あらすじ
加藤清正、福島正則ら多くの戦国武将に母と慕われ、秀吉を助け天下一の女性となった北政所「おね」。唯一の武器は、知略でも武力でもなく、相手の心に寄り添える“共感力"だった─。信長、秀吉、家康に愛された北政所「おね」の生涯を描く! もう一つの大坂の陣ストーリー。
ひと言
打算なく天下泰平を心より願ったおね。この人が秀吉の妻であったことは非常に大きい意味を持っていたと、今 歴史を振り返ってみると断言できると思う。なかなか書き残されたものが少ない戦国女性のことであるから、こうであってほしいという作者の創作もあると思いますが上下約700ページ、とても楽しく読ませてもらいました。
高台寺の傘亭や2階建ての時雨亭のことも書かれていて、もう後1週間もすればライトアップで水面に映る真っ赤な紅葉が観られる高台寺。次の3連休お天気が良ければ京都に行こうかなぁ。
半兵衛の死が心に落ちたとき、手にしていた手紙も、床にぱさりと落ちた。 「義母上、どうなさったのですか?」 秀勝となった於次丸が、豪と並んで、開いた襖の向こうに立っていた。ああ、この二人を結婚させるのもいいかもしれない……。なぜだろう。そんなことをぼんやり思った。生きていればこその、あれもこれもがある。あるというのに……。尋常でないおねの心中を察したか、豪を促し、秀勝が部屋を離れた。 「半兵衛殿が……亡くなられた………」 初めて会ったときの、はかなげな半兵衛の微笑が揺れた。こうなることは定まっておりました、そうつぶやいているような笑みだった。 何ひとつ定まってなどいないのに、あなたは死地へ向かった。そして、それをわたしは止めることはできなかった……。とめどなく涙があふれ、頬を伝い床に落ちた。声を上げておねは泣いた。 その数日後、おねに半兵衛の封書が届けられた。この世にない命からの手紙を、おねはしばらく呆然と見つめていた。そして、封を開くのももどかしく、むさぼるように手紙を読んだ。
『武士らしく戦場での死を望み、病身で戦場に赴くなど、泰平の世を望まれるあなた様には、理解しがたきことでしょう。愚かな男のやることと、どうぞお笑いくださりませ』 胸の内を、半兵衛に見抜かれた気がした。 『ひとつふたつ、あなた様にお伝えしておきたく存じます。半兵衛亡き後のことは、心配ご無用にて。秀吉様には、黒田官兵衛殿という新しき軍師がついております。知略に長け胆力も備えた、それがしなどよりよほど優れた人物にございます」 あなたに勝る軍師がどこにおりましょう。こみあげるものを抑え、おねはつぶやく。 『前に半兵衛はお話ししました。おなごには生み出し、変化させ、同時に守る力がある。その上に時の流れを感じ、先を読むことができるおなごが現れたとき、まことの泰平の世が訪れる、と。あの時は申しませんでしたが、そのおなごとは、あなた様ではないかと思うておりました』 わたしが? このわたしが泰平の世を導く……? 「これも前に申しました。あなた様には深く相手を思い、相手の中に入り込む力があります。のみならず、向き合う相手その人の心になってしまえると。それゆえ相手が心を開きます。開かずにはいられなくなるのです」 自分にそんな力があるなど、おねにはまだ信じられない。 『そのお力を用いて、秀吉様を助けて差し上げてくださりませ。ひいてはそれが、信長様の天下統一へとつながりましょう」
手紙はそこで、刃で断つように終わっていた。残されていた力を、絞り果たしたかのような終わり方だった。ここに書かれたことをわたしに伝えるために、半兵衛殿は命の最後の一滴を使ってくださったのだ……。
手紙の最後におねの涙の眼が止まった。そこには、「千年おおとり」の朱印が捺されていた。おおとりは、千年に一度現れると信じられている鳳凰を意味し、鳳凰とは、世の中が平和になった時に現れる鳥とされている。おねは奥歯を噛みしめた。半兵衛殿は、いや半兵衛殿こそが、天下が泰平となることを願っておいでだったのだ。そのために命を燃やし、死んだ――。おねはもう泣かなかった。 半兵衛から、大きな荷物を手渡されたような、そんな気がしていた。
(大名の妻 二十八)
「政所様」淀が言った。「ひとつ、お願いしたいことがございます」 侍女の一人に、淀は目配せを送った。 「失礼仕ります」高い声がし、軽い足音が響いた。人って来たのは、面差しにまだ幼きの残る男児だった。淀の隣に座るのを、呆気にとられて見ていたおねに、秀頼が言った。 「わが長男、国松にございます」 おねは驚いて千を見た。秀頼に子がいるなど、聞いたことがない。 「私ではなく、側室の子にございます」千が小さく言い、初が引き取った。 「姉上に頼まれ、私の婚家、京極家の家臣に預けておりました。こちらに来るとき、一緒に連れて参りました」 秀頼が珍しく頬を染めた。「千の眼をはばかったわけではないのですが……」 正室のわたしに子ができず、側室の淀殿が産んだのと、まるで同じだ。おねは思い、同時に、千に対する痛ましさを覚えた。それを察したか、 「私は気にしてはおりませぬ」千が、今度は明るい笑みを浮かべた。いじらしさに胸が痛む。……。……。「国松の元服後の名は、『秀勝』にしたいと存じます」「秀勝……!」「お許しいただけましょうか?」「……なぜ、その名を?」「豊臣を継ぐ者です。その名しかないと考えたのでございます」 気がつくと、おねは自分の腹に手を当てていた。この腹に確かに宿り、「秀勝」と父親の秀吉に呼ばれていた命。三人の養子に受け継がれ、絶えていたその名が今、この子のものとなってよみがえろうとしている――。 「ありがとう存じます……」淀に向かって、おねは深々と頭を垂れていた。
国松の元服の儀は、その日のうちに執りおこなわれた。 望まれた通り、おねは、剃刀で前髪の一部を落とす役目を果たした。元服親は、これも淀の依頼で大野治長がつとめた。 治長が、床几にかけた国松に近づき、その頭に恭しく烏帽子をかぶせた。国松を見る眼が深く、優しい。会釈して退くとき、その眼を治長は淀に向けた。瞬間、二人は視線を合わせた。あたたかく濃密な気配が通うのをおねは感じた。 もしや、この治長が秀頼の父……。おねは思わず秀頼を見た。確信が動いた。けれど、もはやどうでもいいことにも思えた。
(戦の果てに 六十三)
「政所様……、私がここに参りましたのは、政所様に、一刻も早くこの城を出ていただきたい、その願いをお伝えするためにございます」 おねは淀を見る。「どういうことですか?」 「政所様は、誰よりも戦を嫌っておいでです。そのようなお方が戦に身を投じてはなりません」 「そのような――」 「天下の泰平を願う政所様に、戦は似合いません。ましてその戦で死ぬなどと」 「あなたと秀頼はよいのですか!」 「……私は死ぬことは怖くはないのです。誇りを捨てて生きながらえるなら、死を選ぶ、それが私の生き方です。されど――」淀は小さく笑った。「私にも怖いことがございます」 「怖い、こと……」 「忘れ去られてしまうことにございます」 「……」 「私が……いえ、秀頼がここで暮らしたこと、ここで生きていたこと、そのことを誰かに憶えていてもらいたい」 「だから、わたしに生きろと……」淀は微笑した。「最初にお会いしたとき、私は政所様が嫌いにございました。他人の子までわが子のように接しているのも不快でした。なんてお人好しなのだろう、いえ、お腹の中はきっと真っ黒なんだと、そんなことも考えました」淀はおねを見る。「されど、さまざまなことがあり、教えられ、支えてもいただきました。時に友情に似た思いを抱き、互いに天下人を支える者として、同志であると感じてもおりました」 「淀殿……」 「でも、今は……母だと思うております」 胸を衝かれた。この私を母と? 織田と浅井の血を何よりの誇りとするこの人が、わたしを……?「母である政所様にしていただきたいのは、共に死ぬことではありません」淀は静かに言った。「菩提を弔っていただきたいのです」 おねは眼を見開いた。「生きて、私と秀頼の、菩提を弔ってください……」 おねは淀を強く見返して言った。「わたしを母と思うなら、母であるわたしの頼みをお聞きください」「そればかりはできません」淀は笑った。「もう気持ちは定まっております」 おねの唇が震えた。「それでも、わたしに菩提を弔えと。ひとり生き残り、あなたたちの菩提を……」 「はい」 「それが、あなたと秀頼の幸せだと……」
「はい」 おねの眼に涙があふれた。気がつくと、淀がそばに来て、おねの体を抱きしめていた。おねは淀にすがって泣いた。
(戦の果てに 六十五)
「千、そなたに頼みがある」淀は言った。「秀忠殿――父上様のところへ行き、私たちの命を助けてくれるよう、願い出てはもらえぬか」 千が、はっと顔を上げた。眼に希望の色が瞬いた。「父上に……、よいのですか?」 「そうしてくれ」かすかに笑み、秀頼が言った。淀も微笑を上らせた。「降参するゆえ、命ばかりは救って欲しい。私がそう言うておると伝えてくれ。……初」妹に眼を向け、淀は続けた。「そなた一緒に参れ。徳川方に、千を送り届けるのじゃ」 じっと淀を見て、「わかりました」初が言い、千を見た。「行こう。姉上と秀頼の命乞いをしよう。そなたがお願いすれば、秀忠様もきっとお聞き入れくださろう」 新たな力を得たように、千が立ち上がった。「参ります。父上にお願いして、必ず、必ず、お二方のお命、助けていただきます」 千が支度をしている間に、初が淀に近づき、手に手を重ねた。淀が低く言った。「初。ここまで、ようついてきてくれた」「姉上……」「千と……江を頼むぞ」 強く唇を噛み、初は黙ってうなずいた。初と侍女たちに囲まれ、部屋を出て行きかけて、千が振り向き、声を張った。「秀頼様、義母上様、お待ちになっていてくださりませ!」 千と一行が姿を消し、しばらくしてから、秀頼が淀に顔を向けた。 「ありがとうございます」 「千だけは、助けてやらねばならぬ。政所様との約束ゆえな」笑って淀は言い、立ち上がって 一同を見回した。「次はそなたらじゃ。ここを出て逃げよ。男たちはおなご衆を守るのじゃ。行け!」
(戦の果てに 六十六)