである。

 

 第三の「聖なる真実」は、苦しみからの自由、涅槃が欲望の完全な消滅にあることを示している。我々にはこれが実際に何を意味するのかを知らない。つまり、涅槃はいつでもどこでも、欲望が完全になくなると達成できるということである。我々は人生の事実を知らないので、欲望をなくすことにも、涅槃に到達することにも興味がない。


 四番目の「聖なる真実」は「聖なる八正道」と呼ばれ、欲望を取り除く方法である。欲望が破壊される「八正道」は、この世界で最も優れた価値のある人間の知識の一部である。ただし、我々はそれを積極的に育成すべき助けとしては認識していない。ブッダの「聖なる道」に興味を持つ人はほとんどいないーなんと恐ろしい無知であろうか!

 

 「四聖諦」は、事物の本質についての情報を提供する。それは我々が欲望の火で戯れるならば、我々自身が燃えること、そして、我々が人生が苦しみに満ち溢れるまで欲望に執着することを指摘する。これはまさに愚かである。我々は事物の本質を知っているわけでもなく、したがって、我々の行動が正しいこともほとんどない。我々は、自分たちの欲望に屈服することを正しいと考える「願望の奴隷」の価値観を固持し、次のように述べる。「我々が望むものを得ることができれば、その行動は正しい。」しかし、精神的な意味では、これは正当化されない。

 

 三蔵のある箇所で、サーリプッタは、すでに悟っていた比丘アッサジに教えの本質について尋ねている。アッサジは、「条件によって成立したものについて、如来は我々に原因を示し、原因が取り除かれるとそれらがどのように消えるのかを示した。これが大師が教えていることである」と答えている。

 

 そして彼は言う、「すべてはその生成に寄与する原因によるものである。原因が除去されない限り、何かを破壊することはできない。」これは、なにものも永続的で独立した単位とは見なさないように、という警告である。永久的なものは何もない。原因から生じ、原因がなくなるとすぐに存在しなくなる結果のみがある。すべての現象は原因の結果にすぎない。世界は、絶え間なく相互に影響を及ぼし、変化する力の自然の永続的な流れにすぎない。仏教は、ものそれ自体が存在しないこと、実体も「自我」もないことを示している。あるのは、因果関係の軛に自由がないために、非常に満たされない、絶え間ない非永続性の流れだけである。不十分さは、変遷過程が停止したときにのみ停止し、変遷過程は、その原因と相互の影響がなくなったときにのみ停止する。これは、覚者だけがなし得る、事物の本質に関する最も深遠な説明である。これが仏教の核心である。それは、事物が一時的なものに過ぎず、我々がそれらを愛憎するほど愚かであってはならないことを示している。心を真に解放するということは、拘束の原因を完全に取り除くことによって、因果関係の連鎖を断ち切ることを意味する。このようにして、「好き」「嫌い」によって生じる不適切な状態が消え去る。

 

 教えのもう一つの重要な部分は、すべてのものに共通する上記の三つの特徴、すなわち、アニッチャ(無常)、ドゥッカ(苦)、アナッタ(無我)である。この教えを知らなければ、仏教を知っているとは言えない。

 

 すべてのものが無常である(諸行無常)と我々が言うとき、それはすべてのものが絶えず変化していて、それらの中に一定の本質がないことを意味する。一時も変化しないものは何もない。

 

 すべてのものが苦しみである(一切皆苦)ということは、すべてのものに苦しみと苦しみの源となる、固有の可能性があることを意味する。したがって、すべてのものは本質的に不十分で失望をもたらす。


 「私」または「私のもの」と呼ぶことができるものが本当に見つからないため、すべてのものは自我ではない(諸法無我)。手を差し伸べて握ろうとすることで、それらを支配したり所有したりできるふりをすると、最終結果は必然的に苦しみである。

 

 

(続く)