高慢 | QVOD TIBI HOC ALTERI

QVOD TIBI HOC ALTERI

„Was du dir wünschst, das tu dem andern“.

「ふたりの人が祈るために宮に上った。そのひとりはパリサイ人であり、もうひとりは取税人であった。パリサイ人は立って、ひとりでこう祈った、『神よ、わたしはほかの人たちのような貪欲な者、不正な者、姦淫をする者ではなく、また、この取税人のような人間でもないことを感謝します。わたしは一週に二度断食しており、全収入の十分の一をささげています』。

 ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天にむけようともしないで、胸を打ちながら言った、『神様、罪人のわたしをおゆるしください』と。あなたがたに言っておく。神に義とされて自分の家に帰ったのは、この取税人であって、あのパリサイ人ではなかった。おおよそ、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるであろう」。(ルカ18:10-14)


 ある人が、「大欲(公欲)はいくらかいても良いが、小欲(私欲)はかいたら駄目だ」と言うのを耳にしたことがある。法を広めたい、人を救いたいという欲は、いくら持っても問題ないということなのだろうが、法を広め人を救う為と称して、法律を無視し世間に迷惑をかけるならば、それはオウム真理教と同じ轍を踏むことになる。中途半端な者が、「善悪を思わず、是非を管すること莫」ったならば、犯罪者になるのは当たり前である。やはり、世俗の約束事も、軽視してはいけないと思う。

 話は変わるが、キリスト教にいう悪魔(サタン)とは、本来は、神に近侍していた天使たちの中で最も美しい大天使であったが、神に対して謀反を起こし、天界から地獄に追放された存在である、という説話がある。そして、その理由や経緯についても、様々な説がある。例えば、キリスト教黙示文学の一つである "VITA ADAM ET EVAE"(『アダムとエバの生涯』)という書籍によれば、悪魔は神の似姿として作られたアダムに拝礼せよという神の命令を拒み、そのために神の怒りを買って天界から追放されたという。

 この説話は、非常に示唆に富む。悪魔を悪魔たらしめているもの-それは、高慢さである。私見では、悪魔は通常思われているような醜怪な姿をしていない。逆である。容姿端麗・博学多識で、品行方正、すべての点において非の打ち所のない存在が、サタンである。しかし、自らの能力や資質、容姿、それに道徳品行を誇るその高慢さが、サタンの唯一の、そして最大の悪なのである。そして、自分は正しい、自分は優れていると思い込む、あまりに強固な自我心は、ついには神(法)に謀反させることになる。法(ダンマ)に逆らうことなど、何人にも不可能にもかかわらず。大いに自戒すべきことである。