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あらすじ
ジョブズのiPodの中身は?デザインスタジオで「3年先の未来を見る」、「宇宙に衝撃を与える」製品の開発秘話、禅、京都、イッセイミヤケを愛する日本通、はじめて明かされた家族との私生活、何度も命を落としかけた壮絶な闘病、終生のライバル、ビル・ゲイツとの最後の対面、政治改革から新社屋まで、亡くなる直前まで情熱を注ぎ続けていたもの、最後のカリスマ、ジョブズのすべてが明らかに。

 

ひと言
ビートルズの曲がiTunesストアでずっと取り扱われていなかったことに驚きました(自分はビートルズのCDからiPodに取り込んで何年も前からずっと聞いていて、数年前までアビーロードのB面の曲と曲の間が途切れていたことに不満だったのに、それも解決されてiTunesってすごいなあってやたら感心してアビーロードのB面を聞いていました)だから最近、マジカルミステリツアーの曲にのせたTVのCMをやっていたんだということがわかりました。ジョブズの大好きなビートルズがiTunesストアで扱えるようになったから、あんなに素晴らしいCMを作ったんだと感動しました。他にも三宅一生の黒のハイネックの話や東芝の1.8インチのハードディスクの話などけっこう有名な話もあり、とても楽しくそして懐かしく読ませてもらいました。ありがとうスティーブ・ジョブズ。ご冥福をお祈りします。

 

 

僕は、年を取るほど、モチベーションが大事だと思うようになった。……。アップ ルが勝ったのは、僕ら一人ひとりが音楽を大好きだったから。みんな、IPodを自分のために作ったんだ。自分のため、あるいは自分の友だちや家族のために努力するなら、適当をかましたりしない。大好きじゃなければ、もう少しだけがんばるなんてできない。(第30章 iTunesストア ハーメルンの笛吹き)

 

 

ゲイツは、共通の友人であるマイク・スレイドを通じて5月に訪問する約束を取りつけた。しかし、予定の前日、体調が良くないとジョブズのアシスタントから連絡が入り、延期となる。そしてある日の午後、ゲイツはジョブズの自宅へ車を走らせ、裏門から入ると、開いていたキッチンのドアから中をのぞき、テーブルで勉強をしていたイブにたずねた。「スティーブはいるかい?」イブが指さした先はリビングだった。それから3時間あまり、ふたりだけで昔話をした。「業界の古株がふたり、昔をふり返るって感じだったよ。あんなに幸せそうなビルははじめて見たね。僕はといえば、彼は健康そうだなあなんて思っていたよ」(第40章 第3ラウンド たそがれの苦闘)

 

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あらすじ
都内で起きた不可解な連続殺人事件。現場に残されたある手がかりから、次の現場が超一流のホテル・コルテシア東京と割り出された。容疑者もターゲットも不明のまま、警察は大胆にも潜入捜査を開始。やり手の刑事・新田浩介は一流のフロントスタッフ・山岸尚美とコンビを組むことに。そこへ、次々と怪しげな客たちがやってくる。ターゲットは、そして犯人は誰なのか。誰も予想しえなかった驚愕の真相とは?東野圭吾史上最高に華麗な傑作長編ミステリ。

 

ひと言
マスカレード( masquerade )を調べると【名詞】仮面[仮装]舞踏会、見せかけ 【動詞】変装する、他人になりすます とあり、さすが東野 圭吾さん。この本の内容にピッタリのタイトルだなあと思いました。伏線の張り方などミステリー小説として もちろん文句なく楽しめたのですが、すべてのことを疑ってかかる刑事とお客様がルールブックであると考えるホテルマン、相容れない2人のプロフェッショナルをこんな風に見事に描いてみせる力量はさすが東野 圭吾さんだと思いました。この本を読んでホテルマンになりたいと思う人が増えるんでしょうね。ところで、たくさん出てくる部屋番号にも何かこの本の内容とは関係ないトリックがあるのかなぁと思ってしまったのは私だけでしょうか。

 

 

「だって、ホテルからうちに電話があったんだもの。部屋にお守りを忘れていかれたようなので、どこで受験するのか教えてもらえませんかって。私はね、わざわざ届ける必要なんかありませんっていったのよ。どうせあの子はお守りなんか信じてないし、私が無理に持たせたものだからって。でもホテルの人は、お守りを忘れたということで、お嬢様が不吉な気持ちになっていたらかわいそうじゃないですかとおっしゃったの。そういわれればそうかなあと思って、受験場所と受験番号を教えたのよ。あなた、ちゃんとお礼をいったでしょうね」(4)

 

 

「もしかすると、今回、片桐様はご主人のために下見を?」(8)

 

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あらすじ
「大切なひとを想いながら、読んでほしい。」いま、あなたに届いてほしい願いがある。これからもずっと、届けたい祈りがある。震災の夜、避難所で20歳の大学生が世界からのPRAY<祈り>をWebサイトに集めた。私は祈る。私たちは祈る。何を祈るのか。日本のこと、家族のこと、友達や恋人、おじいちゃん、おばあちゃん、動物たち、そして故郷に……。
大切なひとを想いながら、1ページずつ、めくってほしい。

 

ひと言
今年の年賀状は、いつも「あけましておめでとうございます」と書く所に「 PRAY FOR JAPAN 」と書いてイラストの折り鶴を添えた。もちろん prayforjapan.jp ( 震災発生の12分後から届き始めた、海外・国内からの〈祈り〉のメッセージ、エピソードを集めたWebサイト。震災当夜、停電中の一時避難所にいた20歳の大学生によって立ち上げられた。)の祈りを込めて書いた言葉だ。
「本は買うものじゃない。読むものだ」という自分自身のこだわりがあって、本はほとんど買わないのだが、この本は印税が全額、復興のための寄付にあてられるということなので購入しました。
この本からではないのですが、年末に図書館で借りた「希望 命のメッセージ (鎌田 實)」からの言葉です。

 

 

「がんばれ」という言葉は、発する側にとっては、とても便利な言葉です。最初の1ヶ月は、被災者にとっても、避難所を訪れるボランティアの人に「がんばって」と言われることが励みになったことでしょう。しかし、家を失い、家族を亡くし、仕事を奪われ、将来の見通しが立たない被災生活が5ヶ月も続くと、「がんばれと言われても、いったい何をがんばればいいのか」といった感情が芽生えるのが当然です。……。そんな現実の中に放り出されている被災者にとって、必要なのは「がんばれ」という言葉ではなく、希望です。……。つまり、温かい食べ物を口にした時のほっとする感じ、温かいお風呂の中で足を思い切り伸ばしてゆったりできる開放感と安堵感の創出です。 ……。希望とは、本人が自ら見出すべきもので、他人が勝手に「希望を持て」などと言うべきことではないのです。そして、ぼくたちが本当にするべきことは、希望を見出すきっかけを創出することなのです。

 

 

「人間が困難に立ち向かう時に必要なことは、働く場所があることと、愛する人がいることだ」
(フロイトの言葉)

 

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あらすじ
40歳から始めよう。 人生後半、胸を張れ。人気作家が初めて描く同世代のドラマ。著者、会心の長編小説が誕生! 人生の半分が終わってしまった。それも、いいほうの半分が。
投げやりに始めたプロデュース業で、さまざまな同世代の依頼人に出会い変身する吉松喜一、40歳。生きることの困難と、その先の希望を見つめた感動作!

 

ひと言
この本も昨年末に読んだ本なのだが、最近はブログの更新がおっくうになってきてアップが年明けになってしまいました。今年は読んだらなるべく早く更新を心がけるようにします。

 

 

人生の半分が終わってしまった。それも、いいほうの半分が  ぎくっとするフレーズだが、
今年の1月2日 実家でふとんを押し入れにしまうときにぎっくり腰になってしまいました。実は昨年もなって2日ほど起き上がれませんでしたが、今回は湿布薬とコルセットで痛いけど どうにかまだ動けます。私の場合は50歳なので人生の半分以上が終わってしまってますが、この本で少し元気をもらったような気がします。

 

 

余計な荷物を全部捨ててしまっても、人生には残るものがある。それは気もちよく晴れた空や、吹き寄せる風や、大切な人のひと言といった、ごくあたりまえのかんたんなことばかりだ。そうした『かんたん』を頼りに生きていけば、幸せは誰にでも手の届くところにあるはずだ。

 

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あらすじ
私たちはたくさんの愛を贈られて生きている。この世に生まれて初めてもらう「名前」。放課後の「初キス」。女友達からの「ウェディングヴェール」。子供が描いた「家族の絵」―。人生で巡りあうかけがえのないプレゼントシーンを、小説と絵で鮮やかに切りとった12編。贈られた記憶がせつなくよみがえり、大切な人とのつながりが胸に染みわたる。

 

ひと言
この本は、一年の締めくくりにと思って昨年の最後に読み終えた本です。松尾たいこさんの挿絵や包装紙のようなブックカバー。お二人から心にしみるプレゼントありがとうございました。
3.11で大切なものをことごとく失われた方々が笑顔を取り戻せる日が一日でも早く訪れますように!

 

 

品物は、いつかなくなってしまっても、贈られた記憶、その人と持った関係性は、けっして失うことがない。私たちは膨大なプレゼントを受け取りながら成長し、老いていくんだと思います。(あとがき)

 

 

もう使うことのない合い鍵を、私は強く握りしめる。たしかにこれは、八年間いっしょにいた一番近しい人からの、最後の贈りものなのかもしれない。この鍵で、実際私は世界の扉を開けたのだ。だれかとともにいること、信じること、愛すること、乗り越えること、あきらめること、かなわないこと、上を向くこと、思いきり泣くこと、やきもちをやくこと、歩き出すこと、進み続ける時間に目を凝らすこと、ぜんぶこの鍵で開けた扉の向こうにあった。それらはもうすでに私の手のなかにあり、この先ずっと失うことがない。今、用無しの鍵はそんなことを私に告げている。いつか、博明の顔を思い出せないくらい時間がたっても、この鍵はひょっこり出てきて、私にくりかえし告げるだろう。捨てたもんじゃない、世界も恋も、と。(Presents #6 合い鍵)

 

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あらすじ
現代を生きた天才のありのままをつづった公式伝記本。死してなお“Steve Jobs”の名は、世界をかけめぐる。ひとりの人間がどれだけ大きなことを成しえるか。人間の可能性の無限を感じずにはいられない。ジョブズ氏が生涯に渡って遺したの多くの言葉に、ひょっとしたら自分にも何かができるかもしれない、今すぐ何かをはじめなければならない、とそんな刺激に満ちた上下巻の2冊である。

 

ひと言
まだ上巻しか借りることができなかったので、はやく下巻のアップルに復帰してimacやiPhoneを生み出すときの話を読みたいと思った。全世界同時その上緊急発売ということもあり井口 耕二さんの訳は原書 Steve Jobs の雰囲気通りにという声もあるが、日本語としては少し読みにくい感があった。若くして亡くなられたスティーブ・ジョブズのご冥福をお祈りします。

 

 

新しいロゴの制作を任されたのは、アートディレクターのロブ・ヤノフだ。「かわいいのはやめてくれよ」とジョブズに指示されたヤノフは、リンゴをモチーフとしたロゴ、2種類を提出。ひとつは完全なリンゴ、もうひとつは一口かじった形だった。かじられていないほうはサクランボに見えたりするからと、ジョブズはかじられたほうのリンゴを選んだ。色は、アースカラーのグリーンと空のブルーにサイケデリックな色を挟み、ストライプ状にした6色だ(印刷コストがすごくかさむロゴである)。パンフレットの表紙上部に、レオナルド・ダ・ビンチのものとされる格言を置いた。その後、ジョブズのデザイン哲学を支えることになる一文だ
―「洗練を突きつめると簡潔になる」。(第6章 アップルⅡ ニューエイジの夜明け)

 

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あらすじ
マキとフミは、できたてホヤホヤの「新米きょうだい」二人の心は、近づいたり離れたり、すれ違ったり衝突したり…こんなふうにして、わたしたちは少しずつ家族になっていく。母を亡くした小学四年生のフミ。親の離婚で苗字も学校も変えなくてはならなかった六年生のマキ。それぞれの父母が再婚して「家族」となった二人の少女が過ごした始まりの日々を、やさしく見つめる姉妹小説の決定版。

 

ひと言
なかなか忙しくて、本はできるだけ時間を作って読むようにしているれど、ブログの更新がついつい延び延びになってしまいます。いつも重松清さんの作品は、心に響いてあたたかい気持ちにさせてくれます。
ありがとう重松清さん。

 

 

「甘えて寄ってくる猫を抱っこしてあげるのも優しさだけど、わざと追い払って、人間の怖さを教えてあげるのも優しさなの。…」(第一章 4)
お母さんは、フミがお見舞いに来る日やその前日に雨が降ると、てるてる坊主をつくって病室の窓に吊していた。雨の中をお見舞いに来るのは大変だから、天気が良くなるように祈ってくれていたんだ、と昔は思っていた。でも、お母さんが亡くなったあとで、お父さんが教えてくれた。お母さんは、お見舞いを終えて病院の門まで歩くフミを、病室の窓からいつも見送っていた。顔を見てしまうと悲しくなるから、フミにこっちを振り向かせないよう、お父さんに頼んでいたのだという。そのときにフミが傘を差していると、後ろ姿が見えなくなってしまう。だから、せめてフミが帰るときには雨があがっていてほしい。そんな祈りをこめて、てるてる坊主をつくっていたのだという。ティッシュペーパーを丸めて輪ゴムで縛っただけのてるてる坊主は、変わった形をしていたわけではない。顔のところに目や鼻が描いてあったかどうかも覚えていない。でも、それは、フミにとっては特別なてるてる坊主になった。(第三章 1)
「悲しいときって、涙に向かって一直線っていう感じでしょ。でも、寂しさって、そうじゃないのよね。夜のうちに雪が積もって、朝になったら外が真っ白になってるみたいな…」(第四章 3)
「あのね…やっぱり、マキちゃんのウチの庭に放してやって」「いいの?」「このテントウムシ、きょうだいがいるんだって。オレ、夢で見ちゃった。こいつが兄ちゃんで、弟がいるんだって。だから、やっぱりかわいそうだから、もとのところに逃がしてやる。マキちゃんに返すから、逃がしてやって」(第四章 4) 

 

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あらすじ
携帯ゲーム会社「ロケットパーク」を設立し一躍時代の寵児となった耀司。さらなる事業の拡大を目指して企業買収にのりだしたが、マネーゲームに翻弄され命を狙われることになる。いまこそ亡き母との約束を守るときだ。親友・耀司を守るため、カンタはある決意のもと沖縄へ旅立つ。

 

ひと言
この小説を読んだ誰もが 真っ先にライブドア元社長の堀江 貴文さんを思い浮かべると思うが、ホリエモンが時の人になってからもう6年、今はどう過ごしているのだろう。

 

 

子どもたちが弱っている相手に張るレッテルに容赦はなかった。残酷さには必ず、どこか愉快なところがある。まして、相手が自分のクラスのお荷物なら、痛快このうえなかった。いじめられる立場を想像しろというのは、子どもたちにとって叩き落とされる蚊の気もちを考えろというのといっしょだった。ただ耳元でやかましいから、潰すのだ。ちいさな獣たちに迷いはなかった。(第2章)
「学校だけじゃなくて、ほかの場所にいっても、きっと会社や工場とかでも同じだと思う。あのね、目立つのは危ないことなんだよ。うちのお兄ちゃんも、カンタくんも人とは違う。人と違うと目立つ。目立つとそれだけで、狙われちゃうんだ。あの人は違うから、いじめようって」(第2章)
「そんなにかかるんですか」「そうだ、ただしいことというのは、だいたいお金がかかるものだ」耀司が口のなかでつぶやいた。「正義にはお金がかかる」「そのとおり。それから、わたしから忠告をひとつ。いいかな、決して裁判とか法律とか警察にかかわらないほうがいい。人を裁くというのは、その人を人間らしくしているやわらかな部分を全部削ぎ落としていく仕事だ。しあわせでいたければ、司法には近づかないこと」(第8章)

 

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あらすじ
果てしない悲しみの大地に
新しい心で立ち上がる人々がいた。
石巻市街から牡鹿半島の漁村まで。
変わり果てた被災地を巡り、人々から託された
「命の言葉」をつづるノンフィクション。

 

ひと言
明日で震災から8ヶ月。毎日、新聞に掲載されている被災者数は死亡15835人 不明3664人(11月9日現在)。家族を、家を、仕事を一瞬にして失った人々、まだご家族のご遺体さえ見つからない人々 にかけてあげる言葉すら見つけられない。「がんばろう」だなんて誰が言えるだろう。ただ無力な私たちにもできることは、この震災を、亡くなった人たちのことを ずっと忘れないでいること。そうすれば亡くなられた方たちは、私たちの心の中にずっと生き続けることができるのだから。
長い引用になるが、平成23年4月15日 こんな卒業式があったことを忘れないようにするためにここに記す。

 

 

全員分の卒業証書の授与を終えて、鈴木校長が最後の挨拶を始めた。「ひと月遅れになりましたが、多くの皆様のご厚情とご配慮によって、ここ門脇中学校を会場に、平成22年度石巻市立門脇小学校の卒業式が行われますこと、心より感謝申し上げます」校長の声は震え気味で、少し涙ぐんでいるようにも見える。「いま、巣立ちゆく皆さんひとりひとりに、卒業証書を手渡しました。この卒業証書は、6年間の小学校の学業を修めたという証です。卒業証書を受け取るときの皆さん、真っ直ぐな視線、堂々とした態度に、大震災を乗り越えようとする強さとたくましさが感じられます。悲しいことに、まだ行方不明の○○君、また、震災後、石巻の地を離れ、新しい土地で、新学期を迎える子どもたちに、この卒業証書を直接渡すことができなかったことが、残念でなりません。
あの尋常ならざる強い揺れの中、あなたたちは、校庭へ一時避難。無事、全員の点呼確認が終わるやいなや、大津波警報の知らせに、そのまま日和山へ。鈍色(にびいろ)の雲が低く垂れ込め、けたたましく緊急事態を告げるサイレンの音、雪がこともなげに吹きつける悪条件が加わるという不穏な雰囲気の中、あなたたちは、地域のお年寄りや、小さな子どもたちの手を引きながら、落ち着いた足取りで避難したのでした。
日和山へたどりついても、寒さに震える下級生を守ろうと、教頭先生から渡されたブルーシートの端を持ち、待ち続けたのでした。非常時において、あのような思いやりの行動がとれるということは、大変素晴らしいことだと感心させられました。きっと下級生や、地域の方の心にも残ることでしょう。
日和山から望む私たちの街は、本当に美しい街でした。学区の東側を流れる北上川は、日和大橋からゆったりと太平洋に注ぎ、揚々と望みを抱かせる海に面した山は、石巻の顔であり、私たちの自慢の風景でした。
それが、あの日、大海原は川を変え、牙をむき出し、一瞬のうちに私たちの街をのみ込んでしまったのです。そして、瓦礫の山と化してしまったのです。
すさまじい光景。惨状。自然の脅威に、語るべき言葉を失ってしまいました。私たちの校舎も、大破、炎上しました。燃え尽くされ、黒焦げになってしまった校長室。その中で、堅牢な耐火金庫のみ、なぎ倒され、残っていました。皆さんが、いま手にした卒業証書は、その中にあったんです。まさに、奇跡といえるのではないでしょうか。
この卒業証書は、皆さんのこれまでの努力と、頑張ってきた姿を、しっかりと認め、励ますために、生きていたのだと思います。希望の確かな証である、この卒業証書を手にした皆さん、これから歩みゆく道は、険しく、厳しいものであろうとも、それを切り抜くエネルギーを持ち、強く生きてください。そのことを切に望みます。多くの人たちが、支えてくださっているのですから。
保護者のみなさん、子どもたちは、感謝の気持ちを込めて、思い出の残る最高の式にしたいという願いを持って、前進を重ねてまいりました。そのすべてをお見せすることができない形で、このような卒業式になったことをお許しください。しかしながら、私はこの卒業生の姿に、いまなお、黒く焼け焦げた校舎の屋上で、燦然と輝いている『すこやかに育て心と体』(門脇小学校スローガンの看板)。門小が目指してきた子ども像です。子どもたちのこの成長ぶりこそ、これまで『子育ては子守』を合言葉に、学校、家庭、地域がともに手を携え、愛しみ、育ててきた、何よりの財産なのではないでしょうか。
1000年に1度という大津波に遭遇し、愛する街、愛する人、思い出いっぱいの学びの校舎は、失われてしまいましたが、子どもたちを愛しみ、育ててきた営みは、137年の歴史と伝統を持つ門小の1ページ、確かな歩みとして、刻まれることと確信しています。
未曾有の災害の中で、重ねた命です。厳しくも前途多難な子育てになると思いますが、子どもたちがそれぞれの道で、春を迎えることができるよう、親として、大人としての務めを果たそうではありませんか。

 

 

『桃花笑春風(とうかしゅんぷうにえむ)』。

 

 

この言葉は、奇しくも3月11日の朝会で、子どもたちに贈った言葉です。困難を乗り越え、強く生き抜くことを祈念してやみません。
巣立ちゆく 被災の子らに 桜かな。卒業、おめでとう!ひと月遅れの卯月の卒業式」
……。
式の終わりを告げる号令の後、ちょっとしたサプライズが待っていた。卒業生たちが一斉に、校長の座る席のほうに向き直ったのだ。
「校長先生は、僕たちに、大切なことをたくさん教えてくださいました。校長先生は、33年間の長い間、たくさんの卒業生を見送ってきたことと思いますが、僕たちが最後の卒業生となります。今回の震災で、門脇小学校の校舎はなくなってしまいましたが、学んだことを決して忘れず、これからもがんばっていきます。これまで教えていただいたことに、感謝の気持ちを込めて、卒業証書を贈ります。平成23年4月15日 平成22年度 門脇小学校卒業生一同」最後の卒業式となった鈴木校長への感謝の気持ちを込めて、今度は、校長へ卒業証書が手渡された。布施亮君がマジックで丁寧に手書きしたという証書は、自分たちとおそろいの紺色の台紙に収められていた。小さな会場に再び、大きな拍手が沸き起こった。(1 「卒業証書」は残った 石巻市・門脇小学校の卒業式)

 

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あらすじ
島田叡。沖縄県知事。米軍沖縄攻撃二か月前に赴任。荒井退造。沖縄警察部長。島田とともに二〇万県民の命を救う。一九四五年夏、摩文仁の丘で消息を絶つ。
沖縄戦後、五十八年目にして発掘された新事実。

 

 

 

ひと言
図書館の閉架書庫にあったこの本を資料請求して借りた。神戸の兵庫高校に行く前に読みたかったが今になってしまった。今年の夏、沖縄に行った折、摩文仁の丘の島守之塔に立ち寄れなかったことが本当に残念でならない。今度沖縄へ行くことがあれば是非、摩文仁の丘や轟の壕に立ち寄りたいと思った。合掌

 

 

 

 

<六○万県民只暗黒ナル壕内ニ生ク 此ノ決戦ニ破レテ皇国ノ安泰以テ望ムベクモナシト信ジ此ノ部民ト相倶ニ敢闘ス>。……。 荒井が筆を執ったと思われるこれらの電文に関して、長男の紀雄は著書の中で、次のように述べている。<沖縄県の官民は日本本土を背にして敵の前に素手で立ち塞り、その置かれた立場においてベストを尽くしたのである。“皇国の安泰”を念じて……。それは無駄にならなかったであろうか。彼らの護った日本は彼らの死に値する日本になったであろうか。彼らは「世のため、人のために」戦った。しかし、今のおおかたの日本人の価値観は、「カネのため、自分のため」に左右されているのではないだろうか。――>
(第十ニ章 六○万県民只暗黒ナル壕内ニ生ク)

 

 

大本営から牛島軍司令官宛て「貴軍の忠誠により、本土決戦の準備は完成した―」に始まる最後の感謝電報が届いたのは、その夜だった。長年、参謀本部の暗号班に勤務していた三十二軍の電報班長・大野少佐は、それがアッツ島以来、太平洋の島々で玉砕したすべての日本軍守備隊に大本営が送った決まり文句の慣用電報であることを知っていた。それを告げられた長参謀長は「キッと唇をかんだ」と八原高級参謀は書いている。沖縄守備軍は最後の最後まで、“捨て石”扱いだったのである。牛島軍司令官と長参謀長は六月二十三日午前四時三十分、軍司令部壕で自決、沖縄戦の組織的戦闘は、やっとやんだ。(第十六章 二人の島守)

 

 

島田の出身地であり、約三〇〇〇世帯・一万人の沖縄県人が住む兵庫県は、沖縄に対する思いが熱い。沖縄戦で戦没した兵庫県民三〇七三柱を祭る「のじぎくの塔」は、摩文仁台上に立つ各都道府県慰霊碑としては八番目に古く、兵庫県遺族会が一九六四年六月、島守之塔と背中合わせの位置に建立した。のじぎくは、兵庫の県花である。各都道府県、各部隊の慰霊碑・碑の碑文には「武烈」「散華」「偉勲」「勇魂」など、戦争を肯定し、戦死を美化する響きの文言が多く、沖縄県民のまゆをひそめさせている。そんな中で「のじぎくの塔」は「――もし沖縄戦の筆舌に尽くしがたい持久と玉砕がなければ、太平洋戦争も別の経過をたどり、本土も上陸作戦による深刻な戦禍を受けることなしには終戦を見なかったでしょう……」と、沖縄が本土の盾となったことにも言い及び、沖縄県民から「一番まともな碑文」との評価を得ている。(第十六章 二人の島守)

 

 

【再読 2017.11.24】

 

 

来年の1月末 仕事で沖縄に行くことになり、もし都合がつけば、摩文仁の丘の島守之塔にお参りしたいと思い読み直しました。

 

 

その一人は沖縄戦のわずか二か月前、大阪府の内政部長から、なり手のない”民選最後の沖縄県知事”に敢然と赴任、在任五か月足らずの間に県民の疎開や食料調達、戦楊での避難誘導に全力をあげた末、四十三歳で沖縄南部・摩文仁の丘に散った兵庫県出身の牧民官・島田叡(あきら)である。
いま一人は、島田より一年七か月前に沖縄県警察部長(今の県警本部長)に赴任、当時の知事や同僚部長が沖縄から逃げ出すことばかりを考えていたのをしりめに、県外疎開など県民保護のレールを敷いた上で島田を迎え、四十四歳で運命を共にした栃木県出身の護民官・荒井退造(たいぞう)だ。
文官は軍人と違い、殉職を予期して任命されたためしはない。それが二人の場合、避けがたい運命を承知しながら赴任、誇り高き内務官僚として壮絶な殉職の道を選んだ。少なくとも県内、外に疎開した約二〇万の沖縄県民は二人によって命を救われ、犠牲者を十五万人台に押し止めたと言っても過言ではない。 本土決戦の”捨て石”にされた揚げ句、二七年間も米軍政下に放棄され、今なお在日米軍基地の七五パーセントを押し付けられて苦しむ沖縄では、県民のヤマトンチュウ(本土人)に対する目はさめている。その地で県民の浄財で建てた「島守之塔」に祭られ、「島守の神」と尊敬される理由である。
(はじめに)

 

 

戦況いよいよ危機に瀕した五月十三日には、戦況と県民の奮闘ぶりを本土・内務省に報告する”決死隊”――「警察特別行動隊」(略称・警察別動隊)八名がこの壕から出発しているし、また第三十二軍の首里撤退が迫った同二十五日には、荒井は島田と相談し、内務省に次のような電報を打っている。「六〇万県民只暗黒ナル壕内二生ク 此ノ決戦二破レテ皇国ノ安泰以テ望ムベクモナシト信ジ此ノ部民ト相倶ニ敢闘ス」 短い電文だが、米軍襲来以来二か月余、非衛生的な暗黒の壕で生きながら、背後の日本本土をかばって素手で敵に立ち向かう沖縄官民の悲痛な姿を伝えて余りある。その後を追うように六月七日、島尻郡豊見城村にあった海軍沖縄方面根拠地隊(略称・沖根)司令部壕から海軍省宛に、司令官・大田實少将(戦死後、中将)は沖縄県民の沖縄戦に対する献身的な協力ぶりを述べ、痛ましい犠牲を払った県民への後世にわたる配慮を求めた電報を打った。
「沖縄県民斯ク戦ヘリ 県民二対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ」で締めくくる世界の戦史にも例のない、あの有名な六八六文字だが、その原点になったのが”荒井電報”であったことは、これも章を改めて詳しく述べる。
(第一章 幻の”県庁・警察部壕”再発見)

 

 

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そんな警察部と荒井に、さらなる試練が襲う。一九四四年七月七日夜、政府は沖縄県民の県外疎開を決定、県に伝えて来たのである。 東条首相兼陸相はこの年二月から参謀総長まで兼任、嶋田繁太郎海軍大臣にも軍令部総長を兼務させる独裁人事を強行し、マリアナ諸島のサイパン島について「難攻不落」と豪語していた。しかし、この日、守備隊約三万一〇〇〇人が二十三日間の死闘の末にあえなく玉砕、多数の出稼ぎ沖縄県民を含む在留邦人約一万二〇〇〇も運命を共にした。これが二年九か月に及んだ東条内閣総辞職(七月十八日)の引き金になるのだが、同夜の緊急閣議は「沖縄に戦火が及ぶ公算大」と判断、沖縄本島、宮古島、石垣島、奄美大島、徳之島の五島から、六十歳以上と十五歳未満の老幼婦女子と学童を本土と台湾へ集団疎開させることを決めた。 この日以降、沖縄県政は広い意味での”戦場行政”に入った。つまり県土が戦場になることを前提にした仕事を優先し、軍の作戦目的に従属することを意味した。
(第二章 疎開の恩人・荒井警察部長)

 

 

「対馬丸」(六七五四トソ)は元々、日本郵船所有の貨物船だったが、陸軍が徴用し、病院船として傷病兵輸送に使っていた。戦闘力は敵潜水艦の攻撃に備えて二門の砲座を装備しただけであったが、速カ一二ノットの優秀特務艦だった。僚船の「暁空丸」「和浦丸」と共に八月五日に門司から第二十四師団を、同十九日には上海から第六十二師団を輸送して那覇港に回航、疎開学童の第二陣と一般疎開者輸送が次の任務となった。この時、海軍は特別援護室の浦崎室長と永山寛視学に船内の下検分を許した程だから、船には相当の自信を持っていたと思われるのだが……。 那覇港で市内八国民学校の疎開学童八二五人と一般疎開者八三六人を乗せ、同二十一日午後六時三十五分、鹿児島へ向け出航した。僚船五隻と船団を組み、駆逐艦「宇治」と「漣(さざなみ)」が護衛に当たった。
この船団が二十二日夜、鹿児島県十島村悪石島近海にさしかかった時、「対馬丸」の機関部が不運にも故障し、速度が落ちて、僚船との間隔が次第に大きくなった。午後十時十分ごろ、鹿児島の南西二六〇キロ、悪石島の北西一一キロの海上で、米潜水艦「ボーフィン号」の魚雷攻撃を受け、物凄い大音響、火柱と共に船体は三つに裂け、十一分で海底に没した。
(第三章 対馬丸事件に苦悩)

 

 

美喜子は夫があまりにもあっさり沖縄県知事の内命を受けたのに驚き、我を忘れて叫ぶように言った。 「沖縄はもうすぐ戦争になるのでしょ。そんな所へなぜ、あなたが行かなければならないのですか。私たちはどうなるのですか」 「だれかが、どうしても行かなならんとなれば、言われたおれが断るわけにはいかんやないか。おれが断ったらだれかが行かなならん。おれは行くのは嫌やから、だれか行けとは言えん」「私たちは何にも悪いことをしてないのに、沖縄にやられるなんて。そんな内務省なら、いっそ辞めてしまいましょうよ」「これが若い者なら、赤紙(召集令状)一枚で否応なしにどこへでも行かなならんのや。おれが断れるからというので断ったら、おれもう卑怯者として外も歩けんようになる」 「それにしても、あんまりひどい。私たちだけが、なぜこんな目にあわねばならないのですか」 「そんな無理を言うて、おれを困らせるもんやない。それに必ず死ぬという風に悪くばかり取るのは、どうかしとうのんとちゃうか」 と言ったきり島田は、腕をこまぬいて黙り込んでしまった。
その日の昼前、勝島は島田に電話で呼ばれ、妻と小学生の息子を連れて内政部長官舎へ駆けつけた。勝島と島田は三高野球部時代の一九二〇年(大正九年)、一緒に松江の島根商業へコーチに行ったのが縁で、肝胆相照らす仲になった。島田が勝島家へ足しげく出入りするうち美喜子を見初め、義兄弟になったという間柄である。勝島は著者に「妹は島田のことを思い出すのもつらいようで、世間から身を隠し、どちら様へも大変失礼しています。私が家を訪ねても、島田への思いにつながるのか、帰ってくれと言いましてねえ。女ごころとは、そういうものでしょうか」と前置きして、あの日のことを話してくれた。
「行くなり島田は私を応接間へ招き入れまして、『実はけさ、内務省から池田知事を通じ、沖縄の知事に、との話があったので受けて来た』と言うんです。私はびっくりしましてね。『どうしてだ』と聞くと、『牛島さん(第三十二軍司令官)から赴任を望まれた。男として、名指しされて、断ることはでけへんやないか』と言いました。牛島将軍とは上海総領事館の警察部長時代(一九三九~四二年)に、知り合いになったと聞きました。私は、ああ、こいつは死ぬ覚悟をしたな、とその時、もう思いましたねえ。自分でこうと決めたら、テコでも動かない島田の性格をよく知っていましたから、引き止める説得はしなかった。あとで私は島田と共通の友人達に、ひどく責められました。なぜ、そんな話を島田に断らせなかったんだ、島田を説き伏せなかったんだ、と。しかし、決心したんだ、受けたんだ、行くんだ、と言えば、これはもう、どれだけのことを言おうと、無駄です。言ったって、聞く男じゃないしね」 島田と池田知事とのやりとりは、どんな様子だったのか。のち衆議院議員を二期務めた池田は一九六六年に亡くなったが、島田の出身校である旧制神戸二中(兵庫県立兵庫高校の前身)の二年後輩で、島田を慕って三高野球部に入った旧・関西六大学野球連盟(現・関西学生野球連盟)理事長・名倉周雄は戦後、池田と懇意になり、何度もその経緯を聞いている。この人も今は故人だが、生前、著者に語ってくれた話はこうだ。
「内務省からは、島田を沖縄県知事候補に内定したので意向を聞いてくれ、もし、うまくない時は、次の候補に当たらねばならないから、返事は早い方がありかたい、ということだったようです。そこで、池田知事が『こんな話が来ているが、君、どうかね』と尋ねると、島田さんは『私が行かなかったら、だれかが行かねばならんでしょ。私が行きます』と、はっきり即答された。この早すぎる返答には、池田さんの方がむしろ驚いて『君、家族もあり、親族もあることだから、三日程よく考え、相談した上で、返事しても良いんだぞ。断っても良いんだぞ』と言ったが、島田さんは『いや、これは、妻子に相談することじゃあありません。私が決めることです』と言って、返事を変えなかった。池田さんは、この話をする度に『島田君は偉い。出来ることじゃあない』と繰り返していました。ただ『事前に何の相談もしてもらえなかった奥さんは、つらかっただろうなあ』とも、おっしゃっていました」 正に敢然たる拝命。島田新沖縄県知事を含む一一人の人事は、翌十二日、閣議決定され、即日発令された。
(第五章 島田知事、敢然と赴任)

 

 

日本軍は砲爆撃の聞は洞窟陣地に潜み、敵が前進して来ると至近距離まで引きつけ、必中の狙撃を浴びせた。接近する戦車には、火薬一〇キロ詰めの箱爆雷を背負った兵が体当たりで爆破するなど、文字通り肉弾戦で対抗した。米軍の最前線は四月八日から二十三日まで、首里の北乃至北東方五~六キロの日本車防御第二線・牧港―嘉数―西原―我如古―上原の線で釘付けとなった。
この間、特攻菊水作戦は米英海軍を恐慌状態に陥れた。四月六日の第一号作戦は陸・海軍特攻機二二六機が敵艦に体当たり攻撃を敢行、二四隻を撃沈破したのをはじめ、沖縄戦の組織的戦闘が止む六月までに第十号作戦まで強行した。敵に与えた損害は轟撃沈三六隻、損傷二七八隻にのぼり、米英艦隊将兵に戦場恐怖症患者が続出、米攻撃軍総司令官・スプールアンス大将も悲鳴を上げた程である。
しかし、死を以てあがなう”邪道の用兵”によって投じられた特攻機は海軍九八三股、陸軍九三二機、計一九一五機の多きを数え、奏効率は僅かに一六パーセント。海軍二五四五人、陸軍一八四四人の計四三八九人が、若く尊い命を散らした。 壕拡張作業の追い込みに入っていた県庁、警察部の人たちも、いち早く特攻機に気づいた。隈崎手記によれば、毎日、日暮れ時になると、遠雷に似た音を聞くようになった。初めのうちは「何だろう」と話し合ったが、それが我が特攻隊の来襲に対する敵の防空弾幕の音と分かって、皆は躍り上がった。来る日も来る日も我がもの顔で頭上を乱舞する敵機にたたかれ続け、悔しい思いをして来たからである。
轟音が聞こえると、皆は壕を飛び出し、岩陰に身を潜めて音の方向に眼を凝らした。識名台地から真北へ約二五キロ、暮色にかすむ残波岬の沖合で、幾百条もの照空灯が天空を焦がし、火の雨が逆さに降るような防空弾幕が、おっ立った。この物凄い弾幕の中へ、ひたむきに祖国防衛の火の玉となった若鷲は、突入しているのであろう。やがて真紅の光が一閃、ダダーンと大きな爆音が伝わってきた。狂ったような照空灯の光も、火の壁のように打ち上げられた弾幕も、一瞬かき消すように闇の中に消えて、暗い海上にはただ一点、赤い炎が燃え残っていた。一閃の光と共に消え去ったであろう若鷲の魂に、一同は思わず合掌するのであった。隈崎の迫悼の一首。

 

 

照空燈狂う夜空に合掌す遂げよ若鷲遥かにも来て

 

 

(第十章 米軍上陸下の”新壕”生活)

 

 

首里攻防戦は急迫していた。警察別動隊が動き出した五月十二日、米第六海兵師団は首里城の西約二・五キロ、那覇市安里と真嘉比との間にある「シュガーローフ(棒砂糖)」と呼んだ高地に殺到した。今の国際通り東端に近く、那覇新都心として整備中の「おもろまち一丁目」、安里配水池付近の高台である。ここは日米両軍による頂上の占拠が一日に四回も入れ代わった最激戦地で、丘陵が砲撃で白っぽくなったところから、米軍はこの呼び名をつけた。米軍は制圧する十八日まで一週間の戦闘で、実に二六六二人が死傷、他に一二八九人もの戦闘恐怖症患者を出した。沖縄戦中、米軍は一万余の精神病患者を出しているが、ここでの発症が最も多く、症状も重かった。海兵隊の二つの連隊は、六人の大隊長全員と中隊長の三分の二に近い一一人を死傷させた。 また二十一日、米軍は首里城の東約二・五キロにある運玉森(標高一五六メートル、現・沖縄カントリークラブ)の東斜面を確保、翌二十二日には安里川を渡って那覇市に突入するなど、首里戦線は崩壊の危機に瀕した。
(第十二章 六〇万県民只暗黒ナル壕内ニ生ク)

 

 

荒井が筆を執ったと思われるこれらの電文に関して、長男の紀雄は著書の中で、次のように述べている。
<沖縄県の官民は日本本土を背にして敵の前に素手で立ち塞り、その置かれた立場においてベストを尽くしたのである。”皇国の安泰”を念じて……。それは無駄にならなかったであろうか。彼らの護った日本は彼らの死に値する日本になったであろうか。彼らは「世のため、人のために」戦った。しかし、今のおおかたの日本人の価値観は、「カネのため、自分のため」に左右されているのではないだろうか。――>
この意見には著者も全く同感だが、いま一つ、「日本戦没学生の手記 きけわだつみのこえ」に収録されている学徒特攻隊員の遺書の一節には、こうある。
<ただ、なによりも案ずるのは、私たちが護ったこの国が次の時代にいかなる生成をし、発展するかということです。戦争直後の疲弊や変調よりも、もっと先の文化の問題が気になります。>
これを読む時、至誠も節義も二の次になってしまったこの国の情けない現状を見抜かれている思いがして、赤面を禁じ得ない。
(第十二章 六〇万県民只暗黒ナル壕内ニ生ク)