「ドリアン・グレイの肖像」
原作:オスカー・ワイルド
脚本:G2
演出:グレン・ウォルフォード

出演:中山 優馬
   徳山 秀典
   舞羽 美海
   仲田 拡輝
   金 すんら 他

東京:新国立劇場中劇場 大阪:森ノ宮ピロティホール 福岡:キャナルシティ劇場


 お芝居がはねてから一週間。

いつでもその余韻に浸れるくらいの回数を今回は観劇した。

その思い出とともに所感を残しておこうかと。

 劇場で買ったパンフレットには素敵な肖像画に描かれたキャストの写真とともに、

キャストと演出家との対談やオスカー・ワイルドの紹介も載っている。

お芝居を見てもっと作者や演出家を知りたくなった人に親切でよい。

 それに舞台美術として非常に効果的であり素晴らしかった(もう一つの主人公で

あったといてもよい)魂を映す「肖像画」がどのように作成されたかも書いてある。

ダブルフェイス・トランスルーセットドロップという手法で描かれたこの肖像画は

光の当て方によって表情が変化していく。最後美青年はゾンビさながらの

恐ろしい顔に変化し、なるほど夏の興行にぴったりの題材だなと感心したものだった。

 

 そもそもこの「ドリアン・グレイの肖像」という話はどんなジャンルに当てはまるのだろう。

傑作という評価は一致しているとして、怪奇幻想小説という紹介もされているのを見た。

 では高校生の頃私がこの本を読んだとき、どんなことを期待して読んだ?

 答えは一つ。


「美青年が自分の美のために滅んでゆく、なんだかとても嘆美?耽美?なお話なのでは?」


でも、読んだら想像するほどロマンティックなお話でなく、その点では裏切られた記憶。

でもその後少し時間が経ち、オスカー・ワイルドそのものに興味を持って時代背景などを

知って読むとまた違う面白味が生まれた。読み方が変化したことに自分自身の成長も感じるような、

そんなお話。


 1997年製作のイギリス映画「オスカー・ワイルド」を見たことも、オスカー・ワイルド像そのものを

とても変化させるきっかけとなった。

オスカー・ワイルド自身の物語以上に劇的な人生を描いたこの映画。この映画のパンフで

日本ワイルド協会会長の山田勝氏がオスカー・ワイルドについて以下のように書いている。


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 ビクトリア時代の英国ほど、人間愛の枠を狭く限定した時期はなかった。

キリスト教典に基づく偏狭なピューリタニズムは人間が生れついて抱いている

自由な愛の様式を認めようとはしなかったのである。

オスカー・ワイルドはそのような時期の最大の犠牲者だったろう。


 すべての人々は部分的であるにせよ、愛を体験する。だが、ワイルドの愛は多方面に向けられた。

階級性が色濃く残っている時代にもかかわらず、ワイルドはそれを無視した。

美を感じることさえできれば、愛が彼の心に芽生えたのだ。

彼の愛の対象は、妻、子供、母親、友人に限られる訳ではない。

人生の美、すなわち芸術への想起を刺激してくれるものをすべて愛した。

この時代タブー視されていた若く美しい男性への愛も、彼にとっては異端でも何でもなかった。

その意味でワイルドの愛のスケールはルネサンス的である。ミケランジェロやシェイクスピアの持つ価値観の世界に生きていたことになるのだ。


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映画で描かれていた彼はまさに多方向に愛を傾ける人物。

自身が信じたものを支えに。

そのすべてへの愛の過剰さを持ち続けながらも、愛した人に裏切られ、

そして近代化していく社会に跳ね返され、

最後には疲弊しきってこの世を去っていく。

はたからみれば一つの悲劇の人生ではある。


そして彼はアイルランドの生まれ。愛国心の強い母の影響のもとで育まれ。

反骨精神が小説の言葉の折々に。逆説的な物言いもまさにその表れ。

でも物事は必ず表と裏がある…

イギリスパンクの源流はここにあるのか、、


「ドリアン・グレイの肖像」この話が何度か映画化されて

いたのは大分前から知っていた(昔に作られた方のはデカダンの星たる

ヘルムート・バーガーが演じているし)けれど、どうも触手が伸びなかった。

 一つ間違えばとんでもない駄作になる可能性がぷんぷんの話だと思ったからだ。


 そして今回舞台化。舞台化も日本でも何回かされていたようだ。

しかしやはり誰がやるかが大事。こういう話は。


 この話の一つの側面はこうだ。

純粋な青年が、自身の美しさに「言葉」の力で気付かされ、気がついて

意識したところから自身との対話、内面化がはじまる。

内面化がはじまった時に何も知らない無垢さは消え(この話ではその醜さは

肖像画が引き受けるが)本当の美しさははかなく消えていくというもの。


 こういう耽美的な解釈もできる話だけれど、もう一つの側面はこうだ。

人間にとってのモラル、道徳はなにかと問いかける話ということ。

 最初は愛する人にひどい言葉をあびせ、捨てるから始まり、だんだんと自分に

都合が悪い人間を殺すところまで、落ちて行く。愛欲に耽り、阿片を吸う。

若さや美に執着して醜いもの、貧しいものをあざ笑う。

どこからどこまでが許されて許されない?


 ドリアン・グレイをやる役者さんに求められるのはもちろん、「美青年」と言われる造形美

が第一条件だけれど、複雑な演技や細かな機微の表現などはとくに問われないとも思っていた。

ある種抽象化された「美」の体現だから、人間というより人形的な存在感であればよく、

下手に内面が表現されずともよいとも思った。

今回中山優馬さんが初のストレートプレイであり、フレッシュな立場でこの芝居に臨むなら

それはもうそのままでよいような気もしていた。実際初日見た時にもそう思った。


 しかし凱旋公演で戻ってきたとき、また違った雰囲気をこのカンパニーは持って帰ってきた。

それはやはり主役が変化したことに寄るのだと思うが、第二幕の主人公の内面の

葛藤の表現が充実したものになると、二つ目の側面、モラルについての問い、人間臭さが

クローズアップされてきたのだ。


 そもそもこのカンパニーそのものは熱量がとても感じられ、一極に集中している

結束感がとても心地よいものだった。それはこの戯曲の持つ面白さ、深さを思う

存分楽しんでやれという、演者一人ひとりの気概が感じられるところにあった。

その空間の中心には伸びよう伸びようとする若者たちがいたんだなと…。

千秋楽のキャスト全員のご挨拶を聞いて実感した。


 主人公ドリアンの美しさを盲目的に崇拝する絵描きのバジル、そして

ドリアンに魅かれ自分の色に染めようとするヘンリー卿、両者ともオスカー・ワイルドの

分身だ。バジルは実際の自分、ヘンリーは世間が見た自分だとワイルドは言っている。

どちらにしても美に強烈に魅せられ、「恋する」男を説得力を持って演じられる人でなくては

このお芝居は面白くない。そしてワイルド自身がそうだったように、

「若いものを導く」気持ちを強く持っている人でなければ。

その意味でも今回の配役はとてもよかった。


 二人を始め全ての役どころの配役を決めたプロデューサーの方、そしてカンパニーが

自由にそのタレントをのばせるような環境を作り、世界観を積み上げたグレンさん。

その他裏方の方々(舞台美術はもちろん音楽、音響、照明もとても良かった!)。

素晴らしい観劇経験をさせて頂き感謝です。


 最後に私は徳山さんの長年のファンなので、ファン目線の備忘録を。。

毎回見ていて違うヘンリー。気分で演じ分けられているヘンリー。

だんだんクールな色彩からパッションを秘めた色も加えられて。

七色のヘンリーとおっしゃる通りの存在感だった。

原作は髭を蓄えており、今回ももしや?と思ったが

舞台設定上は23歳のヘンリーは想像より軽やかで、表情、細部の動きまでゆきとどき、

やはり美しかった。


優馬ドリアンと秀典ヘンリーがノクターンに合わせて踊るところを見たとき。

日本で一番の美青年たちがここにいて。

私たちはこれをどうしても見たくて来ているな…

と思わずにはいられなかった。

 と同時に、その二人のたたずまい、表情が、美や人生への憧憬と同時にそのはかなさ

への諦念を表していて。

一生忘れないことでしょう。


優馬座長、このメンバーで再演したいとおっしゃいましたね!

忘れませんよ!!!


追記:そうそう、大事なこと。この原作を芝居としてしっかり成立させた

    脚本の力も大きかったのです。G2さん。お名前記憶しました!