失敗は何をするにもついて回る。
そこから学ぶこともある。
でもその時失敗と称されたそれはどうするんだろう。
君の苦しむ顔が浮かぶ。
犠牲者になった彼に、責められる君。
自らを責め立てる君。
何を対象にしたって、失敗するということは
何かを犠牲にすることだ。
成功するということは
何かを犠牲にすることだ。
学びとるということは、
同じ失敗を繰り返さないことである。
以前にはなかった失敗を犯す危険性は存在する。

犠牲者を出すならば
仮にどうしても犠牲者を出すことが否めないとすれば
失敗の確率が限りなく0に近づくまで
あるいは被害の程度が限りなく0に近づくまで
実践に移してはいけないと思う。

研究者だって失敗は辛い。
研究者だって失敗は怖い。
でもそれは被験者の比でない。
こうやって
インターネット上に言葉を流すというのは
署名なしに流しているということは
つまりは無責任なんだと思う。

もちろん自分の本来の目的は
言葉で気持ちを確定することで自省することであるわけで
そういう意味でいえば何ら問題ないことなんだけども。

でもこの世界の共有ネットワークに公開している。
ということは、誰かに少なからず影響を与えているということで
それを無責任に無署名に垂れ流すというのはどうなんだろうか?

私は人前が苦手だ。
特に知っている大勢の人間の前、というのが第一に苦手だ。
それは自分の言動によって自分がどう認知されるかということが左右される場であるから苦手なんだと思う。
単純に考えればプライドが高くて体面ばかり繕っている人間なんだと思う。
だから自由に物を考えたり自由に発言したりするのさえ怖くてたまらない。
そしてこうして無責任に流している。
それが気に入らないからってすぐにこの場を変えることはできないんだけど
こうやってぐずぐず管をまく場所がちゃんとあるのだから
表立って、自分の名で戦うときには、きちんとしたものを出したいと思う。

そんなプレゼン前夜なのでした。
家にいることにも
家から出ることにも
我慢と勇気が足りない僕だけど
自分の手で
自分の場所を切り開けるのなら

できるだけ
居心地のいい場所にしたい。

どんな広さでも、形でもいい。
周りに何があってもいい。
何がなくてもいい。
とりあえず、自分のことを毎日リセットできるよう、まっさらな部屋がいいと思う。
清潔感だけ大事にしたい。

きれいだから、帰って休んで、英気を養うにはもってこい。
でも、少し無機質で、素っ気なさすぎて、一人でじっとするには寂しすぎる。
そんな部屋がいいなぁ。

夢の夢のまた夢だけど。
自分の名前を見ると
え、誰のことだっけ?
と二度見してしまう。

名前というものは
ただの呼称であるのだから
なんだっていいのだ。
それが「わたし」を意味するのだと見分けられるなら
なんだっていいのだ。

そう思っていたけれど

私の正式名称
でもそれを見て思い出せない
私が誰だか思い出せない

私は私のことをどう認識しているのだろう
自分のことをどう認知しているのだろう
「わたし」が誰だか忘れてしまった

私は
海は澄んでいる方がいいが
川は濁ってこそだと思う

だからこんな汚れた川でも
愛しく思わざるをえないんだ

汚いって馬鹿にされると
田舎の川の方がいいとか言われると
なんとなく腹が立つ