六根清浄 | QVOD TIBI HOC ALTERI

QVOD TIBI HOC ALTERI

„Was du dir wünschst, das tu dem andern“.

 神社仏閣好きなので、当然、祈祷やお祓いをしている場面に遭遇する機会も多い。偶然、六根清浄大祓という祝詞を聞いた。ちらっと聞いただけでも仏教的な内容で興味深かったので、文言を調べてみた。

 「天照坐皇大神の宣はく、人は即ち天下の神物なり。須らく静め謐まることを掌るべし。心は即ち神明の本主たり、心神を傷ましむる莫かれ。是の故に目に諸諸の不浄を見て、心に諸諸の不浄を見ず。耳に諸諸の不浄を聞いて、心に諸諸の不浄を聞かず。鼻に諸諸の不浄を嗅いで、心に諸諸の不浄を嗅かず。口に諸諸の不浄を言ひて、心に諸諸の不浄を言はず。身に諸諸の不浄を触れ、心に諸諸の不浄を触れず。意に諸諸々不浄を思ひて、心に諸諸の不浄を想はず。是の時に清く潔よき偈あり。諸諸の法は影と像の如く、清く浄よければ仮にも穢がるることなし。説を取らば得べからず、皆因よりして業とは生る。我が身は即ち六根清浄なり。六根清浄なるが故に、五臓の神君安寧なり。五臓の神君安寧なるが故に、天地の神と同根なり。天地の神と同根なるが故に、万物の霊と同根なり。万物の霊と同根なるが故に、為す所願として成就せずと云ふことなし。無上の霊宝神道加持。」(六根清浄大祓)

 「目に諸諸の不浄を見て、心に諸諸の不浄を見ず。耳に諸諸の不浄を聞いて、心に諸諸の不浄を聞かず。…意に諸諸々不浄を思ひて、心に諸諸の不浄を想はず。…諸諸の法は影と像の如く、清く浄よければ仮にも穢がるることなし。」(目には汚いものや醜いもの等、色々なものが見えるが、それで心が動揺することはなく、耳には不快な騒音や雑音など、いろいろな音が聞こえるが、それで心が乱されることがない。…意識には様々な雑念妄想の類が浮かび上がってくるが、それで心自体が汚れるということは一切ない。…影やイメージのように、全ての事物には実体(我)がない故に、汚れることなど、あり得ないからである。)これは六根清浄、つまり、涅槃の境地である。我々の心身は、本来はこのように絶対清浄かつ完全無垢である。それをあえて汚すのは、人の執着心である。故に自ら「心神を傷ましむる莫かれ」である。

 ちなみに、神道には祓詞と言う最も基本的な祝詞がある。昇殿参拝すると、神前で宮司が最初に奏上するものである。

 「掛けまくも畏き伊邪那岐大神、筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原に禊ぎ祓へ給ひし時に、生り坐せる祓戸の大神等、諸々の禍事・罪・穢有らむをば、祓へ給ひ清め給へと白すことを聞こし召せと、恐み恐みも白す。」(祓詞)

 本来六根清浄であるが故に、「諸々の禍事・罪・穢」は、有り得ない。たとえ生じたとしても、諸行は無常故に、即座に滅するからである。「極めて汚きも帯(滞り)無ければ、穢とはあらじ。内外の玉垣清浄と申す」(一切成就祓)。どんなに汚れたものであっても、滞ることがなければ、つまり、人があえてそれに手を付け執着さえしなければ、汚れるということは、本来あり得ない。自然の摂理として、一切は即座に消え去る。何事も一時も持続不可能だからである。

 一切の罪穢れは自然に祓われ、清められる。それがわかれば、わざわざ神前で「祓へ給ひ清め給へと白す」必要は、ない。する必要がないどころか、そもそも、神仏に何か私的な事柄など、祈願すべきではない。それ故、神仏の御前で何か奏上するならば、一般的な祓詞ではなく、例えば、普回向や四弘誓願か、あるいは、「すべての生命が幸せで健やかでありますように」の様な文言を唱えたほうが、相応しい気がする。神道には詳しくないが、私はそう実践している。