336)伊賀国庁跡は上野市駅から歩いたら大変 | 峠を越えたい

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 三重県の上野市に「府中」があるそうです。というのは、『コンサイス地名辞典』(三省堂、1975)の「府中」の項に“ふちゅう2府中→うえの4市(三重県)”という参照指示があるからです。

 引用には下半分ほど割愛部分があります。現在は伊賀市といいます。やはり「府中」は伊賀国国府の置かれた地でしたね。地図を掲げます。

 

 赤い印の地点は「府中」の名の付いた施設を表わします。関西本線伊賀上野駅の南から南東方向でしょうか。『伊賀国庁跡』(Wiki.)の「発見・発掘」では、

 “1988年昭和63年)、圃場整備の際に掘立柱建物の遺構が発見され、「國厨()

(くにのくりや)」と書かれた墨書土器が出土したことから伊賀国庁跡と断定された[6]。「國厨」と書かれた墨書土器は稲荷前A遺跡(推定相模国府跡)[7]周防国衙跡薩摩国府跡でも発見されている[8]。また、遺構の位置する小字が「国庁さん()

(こくっちょさん)」と呼ばれていることや[5][6][1]、一帯が「府中」と呼ばれていること[3][9]明治時代の史料に柘植川北岸に伊賀国庁跡があるという旨の記述があること[5]も根拠となった。………”。

 小字(しょうあざ)に「国庁」(国衙、国府)という地名が残っているのは感動です。「伊賀国庁跡」をGoogle地図上に表示させました。

 

 関西本線で伊賀上野駅の一つ東にある佐那具駅に近いです。住所は伊賀市坂之下です。小学校などの名前には残っているものの、地名の「府中」は最早ないのでしょうか。

 位置の中々掴みにくい伊賀国について、『旧国名でみる日本地図帳』(平凡社、2020)に載る地図を借ります。

 

 周囲を大きな令制国群に囲まれたこぢんまりとした国は、忍者のイメージも重なって、何だか特別の存在に見えます。伊賀市にまとまって、「上野」という名前は消えたのかと思うと、上野相生町、上野赤坂町、上野愛宕町など、「上野…町」なるマチが沢山あります(「Mapion住所検索」)。「上野忍町(うえのしのびちょう)」は気掛かりです。Google地図をもう一つ出します。

 

 

 伊賀鉄道伊賀線(伊賀神戸~伊賀上野)の上野市駅は関西本線(名古屋~難波)の伊賀上野駅から南南東方向で、2.8kmあるので歩いて40分はかかります。上野忍町を見付けようとして、松尾芭蕉の生まれた家発見という収穫がありました。。上野城の城下町に残された武家屋敷の一つが「赤井家住宅」だそうなので、上野忍町は武家達が住んでいた地域なんでしょうか。もっと昔は忍者衆が住んでいた場所だったりして。上野市駅の駅舎正面に記された駅名は「忍者市駅」の方が余程大きいです。上野市が最早無いことも関わっていましょうか。

 城から近い芭蕉の家は武士であったかというと、農家のようです。『松尾芭蕉』(Wiki.)に詳しいです。芭蕉は伊賀上野を「古郷」と語っています。『野ざらし紀行』(全篇詳細解説 音声付;芭蕉翁顕彰会)を参照しました。「伊賀上野」なる見出しの所です。

 “長月の初、古郷に帰りて、北堂の萱草も霜枯果て、今は跡だになし。何事も昔に替りて、はらからの鬢白く眉皺寄て、唯「命有て」とのみ伝て言葉はなきに、このかみの守袋をほどきて、「母の白髪おがめよ、浦島の子が玉手箱、汝がまゆもやゝ老たり」と、しばらくなきて、

手にとらば消んなみだぞあつき秋の霜”。

 兄弟の髪の毛は白く、母の遺髪も白く、このかみ(兄)は芭蕉に向かって、御前の久しぶりの帰郷は浦島太郎の玉手箱を空けるようだ、眉も白くて。何だか心に染み入ります。

 コンサイス地名辞典に記された“鉄道忌避のため駅は市街地に遠く、……”なる状況は昔幾つかの例が存在したことでしょう。この駅とは関西本線の伊賀上野駅を指していますか。恐らく市街地は、鉄道敷設時には後の上野市駅近辺と思われ、東西方向に走る関西本線は市街地を北に外れて鉄路を敷いたことになりますか。その結果、古代の中心地は伊賀上野駅に遠くない場所にあることになりました。