あらすじ
どうして私はこんなにひねくれているんだろう。乳がんの手術以来、何もかも面倒くさく「社会復帰」に興味が持てない25歳の春香。恋人の神経を逆撫でし、親に八つ当たりをし、バイトを無断欠勤する自分に疲れ果てるが、出口は見えない。現代の“無職”をめぐる心模様を描いて共感を呼んだベストセラー短編集。
(平成12年下半期 第124回直木賞受賞作品)
ひと言
ついこの前に読んだ山本文緒さんの「恋愛中毒」がツボで、他の作品も読みたいなと思い、すぐに図書館に予約を入れた本です。ひねくれていて、自分勝手で、すべて他人のせいにする被害妄想的な女たち。どーしようもないんだけど、なぜかほっとけなくて、読みたくなります。表題作の「プラナリア」のラストの女の屈折した脆い心の動きは女にしか書けないだろうなと感心してしまいました。「あいあるあした」は少しほっとした気持ちになれてよかったです。
囚人のジレンマとは、こういうたとえ話だ。
共犯の窃盗容疑の二人が捕まったとする。警察は二人それぞれを別の部屋に入れて尋問する。
一方の囚人には「お前が先に自白すれば、無罪放免にしよう。だがお前がもう一人より後に自白したら重い罪に処す」ともちかけるのだ。その場合、もし二人とも自白をしなければ証拠がなく罪に問われない。けれど二人とも自白すればかなり重い刑がかけられる。二人の囚人にとってベストの選択は両者とも黙秘を続けて証拠を隠すことだが、お互い別房に入れられているので結束することができない。そして「相棒の方が先に自白してしまうかもしれない。そうすると自分には重い罪がかけられる。俺が先に自白すれば無罪放免なのだ」と両者が考え、結果として二人とも告白してしまい、二人ともが罪に処されることになる。こうして、両者が相手の戦略を懸命に予想した結果、両者ともが損をしてしまうケースを「囚人のジレンマ」と呼ぶのだそうだ。……。
「囚人のジレンマで思い出したよ。参考になるかどうか分からないけど、毎年クリスマスにうちでもジレンマ問題があってな」笑ったらふいに食欲が出てきて、私は肉を箸でつまんだ。「クリスマスだけは女房が無理してケーキを焼くんだよ。それを四等分するんだけど、俺は甘いのは苦手だからちょっとつついてあとは子供にやるわけだ。で、子供二人はそれを半分に分けるんだけど、毎年どっちが大きかったってごねて喧嘩になるんだ」「幸せそうでいいですね」微笑ましくて言うとボスは咳払いをする。「そういう話じゃない。で、去年もがたがた騒ぐから女房が解決策を考え出した。何だと思う?」さあ、と私は首を傾げる。「子供にケーキを切らせることにしたんだ。上の子が切って、下の子が大きいと思う方をとる」ああそうか、と私は頷いた。もし二人共大きい方が欲しいなら、ナイフを持った上の子はなるべく同じ大きさに切らなくてはならなくなる。明らかに大小をつけてしまったら、下の子に大きい方をとられてしまうからだ。「いい奥様ですね」「だから、そういう話じゃないって言ってるだろ」
(囚われ人のジレンマ)
自分の来し方行く末が分からなくて漠然と不安で、何か間違っていたのか誰かに教えてもらいたいのは分からないでもない。霧の中で立ちすくんで一歩も踏み出せない時、誰にでもいいからあっちだよと言ってもらいたかったことは俺にだってあった。自由に生きろと言われるよりは、ああしろこうしろと言われて生きる方が実は楽だったということを、俺はサラリーマン時代を思い出してしみじみ感じる。儲かるはずだと信じていた理想の店は、秋口からじりじりと売り上げを落としていた。掌を見て「働けど働けど」と呟いてみる。馬鹿らしくてやっと起き上がる気になってきた。
俺たちは黙ったまま雑炊を食べた。全部平らげると、彼女は鍋と食器を流しに運ぶ。彼女の傷んだ毛先を見ているうちに、いいようのない不安と困惑がこみあげてきた。俺はこいつを失うのが恐いのだろうか。俺はこの女が必要なんだろうか。それとも俺はこいつから必要とされたいんだろうか。「なあ、俺の手相観てくれるか」びっくりした顔ですみ江が振り向く。「どうしたの? あんなにいやがってたくせに」そうだ。最初の頃、誰もすみ江の飲み代を払う客がいなかった日があって、お金ないから手相観て許してと言われ「そんなもの観てもらいたくない。皿洗いでもしろ」と俺は彼女を怒鳴りつけたのだ。「いいから観ろよ。ちょっと興昧出てきたし」「へええ。じゃあ怒らないでね」「怒るか、そんなもん」炬燵を挟んで向かい合い、彼女は俺が差し出した両方の掌をまじまじと見た。
「梅の花がいい匂いね。今日、啓蟄なんだって」すみ江の口からそんな単語がでるのは意外だった。椅子に座った彼女の首にタオルを巻いて、古そうな女物のスカーフをその上からかぶせる。よく見るとそれはエルメスのスカーフだった。「おい、これ」「香川さんの亡くなった奥さんのなんだって」「そんな大事なもの便っていいのかよ」「大事なものなんだから、便った方がいいんじゃない」わけのわからない理屈だったが何となく説得力があるなと思いながら、俺はすみ江の髪を櫛で梳いた。娘の髪とは違い、傷んでゴワゴワし抜毛だらけだ。本当はうちに泊めた最初の日から切ってやりたくて仕方なかった。けれど女の髪を切ると情が移る。母親と妹と、女房と娘。その四人の髪の手触りをはっきり掌が覚えている。手相が掌に刻まれているように、その愛情が染みついている。だから俺はすみ江の髪を切るのが恐かった。「どのくらい切る?」「肩の上くらい。結べないとかえって不便だから」十センチくらい切ることになる。それなら傷んだ部分はほとんど切り落とせるだろう。スプレーをかけて彼女の髪にハサミを入れていると、後ろの縁側でじいさん二人が何やらこそこそ内緒話をしていた。どうせ俺たちのことだろう。「あー、好きな男の人に髪触ってもらうのって気持ちいいね。娘さんの気持ち分かったよ」俺は手を止めた。「お前、俺のこと好きなのか?」「好きじゃなきゃ、半年もセックス毎日シナイネー」あのなー、と呟いたが、そのあと何を言ったらいいか分からなかったので話題を変えた。……「終わった」スカーフを外すと、ありがとうと言ってすみ江が立ち上がる。そして振り向きざまに頬に唇をつけてきた。「またお店に行っていい?」「別に好きにしろ」「わーい、じゃ、鏡見てくるね」そう言って彼女は縁側でサンダルを脱ぎ捨て、部屋の中へ駆け込んで行った。その後ろ姿を俺とじいさん二人は見送り、それぞれお互いの顔を見た。「寂しいなら、真島さんもうちに住めばいいよ」香川さんがにっこり笑ってそう言った。勝手に可哀相がるなとすみ江に言われた意味がそれでやっと分かった。
(あいあるあした)