あらすじ
「戦場の知事」島田叡は昭和20年6月、沖縄・摩文仁の丘で消息を絶った。遺骨は現在も見つからない。東京帝大野球部OBの一人である。日本の野球史そのものである同部の歩みには、卒部生の数々の壮烈な人生が浮かび上がる。野球の「本質」とは何か。ひとつの目標に向かってひた走ることの「価値」とは何か。その原点を追う渾身のルポルタージュ。
「魂が神宮球場から離れない」――4年間80連敗のまま卒部した副将は、そう呻いた。2019年に「創部百年」を迎える東大野球部は、凄まじいまでの「敗北」と「葛藤」の歴史を持っている。ついには2015年、リーグ戦で一度も勝利を味わうことなく卒業した部員も現われた。
負けても負けても、それでも挑戦をやめない集団――史上最多の17勝をあげた伝説の大投手や、初優勝に“あと一歩"まで迫った「赤門旋風」の主役たち、150キロ左腕・宮台康平らへの徹底取材を通じて、すべてが解き明かされる。
ひと言
著者の門田 隆将さんが出演するTV番組で、この本のことを知り、東大野球部OBの島田 叡さんの足跡を追う間に東大野球部そのものを描くようになったという話を聞いてすぐに図書館に予約を入れました。
2011年の夏 家族旅行で沖縄へ行ったときには、勉強不足で沖縄県知事 島田 叡、沖縄県警察部長 荒井 退造 の2人の「島守」ことを知らず、平和祈念公園の「平和の礎」はお参りしたのに、そのすぐ近くの「島守の塔」へお参りしなかったことがずっとずっと心残りでした。
今年 2018年1月、仕事で沖縄へ行くことがあり、どうしてもお参りしたかった摩文仁の丘の「島守の塔」へやっと手を合わせに行くことができました。
(上の写真は、そのとき撮ったものです。自分も写った記念写真を撮るのにはふさわしくない神聖な場所なので…)
この本のおわりにも書かれていますが、東大野球部は2015年から沖縄でキャンプを張るようになり、その沖縄キャンプで欠かせない行事が「島守の塔」への参拝。そして「東京大学」と刻印されたボールをお供えするとのこと。
この「島守の塔」への参拝こそが、東大野球部がいまも存続している理由を指し示しているのではないかと門田さんは言います。「敗れても 敗れても」、「次は勝つ」という思いを絶対に捨てず、この引き継がれる目標を追い求め、歴史と伝統を継承しようとする精神に、人々は応援し、拍手を送るのだと思いました。
敗れても敗れても、それでも挑戦をやめない一風変わった集団-それが東大野球部なのだ。私がこの部に興味を抱いたのは、ある人物の存在による。 島田叡。太平洋戦争末期、青酸カリと日本刀、そして『葉隠』と『南洲翁遺訓』という二冊の本を持って知事として沖縄に赴いた内務官僚である。
(はじめに)
(上の写真は ネットより拝借です)
顕彰碑の碑文が朗読される。朗読するのは、島田叡氏事跡顕彰期成会の名嘉山興武副会長である。参列者が目を瞑って聴き入った。
「建立の詞 一九四五年一月、島田叡氏は、風雲急を告げる沖縄に、大阪府内政部長から第二十七代県知事として赴任しました。その頃、沖縄は、前年の″十・十空襲″の被災につづき、住民を巻き込んだ国内唯一の地上戦が始まろうとする直前でした。 それは死を賭した決断の着任でした。以来、五ヵ月に及ぶ苦難な戦火の沖縄で県政を先導し、献身的にしかも県民の立場で疎開業務や食糧確保につとめ、多くの県民の命を救いました。 最後の官選知事・島田叡は、沖縄戦で覚悟の最期を遂げ、摩文仁の『島守の塔』に荒井退造警察部長をはじめとする旧県庁殉職職員(四百六十九柱)とともに祀られています。沖縄県民からいまも『沖縄の島守』として慕われている所以です。享年四十三、兵庫県神戸市須磨区出身」
名嘉山はここでひと呼吸置くと、野球選手としての島田について綴った碑文の部分を、つづけて朗読した。
「島田叡は、高校、大学野球でフェアプレーに徹した名選手でもありました。野球をこよなく愛し、すべてに全力を傾けるそのスポーツ精神は、県政の運営にも通底し、つながったと思われます。一九六四年に、故郷・兵庫県の『島田叡氏事跡顕彰会』から沖縄へ『島田杯』が贈られました。そのことが(沖縄の)高校球児に甲子園への夢を育み、大きな励みになりました……」
島田がきっかけになって結ばれた沖縄県と兵庫県の絆は、沖縄の本土復帰のはるか以前から始まり、大きな果実を結んでいたのである。 顕彰碑の朗読が終わると、島田の出身地・神戸からはるばる駆けつけた井戸兵庫県知事も挨拶に立った。
「島田さんの没後七十年の今年、あらためて最期まで沖縄県民を守ろうとした島田さんの生きざまを学び、次世代へと語り継がなければならない責任を痛切に感じております」 井戸はそう静かに語り終えると、自作の歌を披露した。
島守の 形見に誰もが 涙せん
崇める気持ち 赤裸に 出でん
(第一章 沖縄に散った英雄)
家族の述懐に、知事公邸から帰ってきた島田のようすが残されている。 美喜子夫人と二人のお嬢さんが待つ家に戻った島田は、にこにこと笑っていたという。 「沖縄県の知事への内命があったよ」 家庭で一度も声を荒げたことのない夫は、いつもの柔和な表情でそう言った。驚いたのは美喜子である。一瞬、美喜子は、全身の血が退いていくのを感じた。 「それでお受けになったのですか」 「もちろん受けてきたよ」 平然と答える夫に、美喜子はわれを忘れて、 「私たちはどうなるのですか!」 思わず、そう叫んだそうである。沖縄への赴任は「死」を意味している。残される私たちは、いったいどうなるのかと。前出の評論家の中野好夫は、このときのようすを夫人から聞き、昭和三十一年発行の文藝春秋別冊に「最後の沖縄縣知事 人間・島田叡氏の追憶」と題して、こんな一文を寄せている。
私たちなんにも悪いこともしないのに、沖縄にやられるなんて、そんな内務省なら、いっそやめてしまいましょう、とも歎いたそうだ。いわれない女のグチだなどと思ってはいけない。人間の自然だと私は思う。自然なるが故に美しいとさえ思う。作り上げられた烈婦傳などは眞平御免だからである。
だが、叡さんは答えたそうである。どうしても誰か行かなければならないとすれば、云われた俺が断る手はないではないか、と。また、これが若いものならば、赤紙一枚で、否応なしに行かなければならないのではないか。それを俺が固辞できる自由をいいことに断ったとなれば、俺はもう卑怯者として外も歩けなくなる、とも云ったという。(別冊 文藝春秋第50号記念特集)
それは、家族の思いも振り切った、覚悟のうえでの赴任だったのである。
(第一章 沖縄に散った英雄)
「沖縄本島を脱出して戦さの実相を本土に報告せよ」 牛島司令官からその命令を受けた報道班員たちは、六月十九日、海上班と陸上班の二班に分かれて脱出をはかっている。そのなかで戦後まで生き残ったのは、野村ひとりだけだった。 脱出する日の昼、野村は島田知事を訪ねている。ここでのやりとりも胸を締めつけられる。 「しっかり頑張ってください。成功を祈ります」 野村の手をしっかり握った島田は、そう励ました。お互い明日の命は知れない。万感こみ上げた野村は、島田にこう問うた。 「知事さんは、これからどうされますか」 この場に至っても、自分の命を心配してくれる野村に、島田は思わず微笑んだ。 「軍と最期をともにします」 そう言うと、島田はこうつけ加えた。 「見苦しい身体を残したくありません。遠い海の底へ行きますかな」 島田はそう言って笑った。 野球で鍛えた島田の身体は、食べるものもほとんどなく、赤痢が蔓延する壕から壕へという逃避行のなかでも、まだ頑健さが失われていなかった。しかし、ノミや虱で、威風堂々としていた頃とは比べものにならなかった。 死ぬときを絶対ともにする、と固い決意でついてきた警察部長の荒井退造も、さすがに体力が尽き果てていた。(島田知事は、惨めな骸を人目にさらさないかたちの死を決意している……) 野村は、そのことを悟った。 (知事は、入水するつもりだ……) 野村はそう直感したが、□には出さなかった。先述したように島田は、これまでに多くの県民の遺骸を見てきている。そのたびに合掌する島田の姿を部下が目撃している。 死んだあとの自身の屍が人々の迷惑となってはならない。島田は、そこまで自分の「始末」を考えていたのである。いかにも、信念と気配りの能吏、島田らしかった。そして、それが島田と交わした野村の最後の会話となった。野村はこう書いている。「これは私の最後に使うんだ」といって持っておられた薬(筆者注=青酸カリ)もあったし、最後の言葉からしてもおそらく島田さんは摩文仁の沖へ出て、立派な最後を遂げられたと思う。多数の県民を失った責任を強く感じておられた島田さんだから、あの場合到底生きようとはされまいが、まことに惜しい人を失った。島田さんのような本当の民主的な人をほしい今日である。十九年目のご命日を前にして島田さんのご冥福を心から祈りたい (『沖縄の島守 島田叡』)
「見苦しい身体を残したくありません」 その言葉どおり、島田と荒井の遺体は、ついに見つからなかった。自らの身体の「始末」を完全につけて、二人は、この世から去ったのである。
最後に、島田の生涯の師となった佐賀・龍泰寺の佐々木雄堂が亡くなる年(昭和三十九年)に記した絶文を紹介して、戦場の知事・島田叡への手向けとしたい。
先年当時の上司であり、後の内務大臣であった安倍源基氏のお話によると、十九年十二月、当時の沖縄県知事は病気と称して沖縄に帰任せず、各部長も各々口実をもうけて内地に引き揚げ、県庁内には荒井退造警察部長ただ一人とどまっているという状態で、県と県民とは完全に背離し、今一ヵ月知事着任がおくれたら陥落前内乱発生という異常な危険状態にあったとのこと。その殺気だった沖縄に着任した島田知事は、制空権を侵されている中を台湾に飛び島民の食糧を確保し、また玉砕後の沖縄再建の任を果たす者は現在の小学生ではないかと、当時中止されていた学童の九州疎開を、軍の反対を押し切って再開強行された。 この信念に生きて、その身心を傾けた実践は県民に強く印象され、今日なお島田知事を追慕すること深く、特に命の親と慕う当時の九州疎開の小学生たちは既に中堅層となり、たくましく沖縄再建の中核体となっている。八年前同志相結んで有名な「ひめゆりの塔」「健児の塔」と共に島田知事のために「島守の塔」を建設し、毎年六月二十三日の命日には盛大な祭典を催し、島民は尊崇とともに知事の志をつがんことを誓っている。文字通り島田知事こそは、「後から拝まれる」偉材であり、沖縄の歴史のつづくかぎり大空にかがやく明星のごとく沖縄再建の精神的原動力となることを私は確信する。(『師と友』〔昭和四十年九月発行〕に寄せた佐々木の絶文より)
(第一章 沖縄に散った英雄)
桐朋高校出身の初馬は、高校時代にはエースとして西東京大会のベスト16まで進出し、東大入学後もピッチャーとしてマウンドに立った。 しかし、二年の終わりに肩を痛めて一年を棒に振り、四年になるにあたって監督から″野手になって欲しい″と告げられ、外野手として打撃を生かすようになった。 「四年間勝ち星なし、というのは、東大野球部の歴史上ないので、汚点になるじゃないですか。先輩たちが築いてきたものを裏切ることだけはやっちゃいけない、と僕たちは思っていました。自分自身が勝ちたいという気持ち以上に、そういう″歴史を汚す″ことだけはあってはならないと思っていました。だから僕は、野手として残された時間が一年しかないので、すべてを野球に賭けたいという思いで、その時点で留年を決めました。八十回もやって勝てないというのは、もう悔しいというレペルではないですね。悔しさが積もりに積もって八十回。単純に八十回分積もっても、一回勝てばそれを吹き飛ばせるものだと信じていましたが、その吹き飛ばす機会を僕たちはもう得ることができません。だから、気持ちというか、″魂″が神宮に取りついて離れられないんです」神宮で勝たなければならなかったという思いは、今も初馬から離れないのである。
(第五章 連敗の苦悩)