あらすじ
島田叡。沖縄県知事。米軍沖縄攻撃二か月前に赴任。荒井退造。沖縄警察部長。島田とともに二〇万県民の命を救う。一九四五年夏、摩文仁の丘で消息を絶つ。
沖縄戦後、五十八年目にして発掘された新事実。
ひと言
図書館の閉架書庫にあったこの本を資料請求して借りた。神戸の兵庫高校に行く前に読みたかったが今になってしまった。今年の夏、沖縄に行った折、摩文仁の丘の島守之塔に立ち寄れなかったことが本当に残念でならない。今度沖縄へ行くことがあれば是非、摩文仁の丘や轟の壕に立ち寄りたいと思った。合掌
<六○万県民只暗黒ナル壕内ニ生ク 此ノ決戦ニ破レテ皇国ノ安泰以テ望ムベクモナシト信ジ此ノ部民ト相倶ニ敢闘ス>。……。 荒井が筆を執ったと思われるこれらの電文に関して、長男の紀雄は著書の中で、次のように述べている。<沖縄県の官民は日本本土を背にして敵の前に素手で立ち塞り、その置かれた立場においてベストを尽くしたのである。“皇国の安泰”を念じて……。それは無駄にならなかったであろうか。彼らの護った日本は彼らの死に値する日本になったであろうか。彼らは「世のため、人のために」戦った。しかし、今のおおかたの日本人の価値観は、「カネのため、自分のため」に左右されているのではないだろうか。――>
(第十ニ章 六○万県民只暗黒ナル壕内ニ生ク)
大本営から牛島軍司令官宛て「貴軍の忠誠により、本土決戦の準備は完成した―」に始まる最後の感謝電報が届いたのは、その夜だった。長年、参謀本部の暗号班に勤務していた三十二軍の電報班長・大野少佐は、それがアッツ島以来、太平洋の島々で玉砕したすべての日本軍守備隊に大本営が送った決まり文句の慣用電報であることを知っていた。それを告げられた長参謀長は「キッと唇をかんだ」と八原高級参謀は書いている。沖縄守備軍は最後の最後まで、“捨て石”扱いだったのである。牛島軍司令官と長参謀長は六月二十三日午前四時三十分、軍司令部壕で自決、沖縄戦の組織的戦闘は、やっとやんだ。(第十六章 二人の島守)
島田の出身地であり、約三〇〇〇世帯・一万人の沖縄県人が住む兵庫県は、沖縄に対する思いが熱い。沖縄戦で戦没した兵庫県民三〇七三柱を祭る「のじぎくの塔」は、摩文仁台上に立つ各都道府県慰霊碑としては八番目に古く、兵庫県遺族会が一九六四年六月、島守之塔と背中合わせの位置に建立した。のじぎくは、兵庫の県花である。各都道府県、各部隊の慰霊碑・碑の碑文には「武烈」「散華」「偉勲」「勇魂」など、戦争を肯定し、戦死を美化する響きの文言が多く、沖縄県民のまゆをひそめさせている。そんな中で「のじぎくの塔」は「――もし沖縄戦の筆舌に尽くしがたい持久と玉砕がなければ、太平洋戦争も別の経過をたどり、本土も上陸作戦による深刻な戦禍を受けることなしには終戦を見なかったでしょう……」と、沖縄が本土の盾となったことにも言い及び、沖縄県民から「一番まともな碑文」との評価を得ている。(第十六章 二人の島守)
【再読 2017.11.24】
来年の1月末 仕事で沖縄に行くことになり、もし都合がつけば、摩文仁の丘の島守之塔にお参りしたいと思い読み直しました。
その一人は沖縄戦のわずか二か月前、大阪府の内政部長から、なり手のない”民選最後の沖縄県知事”に敢然と赴任、在任五か月足らずの間に県民の疎開や食料調達、戦楊での避難誘導に全力をあげた末、四十三歳で沖縄南部・摩文仁の丘に散った兵庫県出身の牧民官・島田叡(あきら) である。
いま一人は、島田より一年七か月前に沖縄県警察部長(今の県警本部長)に赴任、当時の知事や同僚部長が沖縄から逃げ出すことばかりを考えていたのをしりめに、県外疎開など県民保護のレールを敷いた上で島田を迎え、四十四歳で運命を共にした栃木県出身の護民官・荒井退造(たいぞう) だ。
文官は軍人と違い、殉職を予期して任命されたためしはない。それが二人の場合、避けがたい運命を承知しながら赴任、誇り高き内務官僚として壮絶な殉職の道を選んだ。少なくとも県内、外に疎開した約二〇万の沖縄県民は二人によって命を救われ、犠牲者を十五万人台に押し止めたと言っても過言ではない。 本土決戦の”捨て石”にされた揚げ句、二七年間も米軍政下に放棄され、今なお在日米軍基地の七五パーセントを押し付けられて苦しむ沖縄では、県民のヤマトンチュウ(本土人)に対する目はさめている。その地で県民の浄財で建てた「島守之塔」に祭られ、「島守の神」と尊敬される理由である。
(はじめに)
戦況いよいよ危機に瀕した五月十三日には、戦況と県民の奮闘ぶりを本土・内務省に報告する”決死隊”――「警察特別行動隊」(略称・警察別動隊)八名がこの壕から出発しているし、また第三十二軍の首里撤退が迫った同二十五日には、荒井は島田と相談し、内務省に次のような電報を打っている。「六〇万県民只暗黒ナル壕内二生ク 此ノ決戦二破レテ皇国ノ安泰以テ望ムベクモナシト信ジ此ノ部民ト相倶ニ敢闘ス」 短い電文だが、米軍襲来以来二か月余、非衛生的な暗黒の壕で生きながら、背後の日本本土をかばって素手で敵に立ち向かう沖縄官民の悲痛な姿を伝えて余りある。その後を追うように六月七日、島尻郡豊見城村にあった海軍沖縄方面根拠地隊(略称・沖根)司令部壕から海軍省宛に、司令官・大田實少将(戦死後、中将)は沖縄県民の沖縄戦に対する献身的な協力ぶりを述べ、痛ましい犠牲を払った県民への後世にわたる配慮を求めた電報を打った。
「沖縄県民斯ク戦ヘリ 県民二対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ」で締めくくる世界の戦史にも例のない、あの有名な六八六文字だが、その原点になったのが”荒井電報”であったことは、これも章を改めて詳しく述べる。
(第一章 幻の”県庁・警察部壕”再発見)
そんな警察部と荒井に、さらなる試練が襲う。一九四四年七月七日夜、政府は沖縄県民の県外疎開を決定、県に伝えて来たのである。 東条首相兼陸相はこの年二月から参謀総長まで兼任、嶋田繁太郎海軍大臣にも軍令部総長を兼務させる独裁人事を強行し、マリアナ諸島のサイパン島について「難攻不落」と豪語していた。しかし、この日、守備隊約三万一〇〇〇人が二十三日間の死闘の末にあえなく玉砕、多数の出稼ぎ沖縄県民を含む在留邦人約一万二〇〇〇も運命を共にした。これが二年九か月に及んだ東条内閣総辞職(七月十八日)の引き金になるのだが、同夜の緊急閣議は「沖縄に戦火が及ぶ公算大」と判断、沖縄本島、宮古島、石垣島、奄美大島、徳之島の五島から、六十歳以上と十五歳未満の老幼婦女子と学童を本土と台湾へ集団疎開させることを決めた。 この日以降、沖縄県政は広い意味での”戦場行政”に入った。つまり県土が戦場になることを前提にした仕事を優先し、軍の作戦目的に従属することを意味した。
(第二章 疎開の恩人・荒井警察部長)
「対馬丸」(六七五四トソ)は元々、日本郵船所有の貨物船だったが、陸軍が徴用し、病院船として傷病兵輸送に使っていた。戦闘力は敵潜水艦の攻撃に備えて二門の砲座を装備しただけであったが、速カ一二ノットの優秀特務艦だった。僚船の「暁空丸」「和浦丸」と共に八月五日に門司から第二十四師団を、同十九日には上海から第六十二師団を輸送して那覇港に回航、疎開学童の第二陣と一般疎開者輸送が次の任務となった。この時、海軍は特別援護室の浦崎室長と永山寛視学に船内の下検分を許した程だから、船には相当の自信を持っていたと思われるのだが……。 那覇港で市内八国民学校の疎開学童八二五人と一般疎開者八三六人を乗せ、同二十一日午後六時三十五分、鹿児島へ向け出航した。僚船五隻と船団を組み、駆逐艦「宇治」と「漣(さざなみ)」が護衛に当たった。
この船団が二十二日夜、鹿児島県十島村悪石島近海にさしかかった時、「対馬丸」の機関部が不運にも故障し、速度が落ちて、僚船との間隔が次第に大きくなった。午後十時十分ごろ、鹿児島の南西二六〇キロ、悪石島の北西一一キロの海上で、米潜水艦「ボーフィン号」の魚雷攻撃を受け、物凄い大音響、火柱と共に船体は三つに裂け、十一分で海底に没した。
(第三章 対馬丸事件に苦悩)
美喜子は夫があまりにもあっさり沖縄県知事の内命を受けたのに驚き、我を忘れて叫ぶように言った。 「沖縄はもうすぐ戦争になるのでしょ。そんな所へなぜ、あなたが行かなければならないのですか。私たちはどうなるのですか」 「だれかが、どうしても行かなならんとなれば、言われたおれが断るわけにはいかんやないか。おれが断ったらだれかが行かなならん。おれは行くのは嫌やから、だれか行けとは言えん」「私たちは何にも悪いことをしてないのに、沖縄にやられるなんて。そんな内務省なら、いっそ辞めてしまいましょうよ」「これが若い者なら、赤紙(召集令状)一枚で否応なしにどこへでも行かなならんのや。おれが断れるからというので断ったら、おれもう卑怯者として外も歩けんようになる」 「それにしても、あんまりひどい。私たちだけが、なぜこんな目にあわねばならないのですか」 「そんな無理を言うて、おれを困らせるもんやない。それに必ず死ぬという風に悪くばかり取るのは、どうかしとうのんとちゃうか」 と言ったきり島田は、腕をこまぬいて黙り込んでしまった。
その日の昼前、勝島は島田に電話で呼ばれ、妻と小学生の息子を連れて内政部長官舎へ駆けつけた。勝島と島田は三高野球部時代の一九二〇年(大正九年)、一緒に松江の島根商業へコーチに行ったのが縁で、肝胆相照らす仲になった。島田が勝島家へ足しげく出入りするうち美喜子を見初め、義兄弟になったという間柄である。勝島は著者に「妹は島田のことを思い出すのもつらいようで、世間から身を隠し、どちら様へも大変失礼しています。私が家を訪ねても、島田への思いにつながるのか、帰ってくれと言いましてねえ。女ごころとは、そういうものでしょうか」と前置きして、あの日のことを話してくれた。
「行くなり島田は私を応接間へ招き入れまして、『実はけさ、内務省から池田知事を通じ、沖縄の知事に、との話があったので受けて来た』と言うんです。私はびっくりしましてね。『どうしてだ』と聞くと、『牛島さん(第三十二軍司令官)から赴任を望まれた。男として、名指しされて、断ることはでけへんやないか』と言いました。牛島将軍とは上海総領事館の警察部長時代(一九三九~四二年)に、知り合いになったと聞きました。私は、ああ、こいつは死ぬ覚悟をしたな、とその時、もう思いましたねえ。自分でこうと決めたら、テコでも動かない島田の性格をよく知っていましたから、引き止める説得はしなかった。あとで私は島田と共通の友人達に、ひどく責められました。なぜ、そんな話を島田に断らせなかったんだ、島田を説き伏せなかったんだ、と。しかし、決心したんだ、受けたんだ、行くんだ、と言えば、これはもう、どれだけのことを言おうと、無駄です。言ったって、聞く男じゃないしね」 島田と池田知事とのやりとりは、どんな様子だったのか。のち衆議院議員を二期務めた池田は一九六六年に亡くなったが、島田の出身校である旧制神戸二中(兵庫県立兵庫高校の前身)の二年後輩で、島田を慕って三高野球部に入った旧・関西六大学野球連盟(現・関西学生野球連盟)理事長・名倉周雄は戦後、池田と懇意になり、何度もその経緯を聞いている。この人も今は故人だが、生前、著者に語ってくれた話はこうだ。
「内務省からは、島田を沖縄県知事候補に内定したので意向を聞いてくれ、もし、うまくない時は、次の候補に当たらねばならないから、返事は早い方がありかたい、ということだったようです。そこで、池田知事が『こんな話が来ているが、君、どうかね』と尋ねると、島田さんは『私が行かなかったら、だれかが行かねばならんでしょ。私が行きます』と、はっきり即答された。この早すぎる返答には、池田さんの方がむしろ驚いて『君、家族もあり、親族もあることだから、三日程よく考え、相談した上で、返事しても良いんだぞ。断っても良いんだぞ』と言ったが、島田さんは『いや、これは、妻子に相談することじゃあありません。私が決めることです』と言って、返事を変えなかった。池田さんは、この話をする度に『島田君は偉い。出来ることじゃあない』と繰り返していました。ただ『事前に何の相談もしてもらえなかった奥さんは、つらかっただろうなあ』とも、おっしゃっていました」 正に敢然たる拝命。島田新沖縄県知事を含む一一人の人事は、翌十二日、閣議決定され、即日発令された。
(第五章 島田知事、敢然と赴任)
日本軍は砲爆撃の聞は洞窟陣地に潜み、敵が前進して来ると至近距離まで引きつけ、必中の狙撃を浴びせた。接近する戦車には、火薬一〇キロ詰めの箱爆雷を背負った兵が体当たりで爆破するなど、文字通り肉弾戦で対抗した。米軍の最前線は四月八日から二十三日まで、首里の北乃至北東方五~六キロの日本車防御第二線・牧港―嘉数―西原―我如古―上原の線で釘付けとなった。
この間、特攻菊水作戦は米英海軍を恐慌状態に陥れた。四月六日の第一号作戦は陸・海軍特攻機二二六機が敵艦に体当たり攻撃を敢行、二四隻を撃沈破したのをはじめ、沖縄戦の組織的戦闘が止む六月までに第十号作戦まで強行した。敵に与えた損害は轟撃沈三六隻、損傷二七八隻にのぼり、米英艦隊将兵に戦場恐怖症患者が続出、米攻撃軍総司令官・スプールアンス大将も悲鳴を上げた程である。
しかし、死を以てあがなう”邪道の用兵”によって投じられた特攻機は海軍九八三股、陸軍九三二機、計一九一五機の多きを数え、奏効率は僅かに一六パーセント。海軍二五四五人、陸軍一八四四人の計四三八九人が、若く尊い命を散らした。 壕拡張作業の追い込みに入っていた県庁、警察部の人たちも、いち早く特攻機に気づいた。隈崎手記によれば、毎日、日暮れ時になると、遠雷に似た音を聞くようになった。初めのうちは「何だろう」と話し合ったが、それが我が特攻隊の来襲に対する敵の防空弾幕の音と分かって、皆は躍り上がった。来る日も来る日も我がもの顔で頭上を乱舞する敵機にたたかれ続け、悔しい思いをして来たからである。
轟音が聞こえると、皆は壕を飛び出し、岩陰に身を潜めて音の方向に眼を凝らした。識名台地から真北へ約二五キロ、暮色にかすむ残波岬の沖合で、幾百条もの照空灯が天空を焦がし、火の雨が逆さに降るような防空弾幕が、おっ立った。この物凄い弾幕の中へ、ひたむきに祖国防衛の火の玉となった若鷲は、突入しているのであろう。やがて真紅の光が一閃、ダダーンと大きな爆音が伝わってきた。狂ったような照空灯の光も、火の壁のように打ち上げられた弾幕も、一瞬かき消すように闇の中に消えて、暗い海上にはただ一点、赤い炎が燃え残っていた。一閃の光と共に消え去ったであろう若鷲の魂に、一同は思わず合掌するのであった。隈崎の迫悼の一首。
照空燈狂う夜空に合掌す遂げよ若鷲遥かにも来て
(第十章 米軍上陸下の”新壕”生活)
首里攻防戦は急迫していた。警察別動隊が動き出した五月十二日、米第六海兵師団は首里城の西約二・五キロ、那覇市安里と真嘉比との間にある「シュガーローフ(棒砂糖)」と呼んだ高地に殺到した。今の国際通り東端に近く、那覇新都心として整備中の「おもろまち一丁目」、安里配水池付近の高台である。ここは日米両軍による頂上の占拠が一日に四回も入れ代わった最激戦地で、丘陵が砲撃で白っぽくなったところから、米軍はこの呼び名をつけた。米軍は制圧する十八日まで一週間の戦闘で、実に二六六二人が死傷、他に一二八九人もの戦闘恐怖症患者を出した。沖縄戦中、米軍は一万余の精神病患者を出しているが、ここでの発症が最も多く、症状も重かった。海兵隊の二つの連隊は、六人の大隊長全員と中隊長の三分の二に近い一一人を死傷させた。 また二十一日、米軍は首里城の東約二・五キロにある運玉森(標高一五六メートル、現・沖縄カントリークラブ)の東斜面を確保、翌二十二日には安里川を渡って那覇市に突入するなど、首里戦線は崩壊の危機に瀕した。
(第十二章 六〇万県民只暗黒ナル壕内ニ生ク)
荒井が筆を執ったと思われるこれらの電文に関して、長男の紀雄は著書の中で、次のように述べている。
<沖縄県の官民は日本本土を背にして敵の前に素手で立ち塞り、その置かれた立場においてベストを尽くしたのである。”皇国の安泰”を念じて……。それは無駄にならなかったであろうか。彼らの護った日本は彼らの死に値する日本になったであろうか。彼らは「世のため、人のために」戦った。しかし、今のおおかたの日本人の価値観は、「カネのため、自分のため」に左右されているのではないだろうか。――>
この意見には著者も全く同感だが、いま一つ、「日本戦没学生の手記 きけわだつみのこえ」に収録されている学徒特攻隊員の遺書の一節には、こうある。
<ただ、なによりも案ずるのは、私たちが護ったこの国が次の時代にいかなる生成をし、発展するかということです。戦争直後の疲弊や変調よりも、もっと先の文化の問題が気になります。>
これを読む時、至誠も節義も二の次になってしまったこの国の情けない現状を見抜かれている思いがして、赤面を禁じ得ない。
(第十二章 六〇万県民只暗黒ナル壕内ニ生ク)