あらすじ
「武士道」の精神をもって現実のなかでいかに生きるべきか。「和魂」の必要性を唱え、他人に頼ることなく、自らの力に依拠することの大切さを説いた日本の代表的名著をわかりやすく現代語新訳。
ひと言
今年は「東京裁判」や「沖縄」のことについて学ぶことも多い一年でした。
「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」というフレーズだけが抜き出されて、あたかも平等主義を説いた本であるかのように多くの人に間違って理解されている「学問のすすめ」。
奥付を見ると 2004年7月 第1版第2刷。この本が出版されたときは、ほとんど本を買わない私が、いつでも、何回でもすぐ読めるようにと買いに行ったのを憶えています。この本を本棚から取りだして読み直すのは十数年ぶりですが、今年の最後の一冊として自分にふさわしい本でした。
来年も、人の言うことをそのまま鵜呑みにするのではなく、その問題を多方面から見つめ、自分の頭でしっかりと考えるという当たり前のことを忘れないようにしようと心に誓いました。
学問をするには、自分の分限(立場・能力)を知ることが大切である。人間は生まれ落ちたときから誰にも干渉されず、男も女も一人前の人間として、自由自在に生きられるようにと生まれてきた。だが、いかに自由自在とはいえ、自分の分限をわきまえないと、それはわがまま勝手となり、人生を失敗する元となる。すなわち、その分限とは、天の定めた道理に従い、人の情を大切にして、他人の妨げとならず、自分自身の自由を守ることにある。自由とわがままとの違いは、他人に迷惑をかけているかいないか、にある。迷惑をかけていれば、それは自由とはいえない。
(初編 天は人の上に人を造らず)
ある人がいった。「詐欺(偽り欺くこと)・虚言の悪事も悪徳の一つであるが、これと怨望とを比べてどちらが重いか」と。私は笞えた。詐欺と虚言は怨望を生じさせる原因にはならないが、怨望は詐欺・虚言を生み出す元となっている。いうなれば怨望は諸悪の根源であり、人間の悪事はすべては、この怨望から生まれているといってもいいぐらいだ、と。猜疑心、嫉妬心、恐怖心、卑怯の類は、この怨望から生まれている。
(第十三編 怨望ほど人間に有害なものはない)
『学問のすすめ』は、あまりにも有名な冒頭の言葉、すなわち「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」というフレーズだけが膾炙(かいしゃ)されて、あたかも平等主義を説いた本だと思っている人が多いが、彼がいいたかった主張の核心は別のところにある。 本文にもあるように、福沢はこういうのだ。人間は生まれたときはたしかに平等であるが、社会を見渡すと金持ちもいれば貧乏人もいる、賢人もいれば愚人もいる、身分の高い人も低い人もいる、このような不平等はいったいどこから生まれてくるのだろうか。と現実社会の格差を見せ、こう答えるのである。 「それはただ、その人に学問の力があるかないかによって決まる」 まことに明快な答えである。続けてこういう。
「諺に、『天は富貴を人に与えず、これをその人の働きに与うるものなり』とある。天は、人間の活動・労働の結果を見て富を与える、との意である。もともと人間には貴賤・貧富の差はない。学問に励み、物事をよく知った者は偉くなり富に栄え、無学な者は貧しく身分の低い人間になる」 このように、じつにわかりやすい論理で迫るのである。これを読むと誰もが「やっぱり学問をしなければダメなのか」と思わざるをえなくなる。
(解説 百冊の人生書より一冊の『学問のすすめ』)
『学問のすすめ』で最も福沢が訴えたかったことは、第三編の「一身独立して一国独立す」ということである。……。
独立心のない者はどうなるのか。 ここからの決めゼリフが圧巻である。
「独立の精神がない者は、必ず他人を当てにし、他人を当てにする者は、必ず他人を恐れる。他人を恐れる者は必ず他人に媚びへつらう者となる。いつも他人を恐れ、媚びへつらう者は、いつしかこれが習慣となって、その面の皮が厚くなり、聡知らずの人間となる。そうなるといわなければならないこともいえず、人に会うとただ腰を曲げて卑屈な人間となるのだ。(中略)
言葉も賤しく、応対も卑屈で、目上の人の前では顔色ばかりをうかがい、一言の文句もいえない。立てといわれれば立ち、舞えといわれれば舞い、その態度はまるで家で飼っている痩せ犬のようなものだ。じつに無気力で聡知らずである」
(解説 百冊の人生書より一冊の『学問のすすめ』)
福沢は「独立」とはどういうことかを聞かれたとき、
「他人の厄介にならぬことなり」「人からものをもらわぬという義なり」
と答えているが、まことに簡潔明瞭、見事な答えといってよい。
独立とは、平たくいうなら、自分のことは自分で処理するということであり、人を頼らずに他人の世話を受けないということである。これがあれば賤しい心を持つこともなく、人に媚びへつらうこともない。つまり毅然たる「高尚な生き方」となる。
人から物をもらえば、「借り」が生じて正義を貫けない。また人に世話を受けると、これまた「借り」ができて負い目を感じる。となれば、みすがらを尊ぶ自尊心もなくなり、正々堂々とものがいえなくなる。ここに「痩我慢の精神」が大事になってくるのである。 福沢は、この独立心のある者こそ西洋でいうところの「市民」であり、それが文明人としての第一歩だと見たのである。これがなければ健全な社会も国家も築けないと考えたのだ。
(解説 百冊の人生書より一冊の『学問のすすめ』)