正精進(4) | QVOD TIBI HOC ALTERI

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„Was du dir wünschst, das tu dem andern“.

 坐禅瞑想中に、何らかの平安を経験する人がいるかもしれませんが、すぐに舞い上がらないでください。同様に、若干混乱がある場合は、自分を責めないでください。物事が順調に進んでいるように見えるときは、喜んではいけません。あまり良くないときは、嫌悪感を持たないでください。ただすべてを見て、自分の中に生じるものを見てください。判断するのではなく、ただ見てください。それが良い場合は執着しないでください、それが悪い場合も固執しないでください。 善と悪の両方が噛みつく可能性があるので、それらに執着しないでください。

 

 実践とは、単に座ってすべてを見ることです。良い気分と悪い気分は、その性質に応じて往来します。自分の心を賞賛したり非難したりするのでなく、これらのことのために、適切な時期を見つけなければなりません。お祝いの時が来たら祝福しますが、少しだけ、やりすぎないでください。子供と同じように、時々それを軽くたたく必要があります。私たちの修行実践では、自分自身を罰しなければならないこともありますが、常に罰し続けるわけではありません。自分自身を罰し続けるならば、しばらくすると皆さんは修行を放棄するだけでしょう。一方で、ただ楽しい時間を過ごして、修行をあまりにも容易にするべきではありません。それは修行実践の方法ではありません。中道を用いて実践します。中道とは何でしょうか?中道をたどるのは難しく、気まぐれや欲望を信じることはできません。

 

 目を閉じて座っていることだけが、修行実践だとは思わないでください。本当にそのように考えるているなら、すぐに見方を変えてください!継続的な修行とは、歩いたり、立ったり、座ったり、横になったりしながら、修行の姿勢を維持することです。座っている瞑想が終わったら、瞑想が終わったとは思わないでください。ただ姿勢を変えているだけだと考えてください。このように考えると、安穏が見つかります。どこにいても、常に修行するこの態度が維持されます。あなた方は、自分自身に常に注意を払うでしょう。

 

 夜の瞑想の後で感情にふけり、翌日も心を好き勝手に彷徨させて過ごしている人は、次の夜の瞑想で、目的のない思考で過ごした日の余波しか感じないことに気付くでしょう。その人は自分自身を放任しすぎているので、心の落ち着きの基礎がありません。このように修行するにつれて、その人の心は徐々に修行から遠ざかります。何人かの弟子に「瞑想はどうですか?」と尋ねると、彼らは「ああ、それはすべてだめになった」と答えます。わかりますか?彼らは一ヶ月か二ヶ月の間は持ちこたえることができるかもしれません、しかし一年か二年後にそれはすべて終わります。

 

 何故でしょうか?彼らはこの非常に重要な側面を、彼らの実践に含めていないからです。座り終わったら、サマーディを手放します。実際に始める前に、目的の地点に到達するまで、次第に短い時間で座るようになります。結局のところ、彼らはもう座りたくないのです。仏像の前で礼拝をするのも同じです。最初は毎晩寝る前に礼拝するように努力しますが、しばらくすると心が迷い始めます。すぐに彼らは礼拝を気にしなくなり、目礼するだけになり、そして全くやらなくなります。彼らは修行全体を窓の外に放り出します。

 

 したがって、サティの意味を認識し、継続的に修行してください。正しい修行は絶え間ない修行です。歩く、立つ、座る、横になるなど、(すべての状態で)修行を続ける必要があります。これは、瞑想実践が身体ではなく心の中で行われることを意味します。心が一定の熱意を持っていて、誠実で勤勉であるとき、それから注意力が生じます。心が重要です。心は私たちが行う他のすべてを監督するからです。

 

 正しい理解があれば、私たちは正しく修行します。きちんと修行すれば、迷うことはありません。少しでも十分です。たとえば、坐禅瞑想を終えたとき、実際には瞑想を終えているのではなく、単に姿勢を変えているだけであることを忘れないでください。歩いているか、立っているか、座っているか、横になっているかに関わらず、心はまだ集中しています。あなた方には、"sati"(気づき)があります。このような気づきを保っていると、内面の修行を維持することができます。夕方にまた座ると、修行は途切れることなく続きます。精進は途切れることなく、落ち着きを実現することができます。

 

 これは持続的な修行と呼ばれます。話したり他のことをしたりするときはいつでも、常に修行を続けるようにしなければなりません。心が常に意識の明晰さを保っているとき、修行は自然に発達します。何が正しく何が間違っているかを知っているので、心は安穏を見つけるでしょう。心は私たちの中で何が起こっているのかを見て、内なる平和を実現するでしょう。

 

 シーラ(戒)とサマーディ(三昧)を開発したい場合、最初にパンニャ(智慧)が必要です。一部の人々は、一年間は倫理的行動を、次の年は精神の安定を、そしてその翌年には最後に知恵を発達させるべきだと考えています。彼らは、これら三つのことが互いに分離していると信じています。彼らは一年でそれができると思っていますが、心が安定(samadhi)していない場合、どうやってそれを実践しますか?理解(pañña)がない場合、それはどのように機能するのでしょうか?サマーディとパンニャがなければ、シーラは非常に疎かになります。

 

 確かに、これら三つの事柄は同じ時点で出会います。シーラがあるときはサマーディがあり、サマーディがあるときはパンニャがあります。それらはすべて、マンゴーのように一つです。小さいものでも大きく成長したものでも、どれもマンゴーです。それが熟しているとき、それはまだ同じマンゴーです。このように簡単に考えると見やすくなります。私たちは多くを学ぶ必要はありません。そのようなことを知ること、私たちの実践を知ることで十分です。

 

 瞑想に関しては、何人かの人々は、彼らが望むものを手に入れられません。ですから彼らはただあきらめて、瞑想を実践するのに十分な功徳がないと言います。彼らは悪いことをすることができますー彼らはそれをするためのある種の才能さえ持っています。しかし彼らは、良いことをするための能力を持っていません。彼らはただ瞑想修行を捨てて、しっかりした理由がないと言います。それがまさに普通の人々の姿であり、彼らは情欲と結びついています。

 

 しかし、この修行の機会があるので、サマーディの開発が容易か難しいかは、完全に皆さん次第であり、サマーディ自体ではないことを理解してください。それが難しいと思えるとき、皆さんは間違ったことをしているのです。私たちの実践では、正しい知識(samma-ditthi)が必要です。 私たちの知識が「正しい」場合、他のすべては「正しい」のです。すなわち、正しい知識(正見)、正しい心(正思惟)、正しい言葉(正語)、正しい行動(正業)、正しい生計(正命)、正しい努力(正精進)、正しい気づき(正念)、正しい集中(正定)ー八正道です。正しい知識があれば、他のすべての要因が続きます。

 

 何があっても、心が道から外れないようにしてください。自分の中を見ると、はっきりと自分が見えます。私の見方では、最良の修行とは、多くの本を読むことではありません。すべての本を取り去り、どこかにしまい込んでください。自分の頭の中で読んでください。学校に入学してから、みんな本に埋もれてしまいました。今はそうする機会と時間があると思いますので、本を取って箪笥にでも入れてしまってください。ただ自分の心を読んでください。

 

 何かが頭に浮かんだときは、それが好きか嫌いか、正しいか間違っているかを問わず、「これは確かなことではありません」と切り捨ててください。何が起こっても、「確かではない、確かではない」と、ただ切り捨てて下さい。斧の一撃で何でも切ることができます。何も確実ではありません。

 

(続く)