329)全てに架橋して欲しい中山道 | 峠を越えたい

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 『和宮親子内親王』の生涯>「降嫁」(Wiki.)を読みます。その最終段落です。中山道を一行が通る際は厳重な警戒がされたようです。

 “10月20日、和宮一行は桂宮邸を出立した。東海道筋では河留めによる日程の遅延や過激派による妨害の恐れがあるとして中山道江戸へと向かった。行列は警護や人足を含めると総勢3万人に上り、行列は50km、御輿の警護には12藩、沿道の警備には29藩が動員された[6]。 和宮が通る沿道では、住民の外出・商売が禁じられた他、行列を高みから見ること、寺院の鐘等の鳴り物を鳴らすことも禁止され、犬猫は鳴声が聞こえない遠くに繋ぐこととされ、さらに火の用心が徹底されるなど厳重な警備が敷かれた。島崎藤村夜明け前』にも、第一部第六章で和宮一行が木曾街道を通行する前後の情況が描かれている”。

 長さが50kmの行列を青山半蔵も仰ぎ見たことでしょう。Googleマップで検索して、馬籠宿から奈良井宿まで66km、妻籠宿から奈良井宿まで58kmを考えると、想像を絶する規模の一行を街道の庶民達は目の当たりにします。どんな様子か地図を出してみます。『小学校の地図帳』(帝国書院、2022)より、

 「50km」は本当ですかね。木曽路(贄川~馬籠)の殆どを一行が埋め尽くしてしまいます。警護の各藩はさぞ大変だったでしょう。助郷役など、臨時の使役に駆り出された周辺住民の負担は堪ったものではありません。宿泊や飲食の手配は如何ほどの難儀を被ったか、計り知れません。返す返す本当ですか。

 この引用文の“東海道筋では河留めによる日程の遅延や過激派による妨害の恐れがあるとして中山道江戸へと向かった”を頼りに、中山道は「かわごし(川越)」は一つもなかったであろう、に話を進めようと思います。。先ず浮世絵を眺めてみます。『木曽海道六十九次』(渓斎英泉、歌川広重;Wiki.)を板橋宿から歩きます。何故「海(道)」と記すのでしょうか。蕨宿では「戸田川渡場」、本庄宿では「神流川渡場」が描かれています。橋が架かるのは桶川宿、本庄宿(橋+渡船か)、新町宿(?)、八幡宿、長久保宿、上ヶ松(上松)宿、落合宿、中津川宿、赤坂宿、恵智川宿、草津宿。其の他、川が描かれている絵が中山道の渡し船なのか、風景として川があるだけなのか分からないものがあります。

 一つ面白い絵があります。69次の内の67次である武佐宿(むさのしゅく)

 船を二つ繋いだ、船橋と言うべきものでしょうか。武佐宿は現在の滋賀県近江八幡市にあります(Wiki.)。するとこの描かれた川はどこか。ともかく正確な場所が知りたいです。Googleマップより、

 

 東海道新幹線の南を中山道が通っていますが、武佐宿の位置はJR近江八幡駅の東南東2.5km程で、東から宿場に入る直ぐ手前に川の流れがある、これかどうか。

 利根川を何処で渡るんだろう、橋が掛けられていたのかしら、が気掛かりです。本庄宿、新町宿、倉賀野宿、高崎宿、板鼻宿と4宿連続で川が描かれています。本庄宿では「神流川」と名前付きで助かります。「神流川渡場」で、手前に橋の架けられた川と向こう側にももう一つ川があるんだか、川が蛇行しているだけなんだか。絵を出さないと。

 「渡場」とは船で渡すことだけを思っていたところ、日本国語大事典の『渡場』曰わく、“歩渡(かちわたり)・渡し船・船橋・駕籠渡(かごわたし)などで水上を渡る場所。渡し。渡船場”。普通の橋以外が全て含まれるのでしょうか。

 そうすると「神流川渡場」は大勢が渡っているこの橋のことですか。その先の川は渡し船なのかしら。それとも神流川が注いでいる烏川(利根川に注ぐ)が遠景に描かれているのか。本庄宿の次の宿、新町宿を入れた地図です。

 南西から流れる神流川が烏川と合流しています。新町宿を過ぎ、次の倉賀野宿へ向かうと烏川を渡らねばなりません。浮世絵では「倉賀野宿 烏川之図」と記されています。雪の板鼻宿の川は(烏川に注ぐ)碓氷川でしょう。結局利根川本流は越えなくて済みます。

 中山道は木曽川の流れにどう対処しているのでしょう。宮ノ越宿、上松宿、野尻宿、落合宿、中津川宿などに橋が見えます。道は右岸を辿ったり左岸を進んだりするのか、調べるのは大変です。最終的に木曽川の右岸に渡るのは何処の宿でしょう。

 木曽三川(濃尾三川:木曽川、長良川、揖斐川)をそれぞれ渡る中山道の位置を知りたいです。先ず木曽川から、

 地図の左端、飛騨川と合流した木曽川の右岸に太田宿を認め、右端に「伏見」とあるのがその直前の宿場、伏見宿です。この宿間で、最終的に左岸から右岸へと移ります。「旧中山道」が表示されています。次に出会う長良川は当然岐阜の町に近いはずです。鵜飼いで有名です。

 正に名にし負う「河渡宿」(ごうどじゅく)が、長良川を渡った最初の宿場です。前の宿、「加納」駅は名鉄でしょうか。

 右上に見える 樽見鉄道、美江寺駅脇に「旧中山道」の表示があります。ここから西へ赤坂宿に向かいますが、中山道は南西に辿り、揖斐川・根尾川合流部より下流で右岸に移ります。「呂久の渡し跡」なる表示を見付けました。ここは渡船だったんですね。渡し船では、皇女和宮一行は50kmの行列を渡し切るのが至難ですね。

 架橋してあったのか渡し船なのか、浮世絵を見ていると定かでないので、分かれば調べておきます。伏見宿・太田宿間は渡し船です(Wiki.)。加納宿・河渡宿間は1881年(明治14年)まで渡し船(Wiki.)。そうすると木曽三川は江戸時代には橋が架かっていません。「かわごし(川越)」はないにしろ、渡し船は中山道内でもっと増えそうです。大変、大変。

 序でですが、草津宿では「天井川」を通るんでした。『草津宿』(Wiki.)にちらっと出ています。

 “………東海道の江戸方からは、草津川を越えて、堤防沿いに進むと、東横町・西横町と続き、中山道との合流点に至る。ここで左折し、一町目から六町目まで続き、宮川を渡って、最後が宮町である。中山道からは、天井川である旧草津川をトンネルで抜けると追分に至るが、トンネルができたのは明治19年(1886年)のことである”。

 中山道も東海道も共に草津川を過ぎてから合流点(追分)で一緒になって大津宿に向かうようです。でも地図を見ると「追分」の京都側(南西側)に草津川が流れており、面食らいました。目を凝らすと東北方向に「草津川跡地公園」が横長に描かれていて、これが旧・草津川で、平地化して廃川にしたそうです。やっと上の引用文を理解しました。Google地図です。

 中山道が北東から、東海道が東南東から進んで来て、本陣の手前で一緒になる地点が「追分」(青い矢印)です。緑の線が斜め横に何本も引かれている所が旧・草津川なので、この川を南西方向へ越えれば直ぐ「追分」に至ります。トンネルのない江戸時代には上り下りしたのでしょうか。

 草津追分の図です。水の流れが縦でないといけませんが、両側が天井川の堤防でその間を人が歩いている様に見えます。違いますかね。