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あらすじ
県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ。沖縄出身防衛召集兵1万3千人、軍属5万5千246人、県民3万8千754人が犠牲となった昭和20年の沖縄戦。県民への感謝を忘れなかった大田實中将は、日本軍への反感が強い沖縄でも、多くの人に愛される数少ない軍人の一人である。50回忌の今、遺族の初めての協力を得て明らかにされる大田中将の生涯。長編力作ノンフィクション。

 

ひと言
大田 實中将の三男 落合 畯(たおさ)さん【母の兄の家に子供がいなかったため戦後養子になった。自衛隊初の海外任務となった湾岸戦争後のペルシャ湾掃海派遣部隊の指揮官。米海兵隊の大尉が戦利品として持ち帰っていた海軍司令部壕に翻っていた少将旗が2012年5月27日の海軍記念日に落合さんに返還された】をはじめとする11人兄弟の大田一家の物語。この家族を通して描かれる大田中将だからこそ余計に涙を誘うし、大田中将の温かい人間味がより一層こちらに伝わってきました。

 

 

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前回2011年7月に訪れたときには見られなかった少将旗が旧海軍司令部壕内に展示されているということなので、次に沖縄を訪れた際、時間が許せば是非もう一度訪れたいと思いました。

 

 

大本営海軍部は(昭和十九年)四月十日、鹿児島―沖縄間の海上交通保護を主な任務にする第四海上護衛隊(略称・四海護)を編制したが、先に内示した肝心の沖縄方面根拠地隊(沖根)は、護衛隊が兼務するということでしかなかった。しかも人員は僅かに二千九十二人だった。……。
沖縄戦が重大な段階に差しかかった二十年五月二日、「戦訓速報第四号」として打った二項目の電報をここで紹介しておきたい。
「司令部ハ大ニ充実シ置クヲ要ス 之(沖縄戦)ヲ予期シツツ兼務ニテ 然モ海上護衛ヲ主トシタルガ如キハ大ナル過失ナリト認ム」 「遠カラズ戦場ナリトノ叫ビ大ナリシ沖縄ニ於テ防備ハ非常ニ遅レ 未着手ノモノ漸ク着手シ始メタルモノ……(以下欠)」 
沖根に戦備不十分の戦いを強い、武将に無念の電報を打たせる事態は、実は一年前に始まっていた。 大本営海軍部の南西諸島対策は、なぜ海上護衛が主で、沖縄防備が従になったのか。その背景には、兵員、武器、弾薬、食料、南方の重要資源を輸送する船舶の喪失量が、戦争第二年度(十七年十二月―十八年十一月)に入って、倍増していたという事情がある。……。 そこで、海軍部は絶対国防圈(十八年九月十五日設定)を死守する意味からも、二年度の終わりに近い十八年十一月十五日、天皇直属の海上護衛総司令部を新設、司令長官には古賀峯一連合艦隊司令長官より先任の及川古志郎大将を配した。……。
沖縄本島はおおよそ、真ん中がくびれた瓢箪型の島で、くびれた部分から北は山岳森林地帯だから、敵が上陸して来るのは、それ以南と見られた。そこで北部は独立混成第四十四旅団(熊本)に委ね、中部・中頭に第二十四師団(旭川)、首里、那覇の北側に第六十二師団(京都)、南部・島尻地区に第九師団(金沢)を配し、米軍が何処から上陸を試みても水際で撃退する決戦体制を敷いた。
ところが米軍が十月二十日、フィリピン・レイテ島に上陸すると、大本営は台湾の一個師団を比島に投入、手薄になった台湾防備の補充として、三十二軍の反対を押し切り、沖縄から第九師団を抜いてしまう。 三十二軍は一兵団の回復を要望したが、容れられず、止むなく作戦を根本的に変更する。それは二十四師団を九師団の抜けた後詰めに入れ、中部・中頭を放棄するというもので、最初の水際決戦は中止、島尻に主力を置いての持久作戦にならざるを得なかった。 そればかりではない。三十二軍は弱体化した兵力の補充を住民に求めた。防衛召集、学徒隊など、県民に大きな犠牲を強いた沖縄戦固有の悲劇は、大本営陸軍部の、この「大ナル過失」から始まるのだ。
(第十七章 大ナル過失)

 

 

一方、摩文仁に後退した牛島軍司令官は、三十二軍主力の撤退が完了したので、ここでやっと海軍部隊の島尻南部への撤退を命令した。これに対し、大田司令官は五日、忙しい戦況報告の合間をぬって、大要次のように返電している。
「海軍部隊は最精鋭の陸戦隊四個大隊を陸軍の指揮下に入れ、首里戦線で遺憾なく敢闘したことはご承知の通りである。また今次、軍主力の喜屋武半島への撤退作戦も、我が海軍部隊の奮闘により既に成功したものと認める。本職は課せられた主任務を完遂した今日、思い残すことなく残存部隊を率いて小禄地区を頑守し、武人の最期を全うせんとする考えである」……。牛島司令官は、親書まで送って後退を促したが、時期既に遅く、大田司令官の決意も固く、小禄死守を見守るほかなかった。 沖連陸の生還者は「大田少将のあの断固たる姿勢には、後退が早過ぎるとして小禄に復帰させられた煮えくり返るような怒りが背景にあった」と□をそろえる。……。
沖根司令部が戦闘指揮所として使っていた宇栄原の「羽田山」(元・護部隊本部)も、米軍戦車の「馬乗り攻撃」を受ける切迫した戦況となり、司令官と幕僚は同夜、豊見城七四高地の元の司令部壕に戻る。
馬乗り攻撃とは、洞窟陣地の頂上を敵が占領し、攻撃を加えて来る状態で、上から穴を開けてガソリンを流し込まれ、入口から火炎放射器で攻撃されると、絶対に助からない。
(第二十二章 小禄の死闘)

 

 

防衛庁防衛研究所が所蔵している「昭和二十年六月 南西諸島方面電報綴」によれば、大田司令官の「沖縄県民斯ク戦ヘリ」の電報は、六月六日二十時十六分、沖根司令部発となっている。 しかし、戦況報告を優先し、「閑送」(暇な時に送る)扱いにしたせいか、受信時間は第一回が「七日一七三二」。これは通信状況が悪く、一部が届かなかったので、「七日一八〇五」に再送している。
(第二十三章 沖縄県民斯ク戦ヘリ)

 

 

司令部壕が包囲攻撃される中で、大田司令官は六月十一日が沖縄方面根拠地隊の最後の日になるのでは……と考えたようだ。この日午後一時三十七分、三十二軍の長参謀長宛に次の作戦特別緊急電報を発した。
「敵後方ヲ撹乱又ハ遊撃戦ヲ遂行スル為 相当数ノ将兵ヲ残置ス 右将来ノ為一言申シ残ス次第ナリ」 人命を尊ぶ少将の頭に、死なばもろともの全員玉砕の考えはない。可能な限りの部下を包囲された陣地から脱出させ、後方撹乱や遊撃戦を命じたが、これらの兵士が戦線離脱や脱走などと誤解されないようにとの心遣いだった。そして同夜、牛島軍司令官宛に、六日に続いて二度目の訣別電を発信する。
「敵戦車群ハ我司令部洞窟ヲ攻撃中ナリ 根拠地隊ハ今十一日二三三〇玉砕ス 従前ノ厚誼ヲ謝シ貴軍ノ健闘ヲ祈ル」   
(第二十三章 沖縄県民斯ク戦ヘリ)

 

 

大田中将の遺骨が自宅に帰った時、かつ夫人が言った「御法事は三十三回忌に沖縄で」の、その時は昭和五十二年に巡って来た。回忌法要に先立つ三月十六日、夫人は中将の遺骨を抱いて沖縄を訪問、豊見城の「海軍戦歿者慰霊之塔」に納骨した。夫人の気持ちは同日、沖縄海友会主催の納骨式で語られた言葉と三首の和歌に込められている。
「主人は、沖縄の土になるんだ、と言って出撃しました。部下の方が慰霊之塔に祀られているのに、自分だけが遺族の元に居るのを心苦しく思っていたでしょう。沖縄に納骨されることが故人の遺志でもあり、念願が叶えられて嬉しく思います。故郷に帰した思いで一杯です。夫も部下と一緒できっと喜んでいることでしょう。どうぞ戦友と共に安らかにお眠り下さい」

 

 

「亡き夫の 遺骨をひざに 飛びゆけば 南の鳥は 碧く澄みたり」
「亡き部下の みたましづもる 沖縄に かへり給ひて 永久にやすけく」
「島人の まことあふるる みなさけに 笑顔の浮かぶ 彼岸の彼方」
三十三回忌の慰霊法要と、海友会が大田中将の遺徳を偲び「沖縄県民斯ク戦ヘリ……」の電文全文を刻んだ「仁愛之碑」の除幕式は、同年五月二十七日の旧海軍記念日に関係者約三百人が参列して慰霊之塔前で営まれた。
(第二十八章 それぞれの沖縄)

 

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ハンバーグのランチの後のデザートに、あおなみ線の荒子駅からすぐのチョコレート専門店「クオレ」へ。
チョコレートのデザートにしようと思っていたのですが、メニューを見ると期間限定でタルトタタン(600円)が…。迷わずそれを注文します。紅玉りんごにキャラメルソースをあしらった、今が旬のあったかスイーツ。ふわふわの生クリームやアイスクリームと絡めて食べるとこれまたとてもおいしいです。京都の平安神宮すぐ西の「ラ ヴァチュール」のタルトタタンも評判なので、今度食べに行きたいです。

 

ちなみにタタンとはりんごという意味だと思っていたのですがタタン姉妹の失敗から生まれたタルトということらしいです。とてもおいしいタルトタタンでした。今度は是非チョコレートも。ごちそうさまでした♪

 

 

クオレ(食べログ)
名古屋市中川区荒子1

 

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今日は、職場の人と4人で「ハローキッド 太平通店」へお昼を食べに行きました。12.5mmという通常の約3倍の超荒挽の とろとろチーズの黒毛和牛[荒びき]ハンバーグステーキランチ(1690円)をいただきます。ハンバーグが見えなくなるくらい クリーミーなチーズがたっぷりで、添えられたコーン、ブロッコリー、ポテトは もうチーズフォンデュ状態です。これだけ荒挽きのハンバーグは はじめてでしたがとてもおいしかったです。ごちそうさまでした。

 

ハローキッド 太平通店(食べログ)
名古屋市中川区好本町1

 

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金曜日に食べに行った「幸せのパンケーキ」にカメラを忘れてきたことに気づき、お店に電話すると「ありますよ」とのことなので取りに行きました。その帰り金曜日にも伺いましたが、売り切れていた「川口屋」さんのわらび餅(こし餡・粒餡 各320円)を買いに寄り、お抹茶を点てていただきました。評判通りのとろける絶品のわらび餅です。間違いなくスイーツ百名店2017の「芳光」さんと並んで愛知2トップのわらび餅です。個人的にはこちらの方が好きかも♪。ごちそうさまでした。

 

川口屋(食べログ)
名古屋市中区錦3

 

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伏見から栄まで歩き、師匠と2軒目に向かったのが栄ガスビルの地下に2017年7月にオープンした「幸せのパンケーキ 名古屋店」。東京や大阪ではすでに大人気のお店で 名古屋にはまだここにしかありません。前からずっと行きたかったのですが、若いカップルや女の人のグループばかりが並ぶお店で、師匠も私も男一人では並べず、今まで入れませんでした。でも「おじさんだって おいしいパンケーキを食べたい!」ということで今回2人で食べに行くことになりました。
1時間20分並んでやっと入店。お店の中は若いカップルが1組と後はすべて若い女性グループ。おじさん2人はとてもミスマッチです。

 

不動の人気の 幸せのパンケーキ(1100円)にバニラアイスとホイップクリームをトッピング(各100円を別々に注文してシェア)していただきます。パンケーキ自体もやわやわでもちろん美味しいのですが、上に乗っているマヌカハニーと発酵バターを使用したホイップバターが絶品。ポットに入ったカラメルソースも、バニラアイスとホイップクリームもとてもパンケーキに合っておいしいです。とても幸せな気持ちにしてくれるパンケーキでした。ごちそうさまでした♪

 

 

幸せのパンケーキ
名古屋市中区栄3

 

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今日のお昼は、私のグルメの師匠と待ち合わせて 前から行きたかった伏見地下街にある「ハンサム バーガー」へ ハンサムコンボ+チーズトッピング(880+50円)を食べにいきました。表面はカリッ中はフワフワのバンズに、ジューシー肉のパテのハンバーガーです。
お腹を空かせて行ったのですがこのハンバーガーとこれもおいしいフレンチフライでけっこうお腹いっぱいになります。ドリンクもついてこの味で880円はお値打ちです。さすが全国のハンバーガー百名店2017(東京61店に続き愛知7店 神奈川 大阪よりも多い)に選ばれるだけのことはあります。 ごちそうさまでした。

 

 

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あらすじ
戦後日米外交の焦点となり、今日なお日米関係の棘となっている沖縄問題の原点を、政治・外交史の分野からはじめて包括的に解明した画期的成果。戦後沖縄の運命を決定づけた講和条約第3条とは何であったのか? 信頼の置ける記述により沖縄問題への確かな視点を示す。

 

ひと言
前に読んだエルドリッヂさんの本の中に紹介されていたので、すぐに図書館に予約を入れました。かなり専門的で研究者の人が読むような本で、興味のある箇所以外は端折って読みました。アメリカ人が日本語で書いたとは思えないほど、とても読みやすい文章であることにびっくりでした。

 

 

一九四七年九月一九日、御用掛の寺崎英成は、日本橋三井ビルの三階にあったシーボルドGHQ政治顧問室を訪問した。その目的は、琉球諸島の将来と、米軍による沖縄の軍事占領を継続する必要性に関して天皇の意見を述べることにあった。いわゆる「天皇メッセージ」である。……。
シーボルドの手による会談記録によれば、まず寺崎が、「天皇は、米国が沖縄をはじめ、その他の琉球諸島に対する軍事占領を継続するよう希望している。天皇の意見では、そのような占領はアメリカの利益になり、また、日本を防衛することにもなる、というのである」と切り出した。シーボルドはおそらく、米国が沖縄の占領を継続することに対する日本国民の感情について尋ねたと思われるが寺崎は、つづいて、「天皇が思うに、そうした措置は日本国民の間で広範な賛成を得ることであろう。国民は、ロシアの脅威を恐れているばかりでなく、占領が終わった後に左右両翼の勢力が台頭し、日本の内政に干渉するための根拠としてロシアが利用し得るような『事件』を引き起こすのではないか、と懸念している」と述べた。 さらに、寺崎は、「また、天皇は、沖縄(その他必要とされる諸島)に対する米国の軍事占領は、主権を日本に残したまま、長期 ―― 二五年ないし五〇年またはそれ以上の ―― 租借方式という擬制に基づいて行われるべきであると考えている。天皇によれば、このような占領方式は、米国が琉球諸島に対していかなる恒久的野心ももっていないと日本国民に確信させ、ひいてはこれにより、他の諸国、とりわけソ連や中国による同様の権利の要求を封ずるであろう」と伝えた。 つづいて、話題は米軍駐留の方式をいかにすべきかという問題に移った。「手続きに関しては、寺崎氏は、(沖繩、その他の琉球諸島に対する)『軍事基地権』の取得は、連合国の対日講和条約の一部としてではなく、むしろ米国と日本との二国間租借条約によるべきであるという考えであった。寺崎氏によれば、前者の方式は、押しつけられた講和という色合いが強すぎ、将来、日本国民による好意的理解を危うくする恐れがあるという」。 会談の終わりに、寺崎は、このメッセージをその日のうちにマッカーサーに伝えるようシーボルドに依頼した。
(第5章 日本政府の講和条約準備作業と沖縄の地位に関する見解 1945-1948)

 

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あらすじ
口紅…それは女性にとって切り離すことの出来ないものだろう。人生の節目節目に立ち会うといってもよい口紅。女性には誰にでも経験がある、口紅を最初に塗った日。晴れがましいような自分が大人の女に一歩足を踏み入れたような、そんな日。最初のデートで勇気を奮い起こすように塗った赤い口紅。胸の奥に大切しまってある思い出のそばにあった、口紅にまつわる短編集。年齢別に描かれる口紅の思い出。初恋、結婚、別離…ドラマはいつも口紅とともに。

 

ひと言
口紅をモチーフにした角田さんの短編集で、途中 上田 義彦さんの写真が効果的に織り込まれて、やっぱり角田さんは内容も文章もいいなぁと思わせてくれるとても素敵な作品でした。贅沢を言えばもう少し長く作品を味わいたかったかなぁ…。
私の口紅の思い出は、10年ほど前 80歳で伯母さんがなくなったとき、その娘さん(私のいとこ)が棺のなかにそっと口紅を入れてあげていたのがとても心に残っています。

 

 

お正月に、春休みに、またこの町で会おうと、私たちは何度も約束したけれど、その約束はきっと果たされない。私たちはこの町を出て、自分を取り巻く新しいことにきっとすぐ夢中になる。忘れてしまう。この町のこと、桜のこと、毎日並んで歩くだけだった恋人のこと。 「あのさ、これ」ふいに森下修が立ち止まり、ナイロンバッグからちいさな紙袋を取り出す。……。テープを剥がし紙袋を開ける。くちべにが一本入っていた。キャップを開けると、桜の色みたいなくちべにだった。先を歩いていく森下修の後ろ姿を見ながら、私はそれを自分のくちびるにぬった。くちべにをぬるのははじめてだった。鏡がないので、似合うのかどうか、私はどんな顔をしているのかどうか、わからなかった。 「ねえ、どう」 ずいぶんと先にいってしまった森下修に向かってどなった。森下修はふりむいて、 「似合うよ」 とどなりかえし、またすぐ背中を見せる。その背中にかけよって思いきり抱きしめて、森下修のつるんとした頬に、額に、いつもかさついているくちびるに、学生服の下の白いシャツに、私のくちびるを押しつけたいような気持ちになった。でもそんなことはせず、私は大またで森下修のあとを歩いた。 
また会おうという、ぜったいに連絡し合おうという、変わるのはよそうという、幾度も交わした私たちの約束は、きっとゆっくり破られていく。私たちにそのつもりがなくても、時間が約束を破ってしまう。だから私、今、ひとつだけ自分自身と約束をする。これだけは破らない。森下修にも時間にも破らせない。 このくちべにをつけて恋はしないよ。このくちべにをつけて、新しく恋をしただれかに会いにいったりしないよ。「ねえ、待ってよ」私は走りはじめる。触れたことのない、抱き合ったことのない、くちびるを重ねたことのない恋人のもとに、私は走っていく。
(18歳)

 

 

「ママ」と呼ばれ、ふりかえると、出ていったとばかり思った娘がドアから顔をのぞかせている。「ママ、今日、なんかいい感じ。迫力ある」娘は早口に言うと、ぱっと廊下に駆け出していった。 玄関のドアが開き、閉まる音がする。食器をかんたんに洗い、テレビを消し、ガスの元栓をしめ、バッグの中身を確認する。もう一度洗面所に向かい、鏡に向き合ってくちべにをぬりなおす。 そうして私は思い出す。かつて、くちべにをぬる母の背中を、じっと見つめていた自分の幼い日を。そのときの母がこわかった。置いていかれるような気がした。たしかに、くちべにをぬるときの母は、私の、私だけの母ではなかったんだろう。ひとりの女性に戻る、ささやかな瞬間だったのだろう。私の母は、そんな瞬間を決して手放さなかったのだ。 いってきますと、だれもいなくなった家に声をかけ、ドアを開ける。明るい陽射しがいっぺんに視界に入る。
(38歳)

 

 

私はめったに化粧をしない。外出するときはファンデーションをぬるくらいだ。くちべにもつけないことが多い。くちべにが嫌いなのではなくて、そのくらい、くちべには私にとってとくべつなのだ。ふだんつけないことによって、つけるときのとくべつな感じを、だいじにしたい。くちべにをぬることで、それがとくべつな日、とくべつな時間、とくべつな相手だと、自分に言い聞かせたいのである。だから、私のくちべにはなかなか減らない。
(ちいさなドラマ)

 

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あらすじ
一番 会いたい人に会いに行く。こんな当たり前のことが、なんでできへんかったんやろな。演劇を通して世界に立ち向かう永田と、その恋人の沙希。夢を抱いてやってきた東京で、ふたりは出会った――。『火花』より先に書き始めていた又吉直樹の作家としての原点にして、書かずにはいられなかった、たったひとつの不器用な恋。夢と現実のはざまでもがきながら、かけがえのない大切な誰かを想う、切なくも胸にせまる恋愛小説。

 

ひと言
「火花」のときにも思いましたが、又吉さんが今回もこの書き出し
まぶたは薄い皮膚でしかないはずなのに、風景が透けて見えたことはまだない。もう少しで見えそうだと思ったりもするけど、眼を閉じた状態で見えているのは、まぶたの裏側の皮膚にすぎない。あきらめて、まぶたをあげると、あたりまえのことだけれど風景が見える。
をかなり練って書いたんだろうなぁと思いました。「掴みはOK」がどれだけ大切なのかを考えているあたりやっぱり漫才師なんだなぁと思いました。
どうして沙希ちゃんがこんなダメ男に振り回されてるんだろうと腹立たしく思いましたが、永田に自分の夢を託して懸命に支えてきた沙希にとって、2人で一緒にやった舞台は最高の宝ものであり、一生忘れることのない最高の思い出なんだろうな。
個人的には「火花」よりも「劇場」の方がよかったです。

 

 

 

嫉妬という感情は何のために人間に備わっているのだろう。なにかしらの自己防衛として機能することがあるのだろうか。嫉妬によって焦燥に駆られた人間の活発な行動を促すためだろうか、それなら人生のほとんどのことは思い通りにならないのだから、その感情が嫉妬ではなく諦観のようなものであったなら人生はもっと有意義なものになるのではないか。自分の持っていないものを欲しがったり、自分よりも能力の高い人間を妬む精神の対処に追われて、似たような境遇の者で集まり、嫉妬する対象をこき下ろし世間の評価がまるでそうであるように錯覚させようと試みたり、自分に嘘をついて感覚を麻痺させたところで、本人の成長というものは期待できない。他人の失敗や不幸を願う、その癖、そいつが本当に駄目になりそうだったら同類として迎え入れる。その時は自分が優しい人間なんだと信じこもうとしたりする。この汚い感情はなんのためにあるのだ。人生に期待するのはいい加減やめたらどうだ。自分の行いによってのみ前向きな変化の可能性があるという健やかさで生きていけないものか。この嫉妬という機能を外してもらえないだろうか。と考えて、すぐに無理だと思う。
(P141)

 

 

 

「昨日な、押し入れを片づけてたら沙希ちゃんと一緒にやった舞台の脚本発見してん」 そう言って僕はホッチキスで留めた脚本を箱から取り出した。「あっ、わたしの宝ものだ!」 沙希は嬉しそうに僕に近寄ると一緒に脚本を覗き込んだ。 「すっごいわたし書き込んでる。勉強家だね。この時、楽しかったよね」……。 
「なんで、ずっとふざげてんの? なんか私に言うことないの?」と僕は彼女のセリフの一部を読み上げた。「わたしのセリフも読んじゃうの?」と沙希が言った。「ほんなら、彼女のセリフは沙希ちゃんに任せるな」 「うん」 僕は、さっきの続きから読みはじめることにした。「ふざけてるつもりはないよ」「ふざけてるよ、いつもヘラヘラ笑ってさ」沙希はシリアスな場面のセリフを読み上げると嬉しそうに僕の顔を見た。「そういう顔なんだよ」「ふざけてるよ。真面目に話してよ。私はこの家を出るんだよ」「じゃあ、俺はひとりだ」「自業、自得でしょ」 沙希は読みにくそうに少し声を落としてセリフを口にした。「それにしても、キミには本当に迷惑をかけた」 こういう場合、普通は直接的な表現は避けた方が良い。「ん? 永くんそんなセリフ書いてないよ」「迷惑ばっかりかけた」「どこだ? そんなセリフないぞ」 沙希は少しふざけた口調で言う。「夜の仕事も本当はさせたくなかった。俺の収入がもっと安定してればな。才能の問題か」「今、セリフ考えてるの?」「沙希ちゃんも一緒に考えて」 つかの間、沙希は考えているようだったが、意を決したように表情を変えた。「あなたとなんか一緒にいられないよ」 沙希の声は相変わらず優しく弾むようだったが、思ったよりも強い言葉が返ってきた。 「なんで?」 どんな言葉も僕は受け入れなければならない。すべての罵倒を受け入れたところで、報いには到底届かない。僕は何かを消すためではなく、背負うために沙希の言葉を聞きたいと思っていた。 「いられるわけないよ。昔は貧乏でも好きだったけど、いつまでたっても、なんにも変わらないじゃん。でもね、変わったらもっと嫌だよ。だから仕方ないよ。本当は永くんはなにも悪くないもん。なにも変わってないんだから。勝手に年とって焦って変わったのはわたしの方だからさ。だから、どんどん自分が嫌いになっていく。ダメだよね」 こんなことを言わせてはいけない。 「わたしね、東京来てすぐにこれは全然かなわないな。なにもできないなって思ってたから、永くんと会えて本当に嬉しかった」 沙希は何か吹っ切れたようにそう言った。 「記憶おかしくなった? それ俺の方やで。血まみれやったもん」 僕は沙希となら正直に話すことができる。「違うよ。わたしはずっと諦めるきっかけを探してたんだよ。なにも悪いことしてないのに、ずっと変な罪悪感みたいなものがあったから。永くんのおかげで、みじめな気持ちじゃなくて東京を楽しい気持ちで歩けたんだよ。永くんいなかったらもっと早く帰ってた、絶対。だから、ありがとう」 僕からは、しばらく言葉が出てこなかった。壁に背をつけたまま沙希も僕も両足を前に放り出していた。沙希の足の爪が僕よりも小さいことに、こんなタイミングで気がついた。「永くんの番ですよ」 という沙希の声は震えていた。 「演劇の可能性って、演劇ができることってなんやろうって、最近ずっと考えてた。ほんならな、全部やった。演劇でできることは、すべて現実でもできるねん。だから演劇がある限り絶望することなんてないねん。わかる?」 沙希は、「わかるよ」と言ってゆっくりと頷いた。……。
「ごめんね」と沙希は泣きながら言った。 「沙希ちゃん、セリフ間違えてるよ。帰ったら沙希ちゃんが待ってるから、俺は早く家に帰るねん。誰からの誘いも断ってな。一番会いたい人に会いに行く。こんな当たり前のことが、なんでできへんかったんやろな。沙希ちゃんが元気な声で、『おかえり』っていうねん。言えるよな? 大きな犬も俺の肩に飛びついてきて、ちょっ肩噛まれるけど、その時は痛み感じへんくらい俺も犬好きになってるから」 「ごめんね」 「ほんで、カレー食うて、お腹いっぱいになったら、一緒に近所を散歩して、帰ってきたら、梨を食べよう。今度は俺がむいたる」 沙希の嗚咽が耳をこするように何度も響いていた。
(P206)

 

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あらすじ
「NO」しか言わないオキナワのままでいいのか?誤解だらけの基地問題、政権交代とトモダチ作戦の裏側、偏向するメディア――政治的思惑と感情論ばかりが支配する空気に抗い、事実に基づいて日・米・沖のあるべき姿を探究し続けた二十年。歴史研究者として、海兵隊の政治顧問として、情熱を傾けてきた著者が沖縄問題の虚実を解き明かす。「沖縄問題」の病理とは――捨て身の直言!

 

ひと言
もう何冊か「沖縄問題」の本を読んできて、在沖縄 海兵隊の元幹部の人からの目線での本をと思いこの本を借りました。マッカーサーが沖縄を重視した理由について、彼が戦後日本の本土に米軍基地を置きたくなかったと考えていたことや、1947年9月の「天皇メッセージ」(沖縄では定説になっている「天皇は沖縄を見捨てた。政府は沖縄のために何もしなかった」と捉えられているメッセージ) のことなど興味深かったです。なかでも沖縄本島中部の勝連半島沖に人工島を作り基地機能をそこに集約させる「勝連構想」というものがあったということがとても興味深かったです。読み終えてすぐ『沖縄問題の起源(ロバート・D・エルドリッヂ)』の予約を図書館に入れました。

 

 

一九四七年に早期講和の話が浮上しますが、日本に対する見方がいまだ厳しく、連合国側は要請を受け入れられないということになります。この年六月、マッカーサーが沖縄を分離すると発言しているのは、当時の芦田均外相が沖縄を日本に残したいと要望したのを受けて拒否したものです。マッカーサーが沖縄を重視した理由は様々ありましたが、彼は戦後日本の本土に米軍基地を置きたくなかったので、沖縄があれば本土に基地を置く必要がない、という考えでした。 そこで話は行き詰まり、九月になって「天皇メッセージ」が出されました。その概要は、アメリカによる琉球諸島の軍事占領の継続を望むこと、それは日本の主権を残したままで長期租借によるべきで、手続きは二国間の条約によるべきだとする考えを述べたものです。先にふれた進藤氏や革新系の学者たちは、天皇メッセージは沖縄を捨てたものだと批判しましたが、事実としてはそうではありません。実は外務省が天皇メッセージとそっくりの中身の覚書を用意していたのです。私が外務省の公開資料(第七回、一九八二年)の中から見つけたこの資料(岡崎勝男外務次官によるメモ)では、もともとアメリカ側は沖縄を日本から分離するという点で明確でした。日本としては何とか沖縄を残したいが、アメリカ、とりわけ米軍にとって沖縄の基地は安全保障上きわめて重要である。この矛盾する二つの要請をどうやって両立するか、外務省でも頭を悩ませていました。そこで天皇メッセージのようなものがあれば、沖縄は米軍が基地として使っていいけれども主権は絶対に日本にある、場合によっては行政権も日本にあるという意味が込められていたのです。
つまり、昭和天皇が沖縄を切り捨てたとかいう話ではなくて、通常のルートでは交渉する方法のなくなった日本政府が、それでも必死に沖縄を日本の一部として残そうとして、昭和天皇まで話が行ったということだったと思われます。そして一九四七年九月、天皇の側近だった御用掛の寺崎英成氏がマッカーサーの政治顧問だったシーボルドに会いに行き、天皇メッセージが伝達されました。 それを受けて様々な議論がありましたが、アメリカ政府が政策決定を行うのは結局その数年後、サンフランシスコ講和条約の時でした。条約が調印された一九五一年当時の吉田茂首相はダレス国務長官顧問に対して懸命に交渉し、沖縄については永久的な分離ではなく、日本の潜在主権を認めるという形で条約に盛り込むことになりました。明確な文言としては入っていませんが、その辺はあえて曖昧にしておいたのです。 これはダレスの補佐を務めていたフィアリーの生前、私が取材をして聞き出した事実です。要するに、まず講和条約を締結して、それが発効する翌年までの間に実際にどうやって沖縄を日本に残すかについて協議する場が保証されたということでした。
(第一章 国立大学から海兵隊へ)

 

 

ありがたいことに、『沖縄問題の起源』はサントリー学芸賞とアジア・太平洋賞特別賞をいただきましたが、残念ながら、沖縄の書店ではまず見つかりません。おそらく「沖縄は見捨てられた」という定説を覆す、好ましくない内容だからでしょう。……。
 私は『沖縄問題の起源』の最後で、あえて歴史の「if」を問うています。それは、もし沖縄が講和条約の時点で日本に返還されたらどうなっていたか、という話です。 それでも日本は主権国家として沖縄の基地を使う権利をアメリカに与えただろうし、そうなればアメリカに対する国際社会の批判は抑えられたのではなかったか。沖縄は本土と高度経済成長を共有することができたのではないか。日本はもっと自分たちで防衛義務を果たそうとしたはずで、アメリカと対等な関係になっていたのではないか……。
(第一章 国立大学から海兵隊へ)

 

 

ニ○○四年秋から二〇〇五年初め頃にかけて、「辺野古移設プランはもう死んだ」という意見がアメリカ政府内でも聞かれるようになっていました。反対運動が激しい上に、日本政府に実行する勇気が感じられなかったからです。……。 しかし事実上、日米両政府では辺野古移設は棚上げ状態になっていました。それを受けて、私はこれまでの経緯を再度総括して整理することにしました。その過程で、非常に魅力的なプランとして浮上してきたのが「勝連構想」でした。 この提案をしたのは沖縄市にある建設会社で、要するに沖縄本島中部の勝連半島沖に人工的な島を作り、県内の基地機能をそこに集約させる、という画期的なものでした。もとは一九九〇年代に提案されたものの、SACO合意や地元の利権争いもあって立ち消えになっていたらしいのです。それでも二〇〇五年の時点でも、在沖アメリカ商工会議所や在沖海兵隊はこの案がベストだと考えていました。 もちろん、辺野古で合意決定している以上は簡単に上層部を動かすわけにはいきませんが、この時期はあらためて議論できる状況になっていたこともあり、八月上旬、私は提案者の建設会社の会長をハワイに招いてブリーフィングをしてもらいました。会議には、操縦、兵站(へいたん)、再編問題、国際政策に関わる主だった人たちが出席し、ブリーフィングの後で様々な質疑をしました。 その結果、海兵隊の中では、この構想は海兵隊の望む条件をすべて満たしているという評価で、逆にそれ以外はどのプランも条件を満たしていないか、無理に合わせればできるにとどまり、文句なしに必要条件を満たしているのは勝連構想だけだったのです。
私は研究者として、勝連構想と、SACO合意以降十年近い日米同盟の変化、そして海兵隊の考え方、さらには日米関係の在り方、沖縄問題の解決策まで総合的にまとめた論文を発表しました。米軍の専用施設の78%が整理縮小できるだけでなく、自衛隊との共同使用あるいは相互運用につながるプランでした。 かなり注目されましたが、ペンタゴンの言い分は、「この案が一番いいのは認めるが、日本政府から提案しない限りは無理だろう」というものです。さらに、「沖縄県が提案しない限り、日本政府はアメリカに打診して来ないだろう」とも言いました。確かに、それはアメリカ政府ではなく日本政府あるいは沖縄県が言うべきことであり、アメリカ政府が表に出さなかったのは仕方のない判断だったと思います。 しかし、普天間の移設に関しては、かれこれもう二十年以上も議論しているのです。人件費や調査費などこれまで相当のお金を費やしてきましたし、当初予定よりどんどん膨らみ続けています。辺野古が技術的にも難しいという理由は、この周辺の海を埋め立てるに際して、深い場所では三〇~四〇メートルもあり、関西空港のようにしっかり安定するまでに長い時間がかかるからです。 勝連構想であれば一~二・五メートル程度の埋め立てでできる人工島です。近くで砂を吸い上げて埋め立てれば、プラスアルファをすべて含めても工期は三年ぐらい、早く地盤が固まればそれだけ基地も早く作ることができたはずです。実際、一九七〇年代には勝連に近い平安座島に、こうした方法で石油備蓄基地が造られています。辺野古案だと少なくとも勝連の費用の十倍、場合によっては時間も五~六倍かかると見込まれていました。現在の辺野古基地が出来たのは一九五〇年代後半で、当時の水道や電気などのインフラではとても対応できません。新しい飛行場を作るなら、その下に新たなインフラを入れなくてはなりません。最初から基地をつくる計画で進められる勝連だったら、水道も電気もガスも、必要な場所に必要なだけ整備することができました。 さらには勝連を航空自衛隊と共同使用にすれば、現在の那覇空港の危険性が除去されるというのも魅力的でした。実のところ、現在の那覇空港の自衛隊との共用は、離着陸回数の多さから見て普天間よりもはるかに危険なのです。 それほどメリットの多い優れた案でしたから、当時は小泉首相も注目し、私に代わって五百旗頭先生が説明に行ってくれたこともありました。私も実際に建設予定地となる地域(現在のうるま市)の地元議員と連絡をとり、具体的に話を進められないかどうか検討していた時期があります。 それが頓挫したのは、すでに決めた辺野古案で行きたいという防衛庁の意向、それと地元の利権に絡む問題がありました。ペンタゴンも防衛庁と同じように、一から議論をやり直して新たに各方面と交渉するなんて面倒だという姿勢でした。そして十月、在日米軍の再編(外務・防衛の担当閣僚による2+2協議)についての中間報告「未来のための変革と再編」が出されました。 防衛庁が総理やメディアにも正しい説明をしてこなかった責任は重大です。「もう時間がない」と言った十年前に、「急がば回れ」の諺に倣っていたなら、今の辺野古の膠着状態はなかったでしょう。
(第二章 米軍基地再編の失敗と政権交代)

 

 

事実ではないことを書くことは許されません。間違いを正そうとしないばかりか、政治的な目的で意図的に事実を曲げて書き、自分たちと違う意見を発表しにくい言論空間を醸成している。沖縄に特有の社会的条件があるにせよ、メディアが強力な同調圧力を作り出して世論を支配しています。 いわゆる沖縄問題の解決を複雑にしているのはメディアだけではありませんが、現在、最も責任があるのはメディアであることは120%、断言できます。
(第四章 沖縄のメディアと活動家との闘い)

 

 

沖縄は本当に「問題」の解決を望んでいるのか、ということです。私は今、そこに根本的な疑問を抱いています。基地問題をめぐって少なくとも半世紀近くにわたって解決を模索してきましたが、結果的に行き詰まってしまったものが多くありました。 例えば、一九七〇年代初期にも基地の再編と整理縮小の動きがありましたが、やはり地元の利害関係が対立し、それに反対運動が絡んで話が進まないままになってしまった。簡単であるはずの那覇港湾施設(軍港)の県内移設も、四十年以上になるのにいまだに実現できていません。 そして普天間も御存じの通りです。辺野古移設に反対するのは自由ですが、本当に解決したいと望むなら、それなりの知恵を出し、汗をかいて、政治力をもってまとめていかなくてはなりません。「NO」と言うのは簡単で誰でもできます。しかし、それは政策ではなく、あくまで姿勢です。「NO」の現実的な代案も将来像もないことが無責任であり、だから本質的な議論のできない「NOKINAWA」と呼ばれるのです。
(第五章 沖縄問題の解決へ向けて)

 

 

沖縄はメディアが煽る感情論に支配されていて、しかも反対派はその感情をうまく利用しています。またメディアには批判されるかもしれませんが、子供が「あれが欲しい」と駄々をこねた時に、うるさいからと与えてしまうと、さらに欲望が増してしまう。全員がそうだとは言いませんが、「これぐらい抗議すれば、今年の政府の振興予算はこれぐらいだろう」という、見返りを求める意識が根付いてしまっています。 二〇一三年暮れに仲井眞知事が辺野古への移設容認に転じた際、七年間で二兆円以上もの振興予算と引き換えだと報じられました。安倍政権もこれで前に進めると甘く考えたようでしたが、翁長知事に代わって状況は振り出しに戻り、目下、膠着状態に陥っています。これは歴史的にもなかった事態です。 もちろん、この問題は政府だけでなくメディアや私を含めた学者たちにも責任があります。この二十年間、基地問題に関する報道や出版はほとんど産業化されている。一方では沖縄の色々な思惑やしがらみが透けて見える状況になっています。
(第五章 沖縄問題の解決へ向けて)