明晰な洞察(5) | QVOD TIBI HOC ALTERI

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 (これにより)心は完全に疑いを克服します。もはや何かについて確信が持てず、疑念を抱くこともありません。疑いがないということは、人がもはや逡巡したり、修行を通して自分の道を探す必要がないことを意味します。これにより、人は自然と調和して生き、そして行動します。この世界で最も自然な方法で、平和に暮らすことになります。争いの中でも平和を見出すことができます。何の問題も起こさずに、この世界に完全に住むことができます。仏陀はこの世界に住まわれていて、この世界の真っ只中に真の安心を見出すことができました。仏法の修行者として、皆さんも彼に続くことを学ぶ必要があります。いかなる形式においても、物事の認識に迷わないでください。欺瞞的である認識に執着しないでください。それらを過度に重視しないでください。心が動揺しているときはいつでも、原因を調査して考えてください。物事を過度に気にかけないならば、皆さんは寛ぐことができます。精神的な興奮を引き起こす問題がないので、無関心のままでいられます。つまり、気づきと包括的な自覚によって維持される精神的な静謐において、通常通り修行し続けます。皆さんは自制心とバランスを維持します。何かが起こって何かが頭に浮かんだら、すぐにそこに注意し、徹底的な調査と熟考をしてください。その瞬間に明晰な洞察があれば、知恵をもって問題を見通し、それが心に苦痛を与えるのを防ぎます。それでも明晰な洞察が不足している場合は、サマタ瞑想によって一時的に問題を手放し、心が執着するのを防ぎます。しばらくすると確実に、洞察は問題を見通すのに十分強力になるでしょう。遅かれ早かれ、皆さんは、なおも愛着と苦しみを引き起こす、すべてのものを理解するのに、十分強い洞察を得るでしょう。

 

 あらゆる種類の感覚的接触とあらゆる精神状態が、心的反応を呼び起こします。最終的に、そのような衝動への反応と戦い、克服するために、心は非常に長い時間を費やさなければなりません。心はそれに接触するすべての対象に、精一杯機能しなければなりません。六つの内部の感覚基盤(六内処、六根)とそれらの外部の対象(六外処、六境)すべてが、心の中で一緒になります。意識を心だけに集中させることにより、目と耳、鼻、舌、身体、意、そしてそれらのすべての対象に関する理解と洞察を得ることができます。心はすでにそこにあるので、その中心を正しく探索することが重要です。心そのものを探索すればするほど、そこから生じる洞察は、より明確でより深くなります。これには修習することが不可欠であるため、教えるときに常に強調することです。通常、感覚的な接触を経験し、さまざまな対象から印象を受けるとき、心はただ、好き嫌いで反応するのを待っています。これは、目覚めていない心がどのように機能するかを示しています。ある刺激のために良い気分に、または別の刺激のために悪い気分に、常に巻き込まれる準備ができています。

 

 ここでは、揺るぎない気づきを以て心を調べます。その際、感覚を通してさまざまな対象を体験するとき、人は精神的に粗雑になることはありません。多くの間違った考えに巻き込まれることはありません。彼はすでにヴィパッサナーを実践していて、すべての感覚対象を調べるために洞察力と知恵に依存しています。ヴィパッサナー瞑想の手法は、知恵を発達させます。それが仏、法、僧のような言葉の詠唱であろうと、呼吸の気づきの実践であろうと、サマタ瞑想のさまざまな対象における修習は、サマーディの穏やかで不動の精神を経験することにつながります。サマタ瞑想では、意識を一つの対象に集中させ、他のすべての対象を一時的に手放します。

 

 ヴィパッサナー瞑想は、感覚対象と接触する際に、「信じない」という反応を使用するため、それと非常に似ています。ヴィパッサナーを実践するとき、人はもはや感覚対象に騙されることを許しません。目や耳、鼻や舌、体や心のいずれで経験されたとしても、それが心に現れるとすぐに、人はどんな対象にも気づきます。人はそれを何度も何度も適用することによって、いわゆる瞑想対象のように、ほとんどこの「信じない」反応を使用しています。すべての対象は、すぐに洞察の源になります。次に、サマーディでしっかりと確立された心を使用して、各対象の非永続的な性質を調べます。感覚的接触のあらゆる瞬間に、「確かではない」あるいは「一貫性がない」という反応が生起します。人が妄想に巻き込まれ、経験した対象の実在を信じ込む場合、これらすべての現象(法)によって苦しみます。自我ではないとは、anattā(無我)です。人が自分ではない何かに執着し、それを誤解して、つまり自分として認識すると、それは自動的に苦しみと悩みにつながります。これは、人が誤った認識に固執しているためです。

 

 これらの感覚対象のすべてが、本当の自我(実体)を持っていないことがはっきりとわかるまで、真相を何度も調べてください。それらは実際に自分のものではありません。では、何故、人はそれらを誤解し、それらが自分であるかのように、あるいはそれらが自分に属しているかのように、感覚対象に執着するのでしょうか?この時点で、真実について真剣に考える必要があります。皆さんは、実際には「皆さん」ではありません。「皆さん」は、皆さんのものではありません。では、何故、皆さんは、皆さん自身を一人の自分と誤解しているのでしょうか?これらの感覚対象のいずれも、究極の意味で「皆さん」と見なすことはできません。それで、何故、それらは皆さんを欺くのでしょうか?何故、皆さんは、それらを一個の自我として見なすのでしょうか?実際のところ、それは不可能です。すべての感覚対象は永続的ではありませんが、何故、それらを永続的と見なすのですか?感覚対象が皆さんを欺く方法は、驚くべきことです。身体は本質的に好ましいものではありません。それでは、身体が好ましいものであるという見方に、どうしたら執着することができますか?身体の不完全さ、無常性、あらゆる形態の自我の欠如という、これらの究極の真実は、調査の過程で明らかになります。最終的に、私たちが世界と呼ぶものは、実際には誤った信念によって形成された妄想であることに気づきます。

 

 洞察瞑想を使用して三つの特性を調べ、現象の本質を理解している場合は、特別なことをする必要はありません。極端なものは適切ではありません。自ら難しくしないでください。まるで応接室に入るゲストを迎えているかのように、直接意識を集中させてください。レセプションルームには椅子が一脚しかなく、しかもすでにその椅子に誰かが座っているため、来場する様々なゲストは椅子に座ることはできません。来場者が部屋に入ると、すぐにその人が誰であるかがわかります。ニ人、三人、または多くの訪問者が一緒に部屋に入ってきたとしても、彼らが座る場所がないため、誰であるかがすぐにわかります。皆さんは唯一の利用可能な場所を占有しているので、入ってくるすべての訪問者は、皆さん方には非常によく見えます。

 

 座る場所がないので、安心してすべての訪問者を見ることができます。皆さんは、無常、苦、そして無我という三つの特徴の討究に意識を集中させ、他のどこにも注意を向けることなく、それに専念します。一時的かつ不十分で本質的でない、すべての現象の性質への洞察は、これまで以上に明確かつより包括的になります。皆さんの理解は、より深くなります。このような洞察の明晰さは、沈黙の瞑想(サマタ)を通して経験できる、何よりも深く心に浸透する安穏につながります。物事のあり方を理解することの明快さと完全さは、心にこの浄化作用をもたらします。深くて明晰な洞察から生じる知恵は、浄化の手段として機能します。

 

(続く)