チェンバロ | QVOD TIBI HOC ALTERI

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„Was du dir wünschst, das tu dem andern“.

 かれこれ四十年以上、チェンバロという楽器に魅了され続けている。私は、周囲がアイドルやロック等に夢中になっているような環境で、バッハやバード (William Byrd) 等の鍵盤楽器の作品を中心とした、いわゆるバロック音楽に興味があった、「変わった子供」であった。

 そんな中学生の頃のある日、近所のデパートの楽器売り場で偶然、某メーカーのベントサイドスピネットを目にした。ケースとサウンドボードの美しい木目と反転鍵盤が新鮮だった。何気なく試弾してみると、非常に軽いタッチと同時に、古風であると同時に、どこか懐かしいような、きらびやかな音が響いてきた。もちろん、レコード等ではすでに耳にしていた響きであったが、実際の音を、直接、自分で弾いて聞いたのは、これが初めてであった。これが私とチェンバロとの最初の出会いである。

 この体験以降、寝ても覚めてもこの楽器のことが気になった。楽器店でノイペルト等の大型のモダンチェンバロが展示してあるのを見かければ、その精巧さと価格(!)に驚嘆すると同時に、垂涎の眼差しで眺めたものである。そしてその後、この国産のスピネットであるが、結局は親に無理を言って買ってもらい、暇さえあればその典雅な響きに酔いしれ、夢中で演奏した記憶がある。この、小型で取り扱いの容易な楽器には、本当にお世話になった。

 

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 その後、いくら美しい音とはいえ、弦列が8フィート一列しかないスピネットでは次第に満足できなくなった私は、大学卒業後、就職して金銭的に余裕が出来る頃を見計らい、念願のチェンバロを購入することにした。当時、最も廉価で入門楽器として最適と思われたのは、東京の某古楽器専門店が販売していたフレミッシュ一段(A. ルッカースのコピー)である。結局、私はそれを手に入れ、帰宅後はすぐにこの楽器の前に座り、寝食を惜しんでバッハやヘンデルの作品を演奏していた記憶がある。
 

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 この楽器は、小型であるがしっかりとした作りで、しかもフレミッシュらしい渋い音がする良い楽器であった。オプションの金線入れとフレミッシュ装飾を施してもらい、見た目も魅力的な楽器であった。しかしながら、音域がHH-d3と狭く、FFやf3を要求するバロック末期の作品やモーツァルトのソナタなどはそのままでは演奏できず、かといってショートオクターブでは、バッハやヘンデルのクロマティックな曲やクープランの最低音(GG)を要求する曲を演奏するのが不便であった。しかも、オリジナルの8' × 4' のレジスターで製作してもらったので、セカンドの8' が使えず、4' の調律も容易ではなかったので、結局、もっと音域が広く、8' × 8' のレジスターを備えた楽器に買い換えることにした。

 なお、この当時、今はなき某華族出身の著名チェンバリストのサークルで、数年間、チェンバロの演奏法を習っていた記憶がある。

 新しい楽器は、日本のフレミッシュチェンバロ製作では第一人者であるKさんの楽器(アルベール・ドゥランのコピー)であった。自宅で趣味で演奏するだけなので、トランスポージング機能を犠牲にして低音域をさらに一音拡張してもらい、GG-e3のレンジに 8' × 8' のレジスターで製作をお願いした。

 

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 さて、フレミッシュの伝統的工法に則って製作されたこの楽器は、ケースの外側を黒色・内側を朱色に塗装し金箔帯をつけたフレンチ装飾のシックなチェンバロであった。しかし、この楽器は、色々な意味で私の手におえる楽器ではなかった。まず、キータッチが比較的重く、軽いアクションの楽器に慣れていた私には取り扱うのが容易ではない楽器であった。また、何よりも調律のもちが悪く、先の三創工芸の安定した楽器に比べ、終始メンテナンスに苦労した。

 その一方で、驚くほどよく鳴る楽器で、マンションの一室で演奏するにはちょっと気が引けるほどの楽器であった。特に、8' x 8'の響きは圧倒的かつ華麗で、音に関しては、アマチュアにはもったいないほどの素晴らしい楽器であったと思う。

 この楽器にもずいぶんお世話になった。音域が広いのを奇貨として、モーツァルトやJCバッハの作品などを中心に演奏していた記憶がある。しかし、そうこうしているうちに、私はいろいろな理由で役人を辞め、大学に戻り、研究に専念することになり、暫く楽器とは疎遠になることになった。そして経済的理由から引越しをすることになり、引越し先には大型のチェンバロは置いておくことが出来ず、やむなく売ることになった。その後、しばらくチェンバロのない生活が続く。

 しかし、学位を取り、何とか今の職を見つけ、安定してきたというか、自由に使える時間が出来たので、音楽を楽しめる余裕ができたということで、私は再度、楽器を手に入れようといろいろと画策し始めた。

 インターネットというツールのおかげで、チェンバロに関する情報は、私が最初にこの楽器に出会ったときよりも格段にアクセスしやすくなっていた。いろいろと調べているうちに、日本のチェンバロは、海外の楽器と比べ、若干割高ではないのか、と思うようになった。もちろん、それだけ価値のある素晴らしい楽器を生み出す製作者もいらっしゃるし、欧米に比べユーザー層の薄さやメーカーの数が圧倒的に少ない点から致し方のないことではあるが、その一方で、円高が定着した今日、製品の質とスペックからして、どう考えても割高だろう、と思われるメーカーも皆無とは言えないような気がする。いずれにせよ、私は割高感のある日本の楽器ではなく、外国の楽器を購入しようと決意した。

 楽器の知識は必要であるが、英語の基本的なスキルさえあれば、海外のメーカーとの意志疎通は個人でも十分に出来る。海外のメーカーは、数も多く、廉価で質の良い楽器を製作してくれる良心的な工房も、存在する。それに、チェンバロは基本的に所有者が維持・調整・メンテナンスを行うもので、メーカーの物理的なサポートは、ほとんど必要ない(というか、してくれない)。

 また、こうした見解が実は幻想であったことが最近知られつつあるが、私たち日本人は、楽器を含め、日本の製品が世界で最も優れていると思いがちである。しかし、この楽器に関しては、音はもちろんのこと、製作技術や技量等で卓越した製作者が欧米に多いのも事実である。そもそも、チェンバロは、日本の楽器ではなく、欧州の伝統的な楽器である。そんなわけで、やはり、私個人としては、欧米のメーカーの方が、色々な意味で「本当の楽器」を製作してくれるような気がするのである。

 とにかく、個人で海外のメーカーに製作を依頼しようとした矢先、チェンバロをさらに廉価で手に入れる方法があることに気が付く。それは、キットである。海外で、チェンバロを組立キットで販売しているメーカーがあることを知り、当時暇を持て余していた私は、チェンバロの構造等の勉強を兼ねて、この楽器を製作してみようと考えるようになった。チェンバロは、ピアノなどのモダンな楽器と比べ、比較的単純な構造の楽器である。しっかりしたキットであれば、それは素人でも組立可能で、出来上がった楽器も通常使用に十分に耐えうるものである。

 製作することになった楽器は、やはり無難なフレミッシュ一段チェンバロ、メーカーは Zuckermann だった。価格は円換算で当時70万程度で、楽器の心臓部であるケースと響版が組みあがった状態で送られてきた。後は英文マニュアルに従い、鍵盤を組み立てて、ピンを打ち込み、弦を張り、ジャック・プレクトラムを調整し、蓋を整形加工し、最後に塗装・装飾して完成である。スペックは、GG-d3で、8' × 4' であった。

 著名なメーカーではあるが、アメリカ製のキットということで、内心、工作技術等はあまり期待していなかったのだが、実際には、素晴らしい出来栄えのキットが送られてきた。結局、このキットは、外側を黒色、内側を赤色でスプレー塗装し、金箔帯は難しいので、金泥を使った金線を入れて約3ヶ月で完成した。製作中、いろいろと問題も生じたが、響板を割るなどの致命的な失敗もなく、作業自体はそれほど難しくもなく、貴重な体験であった。

 

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 具体的には、鍵盤製作は、大変重要な作業で、レールピンの打ち方等で工作精度が要求されたが、キーカバーの黒檀や牛骨の磨き出し作業等、概して楽しかった工程である。ピン打ちは、デリケートなサウンドボード上にブリッジピンを打ち込む際等は緊張はしたが、張弦同様、単純作業であり、さほど苦労はなかった。オーク材のスタンドや譜面台の組立等、その他の木工も、特に難しい作業はなかった。塗装は、塗料の種類や色等で試行錯誤したが、我ながら思い通りに出来たと思っている。楽器製作中、最も苦労したことは、無謀にもマンションの一室で製作したため、場所の確保と防音であった。

 

 弦を張って、組み立てたジャックをレジスターにセットして、いざ音だし、という段階に来て、驚いたことに、チェンバロ特有の音が出なかった。急いで、マニュアルを見直したり、ザッカーマンや(関係のない)Kさんにメールをしたりして、意見を聞いたりして原因を探したが、原因は、単にチューニングピンの巻き方が甘く、音程が低すぎただけであった。しかしながら、こうして何とか完成した楽器は全長2mを超えるもので、狭いマンションの一室に設置するには大きすぎ、しかも、通常は良い楽器の証であるが、音が大変ボールドな響きであったため、結局、1年程でこれまた手放すことになった。
 

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 売却方法としては、果たして売れるかどうか分からなかったが、試しにネットオークションに出品してみることにした。そうすると、出品して程なく、楽器を購入したいという方が現れた。それで、あっけなく売却済み、となった。売値は、購入にかかった金額とほぼ同じであった。得も損もしなかったわけであるが、時間と労力の損、製作中の楽しい時間が得といった所であろうか。

 

 その後、もっと小型で音が繊細な楽器はないだろうか、と探していると、キットと同様に、チェンバロを通常より廉価で購入できる方法を見出した。それは中古楽器を手に入れるというものである。新品の楽器は何かと不安定なものである。安定した楽器になるには、数年はかかる。また、ヴォイシング等の調整にも時間と根気がいる。それならば、新品よりも中古楽器を探した方があらゆる意味で得なのではないのか、そう考えたのである。

 ターゲットにした楽器は、以前から興味を持っていた、TPW(アトリエ・マルク・デュコルネ)の初期フレンチ一段チェンバロである(Vaudry/Denis School)。いわゆる "crossbarred harpsichord" で、フレミッシュをベースにした後期フレンチとは構造的に異なるが、全長2m弱と、ザッカーマンのフレミッシュに比べ、やや小型で、木地を生かした塗装が美しい楽器である。この楽器の中古を海外の某大手中古チェンバロ業者のサイトを中心に探していたのだが、なぜか先のザッカーマンのサイトで偶然に発見、即座に購入することにした。

 注文から1週間程度で楽器はアメリカからやってきた。本当に便利な時代である。エレベーターを使って搬入できるか少しはらはらしたが、ぎりぎりで梱包状態のまま、搬入に成功した。一方、ザッカーマンのキットを搬入するときは、エレベーターにはそのままでは入らなかったので、梱包を解かなければならず、かなり苦労した。いずれにせよ、今回は、送料を含め、価格は円建てで80万程度支払った。代理店経由で新品を購入すれば、おそらく200万程度の楽器と推測される。なお、今回は、Fedexで直接自宅まで送られてきたのには驚いた。というのも、前回のときは成田で通関手続きをしなければならなかったので。

 送られてきた楽器は、我々がよく聞きなれた後期フレンチよりも、どちらかというとジャーマンに良く似た、非常に繊細な音を出す楽器であった。この楽器の一番の魅力は、バック8' とフロント8'の対比が非常にはっきりしていたことである。キット由来の楽器で、鍵盤を前の所有者が製作したということで、若干メーカーがすべて作ったものほど洗練されていない点もあったが、ほとんどメーカー製作の楽器と言ってよい楽器であった。アメリカン・チェリー製の美しい楽器であった。

 

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 フレミッシュとは全く異なる、どこか素朴な感じのする、独特な音の楽器であった。半年ほど使っていたが、しかし、この楽器もやはりマンションの一室には大きすぎた。やはり、全長が2mほどあると、本棚や机のある狭い6畳の部屋で、ある程度空間的余裕をもって演奏するには、若干無理があるようである。私の部屋では、たまに布団を敷いて寝ることもあるので、楽器が大きいと、どうも不便なのである。そんなわけで、結局、購入後一年にも満たないうちに、せっかく手に入れた初期フレンチではあるが、売却することになった。ということで、この楽器も今や手元にない。

 

 そして、現在所有している楽器が、以下のイタリアンの一段である。フレスコバルディもスカルラッティも演奏しない私が、まさかイタリアンを所有するとは全くの「想定外」であったが、湖水地方で有名なイタリア北部所在のあるメーカーのサイトでこの楽器の音を試聴して、その華麗な音を気に入ったこと、音域が広く、しかも全長が短く軽量で、マンション住まいの私に適合していたこと、それに、何よりも廉価であったこと、以上の理由で購入することになった。納期は3ヶ月弱であった。


 スペックは、8'X8'・GG-e3・ダブルバフストップ付。オールブラス弦。マホガニーのケースにレッドスプルースの響板。柘植&黒檀製の鍵盤は見た目が美しいだけでなく、軽く、繊細な動きにも良く反応し、演奏しやすい。イタリアンということで、しばしば指摘されるように、フレンチ・フレミッシュほど音が伸びず、どちらかというとドライなサウンドであるが、フレミッシュ以上に明瞭で、クリアで輝かしく、エネルギッシュな音が、非常に魅力的な楽器である。
 

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 深くカーブしたベントサイドや、薄い側板等に見られるように、構造的には確かにイタリアン・チェンバロなのであろうが、ご覧のとおり、伝統的なそれとは、若干趣が異なる楽器である。まず、ジャックレールが鍵盤と平行で、ボックス・スライド型のジャックガイドではなく、一見、一般的なジャックガイドを備えているように見える。テールも通常のイタリアンよりも若干幅が広い。さらに、ケースは多くの場合、白木のままのサイプレス材で、大抵は(過剰に)装飾が施されたアウターケースに収められているの伝統的なスタイルであるが、この楽器の場合、ケース本体に塗装が施されている。そして何よりも、全長が短い。いうまでもなく、一般的にイタリアン・チェンバロは、有名なBaffo やGrimaldi の作品に見られるように、極端に細長いのが特徴である。

 また、イタリアンの音色よりも、フレンチの音色に近づけて欲しいとメーカーに冗談半分で依頼したところ、ずいぶん落ち着いた音色に出来上がってきた。プレクトラムを長めに加工するといっていたので、その効果であろうか。また、このあたりは好みが分かれるかもしれないが、ブラス弦なので、鉄弦に比べて、音が円やかである。バックとフロントの音色も非常に対比的で、音域が広いということも相まって、一段鍵盤の楽器としては、私にとっては理想的である。これに、モダンチェンバロのように、レジスター(Stop)切り替えのフットペダルがあれば、文句なしなのであるが…。いうまでもなく、シングルの楽器の場合、一般的なハンドストップでは、何かと不便なのである。

 正直なところ、本当はやはり、2段のフレンチが欲しかったのだが、全長2mを軽く越す巨体は、エレベーターに入らず、搬入するには、人力で非常階段から上げるしかないのだが、それは落下等の事故の危険性を伴なう。デリケートかつ高額な楽器を危険に晒すわけにはいかないのである。

 そんなわけで今回は、音域が5オクターブ弱で、エレベーターで搬入可能な全長190cm程度の楽器を選択した。良い楽器であると思うが、しかしこれは、空間的条件に基づく妥協の産物である以上、やはり近い将来、もっと大型の楽器を購入する気がしてならない。

 いずれにせよ、今所有している楽器は、イタリア由来の作品だけでなく、Froberger や L. Couperin の作品の演奏にも最適の楽器である。