(画像はBARKSさんより拝借しました)
2015年8/18 ZEPP TOKYO

 今年も終わろうとしておりますが、書こう書こうと思って書いていなかったライヴの記録を備忘録として…

 この8月、とうとう生のディアンジエロさんのご尊顔を奉る時が来た。
サマーソニックはスル―してソロライブのチケットをたまたま目にした情報で無事ゲット。
その後聞くとかなりプレミア化したチケットだったよう。zepp前で列を作って待っているときにも、チケットはないかという紙を持った人を何人も見かけ。待つ人々のわくわく感。

 で、中に入る。舞台に近い下手の場所をゲット。人の層で数えると5~6列目。
前にモリッシ―できた時と同じくらいの距離感。で、一人待つ。
開演10,20分経ち始まらない…
周りの人々の会話ばかりが耳に入る。
なんだか自分のバンドを持っている人や演奏活動をしているジャズミュージシャンの方が多い。
知り合い同士もかなりいるよう。ベースのヒト、ボーカルのヒト、、
昨日自分のライブがあったヒト。。

 で、まだ来ない。いや~これでどんなに演奏が良くてもこの時間は忘れないぞと思い、待ちくたびれ頭はぐるぐるしだす。
 こんな時間を経てようやく始まった。50分くらい待ったのではないだろうか…


 しかし始まれば重厚で隙のないギターの音色や、研いで研いで磨き上げたベースで刻まれるリズム、そして目の前で揺れながらハモる合唱のお兄さんたち、遠くで奏でる金色のラッパ隊の高らかな叫び、そしてこの音楽隊のコンダクターであるディアンジエロさんの存在だけで体がホットになってくる。

曲目は

DRONE
AIN'T THAT EASY
VANGUARD THEME
BETRAY MY HEART
SPANISH JOINT
REALLY LOVE
CHARADE
BROWN SUGAR
SUGAH DADDY
LEFT AND RIGHT
CHICKEN GREASE
WHAT IT DO
UNTITLED

だったらしい。

 楽しみにしていたREALLY LOVEは音響が万全でなく残念だった。

 しかしその後のBROWN SUGAR からLEFT AND RIGHTに向かう怒涛のFUNKサウンドに
体が湧きまくる!汗だくで踊りリズムに体を身を任せる。
前にとてもいい席でロイヤルフィルハーモニーオーケストラを聴いた時に感じた音に刺されるような、酔わされる感触。同じようなメタリックでキラキラ眩しい音が正確無比に向かってきて
体全身を包み込み刺激する。
クラシックと違って自らも能動的に体を動かせちゃう。
どんどかアドレナリンやら何やらいろんな脳内物質がでちゃうっていうもんだ!!!

 ほんと、ディアンジエロさんは凄いコンダクターと同じ、音の魔術師だと思った。
それもクラシックの指揮者とは違っているところと言えば、観客の手拍子も躍動もその重要なパーツとして、巻き込みながらすべてで音楽を創っていくのだ!

東京のライブと似ているこのライブ映像を張ります↓


 60~70年代に生き、JBもジミヘンもスライ&ファミリー・ストーンの全盛もオンタイムで見ていたらどう思ったかな~と夢想する日々も過ごしたけれども、今回それを血、肉として音楽を作っているディアンジエロさんの生の音楽に接して、この時代にいるからこその進化系を見れた喜びを感じた。待った時間なんてすっかり忘れていた。
 私が体験したかったものは満たされた。

 そして今回も感じたこと。アーティストの人間性。観客に訴えかける温かさ、愛情。
表情のすばらしさ。最後のUNTITLEDでは一人ひとりのミュージシャンがソロの
見せ場を見せたあと徐々に引っ込んでいき最後残るはディアンジェロさん。
その終わり方に、メンバー一人ひとりへの愛を凄く感じた。
このバンドを愛してるんだなと。

3月に再来日!楽しみ!!!









「ドリアン・グレイの肖像」
原作:オスカー・ワイルド
脚本:G2
演出:グレン・ウォルフォード

出演:中山 優馬
   徳山 秀典
   舞羽 美海
   仲田 拡輝
   金 すんら 他

東京:新国立劇場中劇場 大阪:森ノ宮ピロティホール 福岡:キャナルシティ劇場


 お芝居がはねてから一週間。

いつでもその余韻に浸れるくらいの回数を今回は観劇した。

その思い出とともに所感を残しておこうかと。

 劇場で買ったパンフレットには素敵な肖像画に描かれたキャストの写真とともに、

キャストと演出家との対談やオスカー・ワイルドの紹介も載っている。

お芝居を見てもっと作者や演出家を知りたくなった人に親切でよい。

 それに舞台美術として非常に効果的であり素晴らしかった(もう一つの主人公で

あったといてもよい)魂を映す「肖像画」がどのように作成されたかも書いてある。

ダブルフェイス・トランスルーセットドロップという手法で描かれたこの肖像画は

光の当て方によって表情が変化していく。最後美青年はゾンビさながらの

恐ろしい顔に変化し、なるほど夏の興行にぴったりの題材だなと感心したものだった。

 

 そもそもこの「ドリアン・グレイの肖像」という話はどんなジャンルに当てはまるのだろう。

傑作という評価は一致しているとして、怪奇幻想小説という紹介もされているのを見た。

 では高校生の頃私がこの本を読んだとき、どんなことを期待して読んだ?

 答えは一つ。


「美青年が自分の美のために滅んでゆく、なんだかとても嘆美?耽美?なお話なのでは?」


でも、読んだら想像するほどロマンティックなお話でなく、その点では裏切られた記憶。

でもその後少し時間が経ち、オスカー・ワイルドそのものに興味を持って時代背景などを

知って読むとまた違う面白味が生まれた。読み方が変化したことに自分自身の成長も感じるような、

そんなお話。


 1997年製作のイギリス映画「オスカー・ワイルド」を見たことも、オスカー・ワイルド像そのものを

とても変化させるきっかけとなった。

オスカー・ワイルド自身の物語以上に劇的な人生を描いたこの映画。この映画のパンフで

日本ワイルド協会会長の山田勝氏がオスカー・ワイルドについて以下のように書いている。


~~~

 ビクトリア時代の英国ほど、人間愛の枠を狭く限定した時期はなかった。

キリスト教典に基づく偏狭なピューリタニズムは人間が生れついて抱いている

自由な愛の様式を認めようとはしなかったのである。

オスカー・ワイルドはそのような時期の最大の犠牲者だったろう。


 すべての人々は部分的であるにせよ、愛を体験する。だが、ワイルドの愛は多方面に向けられた。

階級性が色濃く残っている時代にもかかわらず、ワイルドはそれを無視した。

美を感じることさえできれば、愛が彼の心に芽生えたのだ。

彼の愛の対象は、妻、子供、母親、友人に限られる訳ではない。

人生の美、すなわち芸術への想起を刺激してくれるものをすべて愛した。

この時代タブー視されていた若く美しい男性への愛も、彼にとっては異端でも何でもなかった。

その意味でワイルドの愛のスケールはルネサンス的である。ミケランジェロやシェイクスピアの持つ価値観の世界に生きていたことになるのだ。


~~~~


映画で描かれていた彼はまさに多方向に愛を傾ける人物。

自身が信じたものを支えに。

そのすべてへの愛の過剰さを持ち続けながらも、愛した人に裏切られ、

そして近代化していく社会に跳ね返され、

最後には疲弊しきってこの世を去っていく。

はたからみれば一つの悲劇の人生ではある。


そして彼はアイルランドの生まれ。愛国心の強い母の影響のもとで育まれ。

反骨精神が小説の言葉の折々に。逆説的な物言いもまさにその表れ。

でも物事は必ず表と裏がある…

イギリスパンクの源流はここにあるのか、、


「ドリアン・グレイの肖像」この話が何度か映画化されて

いたのは大分前から知っていた(昔に作られた方のはデカダンの星たる

ヘルムート・バーガーが演じているし)けれど、どうも触手が伸びなかった。

 一つ間違えばとんでもない駄作になる可能性がぷんぷんの話だと思ったからだ。


 そして今回舞台化。舞台化も日本でも何回かされていたようだ。

しかしやはり誰がやるかが大事。こういう話は。


 この話の一つの側面はこうだ。

純粋な青年が、自身の美しさに「言葉」の力で気付かされ、気がついて

意識したところから自身との対話、内面化がはじまる。

内面化がはじまった時に何も知らない無垢さは消え(この話ではその醜さは

肖像画が引き受けるが)本当の美しさははかなく消えていくというもの。


 こういう耽美的な解釈もできる話だけれど、もう一つの側面はこうだ。

人間にとってのモラル、道徳はなにかと問いかける話ということ。

 最初は愛する人にひどい言葉をあびせ、捨てるから始まり、だんだんと自分に

都合が悪い人間を殺すところまで、落ちて行く。愛欲に耽り、阿片を吸う。

若さや美に執着して醜いもの、貧しいものをあざ笑う。

どこからどこまでが許されて許されない?


 ドリアン・グレイをやる役者さんに求められるのはもちろん、「美青年」と言われる造形美

が第一条件だけれど、複雑な演技や細かな機微の表現などはとくに問われないとも思っていた。

ある種抽象化された「美」の体現だから、人間というより人形的な存在感であればよく、

下手に内面が表現されずともよいとも思った。

今回中山優馬さんが初のストレートプレイであり、フレッシュな立場でこの芝居に臨むなら

それはもうそのままでよいような気もしていた。実際初日見た時にもそう思った。


 しかし凱旋公演で戻ってきたとき、また違った雰囲気をこのカンパニーは持って帰ってきた。

それはやはり主役が変化したことに寄るのだと思うが、第二幕の主人公の内面の

葛藤の表現が充実したものになると、二つ目の側面、モラルについての問い、人間臭さが

クローズアップされてきたのだ。


 そもそもこのカンパニーそのものは熱量がとても感じられ、一極に集中している

結束感がとても心地よいものだった。それはこの戯曲の持つ面白さ、深さを思う

存分楽しんでやれという、演者一人ひとりの気概が感じられるところにあった。

その空間の中心には伸びよう伸びようとする若者たちがいたんだなと…。

千秋楽のキャスト全員のご挨拶を聞いて実感した。


 主人公ドリアンの美しさを盲目的に崇拝する絵描きのバジル、そして

ドリアンに魅かれ自分の色に染めようとするヘンリー卿、両者ともオスカー・ワイルドの

分身だ。バジルは実際の自分、ヘンリーは世間が見た自分だとワイルドは言っている。

どちらにしても美に強烈に魅せられ、「恋する」男を説得力を持って演じられる人でなくては

このお芝居は面白くない。そしてワイルド自身がそうだったように、

「若いものを導く」気持ちを強く持っている人でなければ。

その意味でも今回の配役はとてもよかった。


 二人を始め全ての役どころの配役を決めたプロデューサーの方、そしてカンパニーが

自由にそのタレントをのばせるような環境を作り、世界観を積み上げたグレンさん。

その他裏方の方々(舞台美術はもちろん音楽、音響、照明もとても良かった!)。

素晴らしい観劇経験をさせて頂き感謝です。


 最後に私は徳山さんの長年のファンなので、ファン目線の備忘録を。。

毎回見ていて違うヘンリー。気分で演じ分けられているヘンリー。

だんだんクールな色彩からパッションを秘めた色も加えられて。

七色のヘンリーとおっしゃる通りの存在感だった。

原作は髭を蓄えており、今回ももしや?と思ったが

舞台設定上は23歳のヘンリーは想像より軽やかで、表情、細部の動きまでゆきとどき、

やはり美しかった。


優馬ドリアンと秀典ヘンリーがノクターンに合わせて踊るところを見たとき。

日本で一番の美青年たちがここにいて。

私たちはこれをどうしても見たくて来ているな…

と思わずにはいられなかった。

 と同時に、その二人のたたずまい、表情が、美や人生への憧憬と同時にそのはかなさ

への諦念を表していて。

一生忘れないことでしょう。


優馬座長、このメンバーで再演したいとおっしゃいましたね!

忘れませんよ!!!


追記:そうそう、大事なこと。この原作を芝居としてしっかり成立させた

    脚本の力も大きかったのです。G2さん。お名前記憶しました!











「ドリアン・グレイの肖像」
原作:オスカー・ワイルド
脚本:G2
演出:グレン・ウォルフォード

出演:中山 優馬
   徳山 秀典
   舞羽 美海
   仲田 拡輝
   金 すんら 他

東京:新国立劇場中劇場 大阪:森ノ宮ピロティホール 福岡:キャナルシティ劇場


 現在公演中の「ドリアン・グレイの肖像」、東京公演を何回か見てきました。
感想を書こうと思うのだけれど、、まだ公演は続いており、東京には凱旋公演
として戻ってくるので、それはその時。

とりあえず自身の備忘録を兼ねて、劇中で非常に効果的に使われている、
ショパンのノクターンを場面ごとに紹介しておこうと思います。

・ドリアン・グレイ(中山 優馬)が最初に披露しているのはこの曲。

ノクターン1番





・ドリアン・グレイが阿片窟から戻り夢うつつの中で演奏するのはこの曲。

ノクターン19番



・ドリアン・グレイがヘンリー卿(徳山 秀典)とはちみつ色の月を見ながら踊るシーン
のBGM

ノクターン15番




 とても素敵なカンパニーで、引き込まれるお芝居です。
配役がパーフェクト!
あ~あ、次に観るのが楽しみでなりません!!!!!

 


D'ANGELO AND THE VANGUARD
BLACK MESSIAH 2014


ディアンジエロの14年ぶりのアルバム。あまり気負わずに聴いた。
5曲目、「リアリーラヴ」
一度聴いて恋に落ちた。

シネマ風の入り、絶妙なベースの音よし。間は絶妙。
このベースのリズムに乗って本編へ。
簡単にできそうで絶対にできない曲。
緻密で繊細な工芸品のような作り。
聴き終わった時に、

「何とも言えないバランスの上にこの構築物(曲)は立っているのだ!!」

と、感じることの喜び。
ペドロ・アルモドヴァル監督の昔の作品でウキウキした気持ちも思いだした。
エロく。エレガント。

ちょっと他の曲がまだ聴けていない。

ディアンジエロさん、日本に来る。サマソニ行きたい!





DAVID BOWIE 「Pin Ups」1973

 先日仕事の合間と合間に時間ができたので久しぶりにデパートの
服売り場と本屋さんも探索。春ファッションにウキウキし、買えそうにもない
高い鞄をじっと凝視した後、さらなる刺激を求め本屋さんへ。

 そうしたら大島弓子特集と銘打ったコーナーがあり、最近刊行されたものも含め、
大島弓子さんのファンの作家やマンガ家の書かれたオマージュ本が何冊か置いてありました。
時間もないのでチラチラ眺めていたら、この「ピンナップス」のジャケットのボウイを
大島さんが描き、横にはジャケットの女性(その当時のファッションアイコン、ツィッギー)
の代わりに大島さんの似顔絵が描いてありました。
 大島さんがボウイ大好きなのは知っていたけれど、マンガの週刊誌のコーナーで
こんなかわいい絵を描かれていたとは。なんだかテンションが上がりました。
そして何か気が付き。はて?この「ピンナップス」のような姿最近他でも見たぞ?

 そうでした!
徳山秀典さんの限定写真集にこのボウイと近いお姿がありました(眉なし、おでこ出し、後ろ髪長し)。
 この姿、本当に人を選びます。
普通にこれをやると(まあ、あまりいないでしょうが)とても怖いです。
これが絵になる人は…限られた人です。
 
 話を元に戻しまして、この「ピンナップス」。ボウイが1970年代同時代の
イギリスのバンドをカバーしたアルバム。このアルバム、ボウイのアルバムの
中でもかなり好きな方に入ります。
単なるカバーでなくやはりボウイ解釈に曲が彩られるから。

 特に好きなこの一曲をご紹介。原曲はザ・フ―の曲。
これも聴いたことがありますが、いや~別物に。

「説明できない 説明できない ぼくは正気を失った」

というような歌詞を捲し立てる原曲から、体がくねるような、余韻のある音楽へと変容させてしまう、ボウイの艶マジック。
いやはや元気が出ますわ~♪




Tokyo Philharmonic Orchesrtra

Beethoven Symphony No.9

指揮:ダン・エッティンガー

合唱:東京オペラシンガーズ


 ここ数年クラシック好きな友人が手配してくれ、年末は第九を聴くことになっている。

先日も繰り出した。今回迷ったのが、どのオケで聴くか、どの演目を聴くかだった。

もちろん第九を聴くのだが、各オーケストラ趣向が凝らされている。


 秋に来た彼女からのメール。

「今年は東フィルが、伊福部先生のゴジラとセットという荒技で攻めてきました。のりますか?」


そりゃ~のるでしょ~

生ゴジラです!!


ということで、私たちは高級中華料理店で遅めのランチを比較的割安で食べ、

至極ご機嫌でサントリーホールに向かいました。


席は彼女と私の好みが一致し、オケの後ろに陣取りました。サントリーホールならではのお席。

音の統合性はまあ、偏るけれど、臨場感抜群。

第九の場合、合唱団の息づかいも感じられるお席です。


で、はじまった。

まずゴジラ。正式には「SF交響ファンタジー第一番より」

7分程度の演奏。現れた金髪短髪の指揮者、ダン・エッティンガーさん。

 そしてゴジラのあの有名な旋律が。

金管楽器や打楽器がカッコよく響く。

なんだか日本人がこういう交響曲を作ったの誇らしい。興奮するな。

それを金髪のイケメンお兄さんが指揮しているのもいいな。

なんて聴いていたら、あっという間に終わってしまった。

すぐ休憩時間。

「いや~面白いね~」と私と彼女。よい感触で第九を迎えた。


 で、はじまった。

あれ?!なんかとっても惹き込まれる。

もともと第九は好きだけど。楽団の人びとの生き生きとした姿から目が離せない。

音一つ一つが聴き逃せない。こんな経験久しぶり!


正直言うと東京フィルハーモニーの第九は二度目で、一度目は、正直

日本のオーケストラにあまり期待はしてはいけないという認識を友人と持って帰っていた。

今回もゴジラとのカップリングということでの選択であり、あまり期待をしていなかったのに!

何故?!


それはやはり指揮者。

同じ楽団であっても率いる大将が違うと全く違う仕事をするのか。

一人ひとりの楽しむ気持ち、音楽をまとめあげよう、

このベートーヴェンの創造物を最大限表現し喜びを共有しよう、

という気持ちの違い。

それが大人数のオーケストラ、合唱団で発揮された時のパワー。

指揮者でこんなに違うなんて恐ろしいな…


 エッティンガーさんのわかりやすくも、表現豊かな指揮。

オケの後ろにいた私たちは彼の表情も手の動きもとっても良く見えて、とても興味深かった。

「人から何かを引き出すとは」

私の仕事上のテーマとも重なり、その後も考えさせられた。


 第九。若い時分には感じなかった様々な思いを感じるようになった。

天使が囁くように聴こえる旋律、その音にゆだねれば体の力は抜け愉悦感に満たされる。

そして人の悲しみや苦しみはなんだろうとふと考えてしまうような瞬間の訪れ。

そして最後、第4楽章にはシラーの歌詞が。


「喜べ天上なる方の太陽が

輝かしい大空の広場を飛んでゆくように

兄弟たちよ、凱旋する英雄のごとく喜びに満ちて自分の道を進むがよい」


そんな気持ちで明日からも一歩ずつ進む。

 








yves Duteil
Chante les enfants

今日、ママちゃりでスーパーに行き、前も後ろもいっぱい積んで帰宅。
その途中の道で同じように前のかごには買い物袋、そして後ろには小学低学年くらいの女の子
をのせたお父さんママちゃりと合流。そのあとには小さな自転車で追いかける男の子(弟かな)が追随。
 私の自転車と並走していたけれど、ゆっくりの私は抜かれて行く。
そしたら女の子が「今~私の~願い事が~」って歌っていたのが聴こえた。
 「ほぅ。翼をくださいかぁ~」なんて思っていたら。道の先からはやはりママちゃりが
こちらに向かって走ってくる。そのお母さんママちゃりが私の走る少し先で
さっきのお父さんママちゃりとすれ違った。
あっちのママちゃりにも女の子が乗っていて何かを大きな声で歌っていた。
 そしたら、お父さんママちゃりの女の子と、追随していた男の子が同時に振り向いた。
まるで「みんな歌っているね」って確認するような満面の笑顔で。
 ちんたら走っていた私にはそのお母さんママちゃりの女の子の声がずっと響いて。

 素敵な瞬間!

 そんなこんなで今日は子どもたちのことをたくさん歌っている、フランスの歌手イヴ・デュテイユさんの来日記念版をご紹介。二枚組のこのCD。可愛い曲がたくさん。その中の1曲、
「愛の言葉の国」をどうぞ!





STEVIE WONDER 「FULFILLINGNESS' FIRST FINAL」1974


 11月になるとスティーヴィー・ワンダーが聴きたくなります。
暖まりたい、その時に思いつく音楽。ホットミルクやココアのニュアンスたっぷり。
とは言っても、特に私が好きなのは以前に紹介した二枚と(これも11月にブログを書いていました)と今日紹介するこの、彼が70年代前半に作ったものですが…

 ちなみに先日、缶コーヒーのCMでスティービーが作った
「FIRE」が流れたとき、日本の若者が「ぱくるんじゃねー」
と荒れたと何かで読みました。どうやら日本のどこかのバンドが
カバーしていたらしく、作曲家自身に敬意を払うことを忘れたようです。
歳月は過ぎました。
スティーヴィーを知らない人がたくさんいるという前提をどうも忘れがちです。

 で、今日はこのアルバムの中でもしんみりしたしかしドラマチックなオペラのような
名曲のご紹介。これはジョージ・マイケルのカバーもとっても素敵なので併せてご紹介。
 スティービーやマイケルのような天才音楽バカみたいな人たちには、
うようよお金大好き人間が集まって、あこぎなことをたくさんしたんだろうな~
なんてことを大人になった私は考えてしまいますが…いけないいけない…

 お部屋を温かくして、じわっと身も心も蕩けて、さらに私負けない!なんて
いう強い気持ちで月曜を迎えられるような名曲をどうぞ♪


STEVIE WONDER "They Won't Go When I Go"1974




George Michael "They Won't Go When I Go"1990




星野博美『転がる香港に苔は生えない』2000年


 毎日毎日、とりあえず「今日一日やりきる」っていう感じで

生活する日々。この一年はそういう日々。そういう時期なんだな。

仕事が終わってとりあえず心と体を休めることだけは大事に。

睡眠時間は絶対確保。テレビ、朝のニュースしかつけていない。

 目を使うものは見る気力なく。

とにかくお風呂とベッドとわんこ、これだけで回っている感じ。

でもそれほど苦でない。まあ、やらされている、、という感じではなく

やれること淡々としよう、という感じだからなのかも。

 

 この慌ただしくも淡々とした、前向きな感じ。

香港でたくましく生きる人の映画や本から得た印象と似ている。

10数年前、香港が返還されて間もないころ行った私の香港の印象。


 朝早く、香港通の友人に連れられて、地元の人が朝ごはんを

食べるという点心のお店に行った。大きなやかんから黒いプーアール茶が

吸い口から勢いよく遠くのコップへとジャボジャボと注がれていく。

 おかゆや蒸し物、揚げ物を食べた人から勢いよく立ちあがって

仕事に行く。なんか、その頃の私にとってとてもパワフルに見えたものだった。


 そんな思い出を思い起こさせるこの本。

著者の星野さんは写真家橋口譲二さんのお弟子さん。

1997年の香港中国返還の数年前から、香港に住み、大きな時代の転機を

迎える人々の様子を、広東語を駆使して、人々と語り合いながら体感した方。

その星野さんが返還後の香港の人びとを描いたノンフィクション。


 大陸から何かをなしえたくて来た人々、日本の文化が好きな若者たち、

密航や不法滞在…毎日が必死な人々。きっと今も。

久しぶりに読み返し。

今を生きる香港の若者たちの心の内に思いを寄せるひと時になった。





1992年1/31~2/7@東京文化会館

芸術監督 パトリック・デュポン

<プログラム>

・ディアギレフプロ

・グランガラ


 今年も残すところ二カ月となり、街にはクリスマスコフレが売りだされる季節となった訳ですが…

各化粧品メーカーの綺麗なパッケージにつつまれた可愛い化粧品たちが店頭に飾られています。

香水やちょっとしたメイク用品を買うので、化粧品メーカーのゲランからは

ハガキやメールが送られてきます。


 今年のゲランのクリスマスコフレはどうやら「オペラ座の夜」にふさわしい女性たち

というイメージらしく、限定の化粧品に、ロシアバレエ団を率いていたディアギレフのために

ゲランさんが作った香水の復刻や、ストラヴィンスキーが作曲しロシアバレエ団の

有名な演目である「ペトルーシュカ」もアイシャドーとチークのセットの名前になっていたりしています。

 ストラヴィンスキー好き、ロシアバレエ団&ディアギレフに関心のある私には引きが

強烈なのですが…しかしそんなに多くの化粧品を欲していない私は買うのかは……


 とにかくそんなことで、今から20年以上前に見に行ったパリオペラ座のパンフ

を引っ張り出してきました。この時のプログラムは二つあって、一つはディアギレフの時代

の演目を芸術監督でもあるパトリック・デユポンが踊った「ペトルーシュカ」や

「牧神の午後」のプログラム。

 そしてもう一つは現代的なダンスの演目も含んだグラン・ガラ。

確かその当時ディアギレフの方を私は見たかったのに、チケットが取れず、グランガラを

見たのでした(もちろんそちらも素晴らしかったのですが)


 での今回はゲランのコフレにちなんでパンフレットよりストラヴィンスキーの

ペトルーシュカの写真をいくつかご紹介。





ペトルーシュカはお人形のこと。カーニバルの街に手品師はあたかも生きているように

人形たちを操る。

ペトリューシカは、横で踊っているバレリーナに恋をする。でも彼女はムーア人の彼に

気があるよう。哀しむペトルーシュカ。邪魔者になったペトルーシュカ

仮装した人々で賑わう街に放り出される。

そしてムーア人が彼をさらに追いかけてきて、サーベルでペトルーシュカの頭を

殴りつけ…哀れペトルーシュカは…


というようなお話。

ペトルーシュカを踊る踊り手は、笑い、哀しみ、恋い焦がれ、など様々な表現を

体全体でしなければならず。ディアギレフの時代にはそれを体現する

天才ダンサー、ニジンスキーがいました。




↑ニジンスキーのペトルーシュカ


 今夜はこの東の果ての島にも仮装している人がたくさん溢れていて。

泣いているペトルーシュカもいるのかな…