あらすじ
日本人が出場した初めての国際的な競技大会となった一九一二年のストックホルム・オリンピック。この大会でマラソンにエントリーした金栗四三選手は、レースの途中で姿を消してしまう―。現地ではそのとき何があったのか。その後、金栗四三はいかにして「箱根駅伝」の創設に尽力したのか。その真相に迫る。
ひと言
金栗四三さんのことやこの本のことが紹介されたTV番組を観て、すぐに図書館に予約を入れました。読んでいくうちに付箋がどんどん増えてきて、このブログに抜粋する文章を選ぶのに苦労しました。
54年と8ヵ月もの永い間、日本のスポーツ界の牽引のために走り続けていただきありがとうございました。お疲れのところ申し訳ありませんが、あともう少し、東京オリンピックまで、日本のスポーツ界を見守り続けていただけますか?。著者が最後に書き残した「黎明の鐘」が東京オリンピックにあわせた形で実現してくれればいいなぁと心より思いました。いい本に出会えて光栄でした。
「精力善用」とは、どういうことなのか。それが「自他共栄」と同じ意味になり得るというのは、どういうことなのか。 これまでに説明されているところによると、つまり、こういうことらしい。人との出会いで、相手が強い力で向かってきたとき、こちらも力で対抗すれば、当然、衝突が起こり、相手はさらに力を出す。力に対して力で報いるのは、相手にさらなる力を出させることで、決していい方法とはいえない。 こんなとき、相手と対立し、対抗するのではなく、逆に相手の力を利用するような受け止め方をすれば、相手に十分に力を出させないで済む。私心なく、謙虚にし、むしろ相手に利するようにすることが、かえって自分を生かし、双方に幸いをもたらす結果を生む。「柔よく剛を制す」とはこれを指すのだろう。対立と衝突によって互いに破壊し合うより、協調によって共栄するほうが、どれだけ賢明かしれない。
(第二章 嘉納治五郎と金栗四三)
水谷豊氏著の『白夜のオリンピック 幻の大森兵蔵をもとめて』が『熊本日日新聞』の記事として掲げられているところから引用させていただくと、金栗選手は嘉納にこう訴え出ていたのだという。
「先生、私には荷が重すぎるようです。羽田のレースでは勝つことができました。しかし、十分の練習も準備もできていないまま、たとえ三、四ヵ月のトレーニングを積んだとしても、まったく自信はありません。行けばぜひ勝ちたいと思うでしょう。また勝たねば、期待してくれる国民諸君に申し訳けありません」
だからこそ、嘉納治五郎は繰り返し、同様のことを伝えたのだ。
「これからは、国内の学生たちも、学問だけでなく、新しい方向へも発展しなければならない。スポーツもその一つだ。学生が先頭にたって国民の体育熱をふるいおこすのだ。私は講道館をっくり柔道熱をあおった。しかし、残念ながら柔道はまだ国内だけのものだ。君の脚で、君のマラソンの力で、日本スポーツの海外発展のきっかけを築いてくれ。勝ってこいというのではない。最善を尽くしてくれればいいのだ」
金栗四三の気持ちは、それでも変わらなかった。嘉納はさらに言葉を継いで彼の翻意を促した。有名な「『黎明の鐘』となれ」の言葉は、このときのものだ(『走れ二十五万キロ』豊福一喜・長谷川孝道著)。
「何ごとも初めはつらい。自信もなかろう。しかし苦労覚悟で出掛けていくことにこそ人間としての誇りがあるのではなかろうか。スポーツにしてもしかり、捨て石となり、いしずえとなるのは苦しいことだ。敗れた場合の気持ちもわかる。だが、だれかがその任を果たさなければ、日本は永久に欧米諸国と肩を並べることができないのだ。このオリンピックを見逃したら、次の機会は四年後にしかやってこない。もう四年の空白を指をくわえてまつ時期ではないのだ。金栗君、日本スポーツ界のために『黎明の鐘』となれ」
(第三章 オリンピック予選会)
一九〇八年の第四回大会は、ロンドンでのこととて、クーベルタンは最も大きな期待をかけた。しかし、ここにおいても彼はまたもや大きな落胆を味わうことになる。 スポーツの巨大勢力であるアメリカとイギリスが、競技を通じて対立してしまったのだ。 発端は、四〇〇メートル競走の決勝にあった。 アメリカは三人の選手を送っていたが、イギリスからはウインダム・ハルスウェル選手ただ一人だった。先頭争いは激しかった。最後の直線コースヘと出たところで、三番手の位置にいたイギリスのハルスウェルが、外側から前の二人のアメリカ選手を一気に技こうとしたとき、アメリカ選手カーペンターが肩で妨害したとの判定が出されのだ。競技場は大混乱となった。
混乱をただす方法はただ一つしかなかった。再レースをすることだった。それはその週の最後に行われることになったが、これをアメリカ選手全員が棄権。イギリスのハルスウェルだけが一人で走って優勝となった。 これが、歴史的に意味を持つようになったのは、実はこのあとの一件による。このアメリカ・チームが寺院での礼拝に集まったとき、エチェルバート・タルボット司祭が彼らを諭して言ったのが
「オリンピックで重要なことは勝つことでなく、参加することである」
という言葉だったからだ。この言葉に感激したクーベルタン男爵は、他の席での自身のスピーチにこれを引用した。そして、そのあとに「人生で一番重要なことは勝利者であるかどうかではない。その人が努力したかどうかである。堂々と奮闘することである」と付け足したというのが真相だ。
(第四章 ストックホルムへ)
一九二〇年(大正九年)、東京箱根間往復大学駅伝競走を企画した。 今ではお正月の風物詩とまでいわれる箱根駅伝、つまり、東京箱根間往復大学駅伝競走の誕生に、金栗四三が最も大きく係わっていたことは、最優秀選手賞に「金栗四三杯」の名が与えられていることからでもわかるだろう。
(第ハ章 駅伝)
一九六七年(昭和四十二年)三月、思いがけない知らせがストックホルムから舞い込んだ。一九一二年(明治四十五年)に開催されたオリンピックの五五周年行事に、金栗を招待したいというのだ。……。
マラソン部門での金栗選手が、スタジアムの門を出たことは明らか。しかし、ゴールインはしていない。かといって、棄権にもなっていないのだ。つまり、彼はまだ走り続けているということになった。それを完了させたいという願いが彼らに起こったものらしい。 普通、レース途中で倒れた者については、係の者が本人に会い、レース続行を放棄するという意志を確かめた上で「棄権」として処理する。しかし、金栗四三選手の場合は、その意志告示の確認が抜けていた。 日本に帰っているのなら、どこかにいるはずで、関係者は多分ペトレ家にも問い掛けたのだろう。金栗はペトレ家とは、つねに連絡を保っていた。そんなところから、彼が日本の九州にいると判明したものらしい。……。
しかし、その招待を受けない金栗では、もちろん、ない。 金栗四三は喜んでストックホルムを再訪した。彼は七十五歳になっていた。 オリンピック委員会では、スタジアムに正式のゴール・テープを用意していた。そのときの写真がある。彼はレースからほぼ五五年経って、やっとそのテープを切った。 アナウンスもあった。 「日本の金栗四三選手、ただいまゴールインしました。タイム、五四年と八ヵ月六日五時間三二分二〇秒三」 そして、さらにもう一言。
「これをもちまして、第五回ストックホルム・オリンピック大会の全日程を終了いたします」
柏手に包まれ「ゴール」したあとの金栗四三のコメントも残されている。彼はこう言っているのであった。「長い道のりでした。その間に、孫が五人できました」
会場からは大きな笑声と、さらに大きな拍手が湧いたということだ。
(第十章 幻の東京五輪、夢のストックホルム)
グリコの有名なゴールイン・マークについては、何度かの変更があったようであるが、調べてみると、初代のマークは一九二二年(大正十一年)生まれだとのこと。うしろに日の丸を背負っているところからしても、また当時の日本でオリンピック陸上競技の選手として常連となっていたのは金栗四三以外にないところからも、オリジナルなマークのモデルに彼がなっていたことは間違いない。その後、顔の表情を「もっと柔和に」との商業方針から、デザインが少々実物の金栗選手から離れていっているが、それも彼の責任というものではない。 ともあれ、長い間、彼金栗四三選手は日の丸を背に、キャラメルの図案に、あるいは大阪・道頓堀の巨大ネオンにおいても、今でも元気に走り続けていることはご存じのとおりだ。
(第十二章 人生という名のマラソン)
箱根駅伝には、最高殊勲賞にあたる「合栗四三杯」が二〇〇四年(平成十六年)の第八〇回大会に創設されたことはご存じのとおり。第一回の学連選抜の鐘ケ江幸治選手(筑波大)以来、それは毎年新春を飾るスポーツ・ヒーローを生んできた。受賞者には金栗の生まれ故郷和水町から「金栗四三杯」が贈られる。彼がストックホルム・オリンピックに向けて走った最初の国内予選で優勝したときのカップを複製したものというのも意義深い。 金栗四三が残したレースが起爆剤となって、今や全国にさまざまに長距離競走の大会が起こり、ランナー人口は確実に増えている。ランニングは楽しいものであることを伝えたいという彼の意図は、十分に果たされたといえる。 人生の最後まで、地元の学生たちや子供たちとのランニングを楽しんだ金栗四三。地元のマラソン大会では、いつもスタートのピストルを翁自身が撃ったが、いよいよ晩年になっては、それも楽にはいかなかった。 しかし、衝撃の反動を抑える者に腰元を支えられながらでも、最後まで号砲を放ち続けたという。一九八三年(昭和五十八年)、十一月十三日没。九二年の見事な人生だった。
(第十三章 勝者とは、敗者とは)