331)大輪田泊と兵庫津と神戸の港 | 峠を越えたい

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 大輪田泊、兵庫の湊、神戸港、など少しずつ場所が違うのかどうか、この辺りの港の移り変わりに興味があります。それと、東海道本線でそれぞれ隣同士に並ぶ三ノ宮駅、元町駅、神戸駅、兵庫駅において、全てが大きな町のように遠くの人間から見ると思えますが、どんな経緯で三ノ宮が一番繁華になったのか、「三ノ宮」なる地名は古い名称なのかなど、知りたいことは色々あります。

 さて地図が始まりです。『新詳日本史図説』(浜島書店、2000)の「平氏政権」>「日宋貿易」より、

 次がネットで見つけたものです。

 大輪田泊は日宋貿易のため平清盛が整備した港だったでしょうか、福原京の存在時にはその外港ですね。時代は余程下って19世紀前半です。

 

 伊能中図(『伊能図大全』河出書房新社、2013)では「兵庫津」と記されています。「神戸村」が見えます。東隣りの「生田宮」は何だか「三ノ宮」に関わりがありそうです。山陽電鉄の「板宿」駅、JRの「新長田」駅に関しては、村の名前として記されています。神戸市「生田」区が曾てありました。今に繋がる地名が散見されます。

 明治23年(1890年)発行の裏表が印刷された1枚(時刻表、路線図、運賃などが記載されている)で三立社発行の、その中の「鉄道線路略図」より(日本交通公社の付録と思われる)。

 「三ノ宮駅」、「神戸駅」、「兵庫駅」全て揃っています。港の名前から話を始めましたが、地名を攻略するのが先決です。。「三宮」は『コンサイス地名辞典』(三省堂、1975)から。

 JRだけが「三ノ宮」で、阪神や阪急は「三宮」を用いていると初めて知りました。この地名は何時から存在するのでしょう。『三宮町(神戸市)』(Wiki.)より、

 “八部郡地誌』によれば1878年(明治11年)に正式な町名となったという。明治中期から区制施行まで神戸三宮町として「神戸」を冠称。元は神戸村の一部。はじめ神戸町、1879年(明治12年)より神戸区、1889年(明治22年)より神戸市1931年(昭和6年)より同市神戸区1945年(昭和20年)より生田区1980年(昭和55年)より中央区に所属”。

 明治初年より町名としてあったようで、その名前の由来は「三宮神社」からです。続いて『こうべ 神戸』(コンサイス地名辞典、三省堂、1975)です。

 生田神社に付属する神戸(かんべ)の住んでいた場所に由来するとのことです。これは中々難しく、簡単にすると「神戸」とは、“神社に所属してその経済を支えた(租・庸・調を納めた)民”(広辞苑)。律令制時代の古い名前がよく残っているものです。

 上の引用文で神戸港のことが一緒に調べられます。伊能中図に「神戸村」がありました。日米修好通商条約及び安政の五カ国条約により、兵庫の港を開港する約束が実際には神戸の港になった(『詳説 日本史研究』、山川出版社、2009)との記述からすると、兵庫港と神戸港は違うことになります。神奈川(宿)を開港するに当たって横浜を開港した状況に似ていますが、事情は如何なのでしょうか。しかしごく近いせいか、大輪田泊、兵庫港、神戸港を一まとめに同じ場所として扱っているようです。

 「兵庫」なる地名の由来はどうでしょう。『ひょうご 兵庫』(コンサイス地名辞典、三省堂、1975)の冒頭より、

 平安時代末辺りから「兵庫」という地名が現れてきたのでしょうか。コピーが尻切れになってしまいましたが、“……武庫(むこ)が兵庫に転訛したともいわれる”と書かれています。「武庫川」という名は関東人でも覚えがあります。尼崎市と西宮市の境界を成します。そこで『武庫』(Wiki.)を読むと、

 “武庫(むこ)とは兵庫県摂津地方の古地名で、尼崎から兵庫までの沿海部を言う。武庫の名は神功皇后紀にはじめて見え、務古とも書いた。(『摂津郷土史論』『古事記』『日本書紀』)

 上文の後の「由来」の項でこんな内容も見付けました。

 “摂津国風土記(逸文)は武庫の由来について次のように伝えている。

「(神功)皇后は摂津の国の海浜の北岸の廣田の郷においでになった。いま廣田明神というのはこれである。その故にその海辺を名づけて御前(みさき)の浜といい、御前の沖という。またその兵器を埋めた場所を武庫(むこ)という。今は兵庫という。」”。

 転訛というより「武」が「兵」に変わったと読めますが。伝承とは申せ、知識の増すのは嬉しいです。「兵庫」が県名に決められたには理由がありそうです。『兵庫県』(Wiki.)に書かれていました。

 “摂津国八部郡兵庫津(現在の神戸市兵庫区)に初代県庁舎が置かれたことによる”。

 「兵庫県神戸市」なる地名は同じ幕末の開港場、「神奈川県横浜市」に由来が似通っていますね。大輪田泊=兵庫の港であり、神戸の港は少し東になる。幕府は兵庫の港を開港すると約束して神戸の港を開港した事情のようです。するとかえっ港は京都に近くなりますが。

 『おおわだのとまり【大輪田泊】』(日本史小辞典、山川出版社、2005)を読んでみます。。

 兵庫津の西南端に和田岬が突き出ています。ひょっとすると「おおわだ」と関わりがあるのでは。有り難いことに『大輪田泊』(Wiki.)は書き漏らしません。

 “大輪田泊(おおわだのとまり)は、兵庫県神戸市兵庫区に所在していた港で、現在の神戸港西側の一部に相当する。12世紀後半の平清盛による大修築が有名。輪田泊(わだのとまり)ともいい[1]、古くは務古水門(むこのみなと)とも称した。平安時代末期から鎌倉時代前期にかけて日宋貿易で栄えた[1]中世にあっては兵庫湊(ひょうご(の)みなと)と呼ばれた[1]

現在でも漢字表記は異なるものの「和田岬(わだみさき)」として名が残っている”。

 平清盛が貿易を行なった「大輪田泊(輪田泊)」が「和田岬」の「わだ」として今に残っていることに感動します、表記漢字は余り変わって欲しくないものの。Mapionの地図を掲げます。

 

 大輪田泊(兵庫津)に立つと人工島が視界を遮る景色を、平清盛も伊能忠敬も眺めることは出来ません。