あらすじ
恋のライバルは草でした(マジ)。洋食屋の見習い・藤丸陽太は、植物学研究者をめざす本村紗英に恋をした。しかし本村は、三度の飯よりシロイヌナズナ(葉っぱ)の研究が好き。見た目が殺し屋のような教授、イモに惚れ込む老教授、サボテンを巨大化させる後輩男子など、愛おしい変わり者たちに支えられ、地道な研究に情熱を燃やす日々…人生のすべてを植物に捧げる本村に、藤丸は恋の光合成を起こせるのか!?道端の草も人間も、必死に生きている。世界の隅っこが輝きだす傑作長篇。
ひと言
心に残ったフレーズに付箋を貼りながら読み進めましたが、付箋が20近くにもなってしまいました。
ポスドクや変異体、ヘテロやホモといった理系でなければちょっとしんどいかなと思うような部分も「デカパイ」や「アッホー」「アホ」というようなユーモアあふれる表現で読み手を引き込んでくれます。専門的な部分の表記が多いかなとも思いましたが、これだけの表記があるからこそ、研究の難しさや、それを発見したときの喜び、本村がどれだけ植物に恋をしているのかが伝わってきてとてもよかったと思います。また下に引用した松田が奥野とのことをカミングアウトするくだりは漱石の「こころ」のようで、長く引用させてもらいました。それにしても三浦しをんさんがどれだけ研究室に通い取材をしたのかというのがすごく紙面に現れていて、取材した研究者の言葉をそのまま文章にするのではなく、自分なりにちゃんと理解して自分のものとして表現しているんだなぁというのがすごく伝わってきます。「舟を編む」もそうでしたが、道を究めようとする人々をほんとうにうまく表現しエールを送るような文章に仕上げる三浦さんに感服です。ひょっとしたらこれも本屋大賞に絡んでくるかも!?素敵な本でした。ありがとうございました。
生まれてから死ぬまでの限られた時間のなかで、金もうけをしたいとか、人助けをしたいとかなら、まだ想像の範囲内だ。だけど、「真理の探究」を選び、志すひともいる。損得も、意味とか無意味とかも超え、ただ「知りたい」という情熱に突き動かされているひとがいる。それってすごいことだ、と藤丸は思った。
(1)
考えてみれば、すべての「親」は、子どもがいるから親なのだ。「子どもを持つことにまったく興味を抱けない」と言いだした我が子を、価値観の異なる、理解の及ばない存在だと認識する可能性大だろう。しかも本村の場合、男女交際にも結婚にも興味がなく、胸躍る対象はシロイヌナズナだけなのである。両親の混乱と落胆を思うと、なんだかいたたまれない気持ちになる。 だが、そこはやはり本村の両親だ。本村か博士課程に進んだ時点で諦めというか踏ん切りをつけたのか、一人娘が帰ってきたことを純粋に喜び、上げ膳据え膳のもてなしぶりだった。母親は餅やらおせちやらをもっと食べろとうながしてくるし、父親は「一緒に飲もう」ともらいものの上等の日本酒をいそいそ開けるしで、本村はべつの意味でなんだかいたたまれない気持ちになったほどだ。 愛が重い……、と本村は思った。藤丸が唐揚げにこめた愛には気づかなかった本村だが、楽しそうな両親の様子から、自分がいかに愛されているかをさすがに察した。重いけれど幸せである。
(3)
だが、最後の写真を見たとたん、松田は凍りついた。 「それは、崖下の地面を至近距離から撮った写真でした」 松田は平板な口調で言った。「『ピンぼけしているのですが、落下の衝撃で撮れたものではなく、なにかを撮ろうとしたのだろうと、警察のかたはおっしゃっていました』と奥野のご両親は言いました」松田には、わかった。そこになにが写っているのかが。 奥野は最後に、松田が頼んだ腐生植物の写真を撮ったのだ。 「私はすべてを察しました。奥野が崖から落ちたのも、崖下に腐生植物を発見したか、腐生植物がありそうだと思ったかして、身を乗りだしたからでしょう。私が『腐生植物を』などと言ったために……」 「先生、それは」 と川井が口を挟もうとしたが、松田は聞こえていないかのようにしゃべりつづげた。 「あのときほど、あらゆる感情と思考が押し寄せたことはありません。私はこわくなりました。この真実をすぐにでも奥野の両親に打ち明け、赦しを乞いたいと思いましたが、そんなことを言われてもご両親だって困るだろう、『あなたのせいではない』などと心にもない言葉を言わせる苦痛をこのうえ味わわせるのかと迷い、結局なにも言いだせませんでした。しかし、よく考えれば、それも私の卑怯さが選択したことです。私は奥野の両親に泣いて責められるのがこわかった。自分が奥野の死の原因になったということを、受け止めきれなかった」
ただ、どういう心の働きだろう。ピンぼげした最後の写真だけは、なんとしても欲しくて、奥野の両親に譲ってくれるよう申し入れた。なにも知らない両親は、「焼き増しできるから」と快く写真をくれた。
……。……。……。
「奥野はなぜ、この写真を撮ったのだろう、という考えに私はとらわれました」と松田は言った。「ひと知れず崖から落ち、救助が来る可能性はほとんどゼロの、絶望的な状況です。大怪我を負い、死を目前にした奥野の痛みと苦しみと恐怖は、口をつぐんだまま奥野の両親のまえから逃げだした私が感じたおそれなどとは、比べようもないものだったでしょう。にもかかわらず、奥野は最後の力を振り絞って、腐生植物の写真を撮った。これはもしかして、告発の一枚ではないか、と私は思いました。いわゆるダイイング・メッセージです。自分の死は、『腐生植物を』という私の依頼が原因となったものであると……」 「ちがいます!」 本村は思わず叫んだ。「ちがうと思います」 「はい」 松田はちょっと笑った。もう何度も何度も、そのことについて考えてきたのだとわかる表情だった。決して答えの返らぬ問いを繰り返すことに、半ば倦み、半ば諦めたかのような。 「『奥野はそんな人間ではない』と、私は浮かんだ思いをすぐに振り払いました。崖から転落するという不幸な事故に遭遇し、死の恐怖と孤独に押しつぶされそうなときにも、それをだれかのせいにしたり、ましてや告発しようなどとは、微塵も考えないようなやつだ、と。実際、彼は非常に合理的かつ心根の優しい男でした。私は必死に、『奥野は俺との約束を果たそうとして、最後に腐生植物の写真を撮ってくれたんだ。この一枚は奥野の友情の証だ』と思おうとしました」 だが、振り払っても振り払っても、写真は奥野の告発であり指弾なのではないか、という考えは、松田の脳みそにこびりついた。松田はだんだん眠りが浅くなり、眠っても悪夢を見るようになった。
……。……。……。
一周忌には少し遅れてしまったが、松田はできあがった冊子の束を持って、奥野の両親を訪ねた。冊子を渡し、奥野の草稿をもとにした論文も、近々雑誌に掲載されることを報告すると、両親はとても喜び、松田を歓待してくれた。松田は仏壇に冊子を供え、線香を上げて手を合わせた。 その冊子には、奥野が最後に撮った写真も載せた。松田は奥野の両親に、そこに写っているのが腐生植物であること、自分がそれを撮ってきてくれるよう奥野に頼んだことを話した。本当はその場に伏して、奥野にも奥野の両親にも謝りたかったが、そんなことをしても両親を苦しめ、死んだ奥野を困惑させるだろうと思ったし、自分が楽になりたいだけだということもわかっていたので、畳につきそうになる手をぐっと握ってこらえた。ただ、「もっと早くにお伝えせず、すみません」と詫びた。 奥野の母親は、松田の話を静かに聞き終えると、「よかった」 とつぶやいた。「じゃあ、あの子は最後に、松田さんとの約束を守ることができたんですね」 松田は黙って頭を下げた。どうしても震えてしまう松田の肩を、奥野の父親が軽くつかんで揺すった。 「ありがとう、松田さん」 と奥野の父親は言った。松田は、顕微鏡室で自分の肩を叩いた奥野の手を思い起こしていた。やはり親子なんだなあと思った。 花や果物がたくさん捧げられた仏壇で、遺影の奥野は快活に笑っていた。
(3)
もし、失敗や悩みごとをだれにも相談したり打ち明けたりしたくないのだったら、いつもどおりに振る舞うほかない。いつもどおりに振る舞う気力がどうしても出ないのだったら、心にかかる事柄を思いきってだれかに相談したり打ち明けたりして、分け持ってもらうほかない。 元気をなくした様子を見せ、なおかつだんまりを決めこんだまま、周囲から心配を寄せられるばかりでは、大人だとは言えないはずだ。本村は自身をそう鼓舞する。……。だれかに助けを求めることは、決してかっこ悪いことではないし、自分の無力を表明することでもない。まっとうなコミュニケーションだ。むしろ、「こんな弱音や本音を言ったら、相手にどう思われるだろう」と縮こまり、寄せられる心配すら遮断して閉じこもってしまうほうが、よっぽど勇気がなく、周囲のひとの心を無視する行いだと言えよう。
(4)
「藤丸くんだったら、どうする」 と川井が言った。 藤丸さんは、研究や実験にはまるで詳しくないのに。本村は驚いた。どうして川井さんは急に、藤丸さんに意見を求めることにしたんだろう。岩間と加藤も、本村と同じ思いだったらしく、川井と藤丸に慌ただしく視線をやった。 藤丸だけは、さして驚いたふうでもなかった。発言を許されてうれしそうに、しかしこともなげに、「つづけるっすね」 と答える。 門外漢のはずの藤丸が、確信に満ちているのがどうしても解せず、最前以上の驚きに打たれもした本村は、「なんて言いきれるの?」 と、思わず丁寧語を忘れて聞いてしまった。
「デカパイができたとき、本村さんぱすごくうれしそうでしたよね」 藤丸は頬を掻いた。「そういう気持ちって、大事にしたほうがいいと思うっす」 「でも、遺伝子を取りちがえてしまったから、あれが狙いどおりの四重変異体かどうかは……」 「俺、ガキのころから料理を作るのか好きでした」 と、藤丸は真剣な表情になって言った。「最初は母親に教わったり、レシピ本を見ながら作ったりしてたんすけど、そのうちどんどん自分でアレンジするようになって。勘で調味料を入れたり、『この食材は合わないだろ』ってもんをぶちこんでみたり。そしたらますます、料理が楽しくなったんです。激まずなものができることもあったけど、思いがけないぐらいおいしいときもけっこうあって、うれしいしスリルがあるから」藤丸は一生懸命に、経験と実感に基づいてしゃべっていた。本村だけでなく川井たちも、藤丸の言葉に聞き入った。
「レシピ本に書かれたとおりに作って、予想したとおりの味になったときより、『こんな料理になった!』って意外なときのほうが、まずいもんかできたとしても、楽しいです。だから俺は、本村さんもこのまま実験をつづけてみたらどうかなと思うっす。うれしいとか楽しいって感じたんなら、結果が失敗でも後悔はしないっすよ。『また次、もっとおいしい料理を作ろう』って思いながら、俺は激まずの失敗作を食べる派です」 ま、俺の作る料理と本村さんがやってる実験とでは、難しさのレベルがちがうと思いますけど。藤丸は照れくさそうにつけ加えた。 「ううん」 と本村は首を振る。ううん、まったくちがわない。料理も実験も同じだ。予定どおりに実験を進めて、予想どおりの成功を得ることができるか。期日までに博士論文を提出できるか。そんなことばかりに気を取られてしまっていたけど、私がまちがってた。 実験に筋書きなんかない。研究に期日なんかない。 うっかりミスも含めて、目のまえで起きている事象を先入観なくよく観察し、誠実かつ公正に事実を記録しつづける。失敗しても工夫を重ね、この世界の理ににじり寄りつづける。自分の命が尽きる日まで、「どうして」と問いかけ、謎を追究しつづける。それが実験であり研究なんだ。
(4)
うっかりミスから、目論見とはちがう四重変異休らしき株を作ってしまったけれど。その子葉を見たときの喜び、「これだ」という確信を、無理に葬り去ることはしたくない。博士論文の提出期限も、研究成果も、いまはどうでもいい。偶然によって生まれた、あのデカパイを調べつくしてみせる。 覚悟をもって決めたことだったら、実験が完全なる失敗に終わったとしても後悔はしないだろう。 「直感をバカにしすぎてはいけないということです」 松田は椅子を立ち、鞄を手にした。「私の言う『直感』は、『神からの突然の啓示』といった類のものではありません。日々、愚直に観察をつづけているからこそ得られる直感なのです。本村さんは、もっと自信を持っていいと思いますよ」 衝立の向こうへ消えた松田に、 「ありがとうございます」 と、本村も立ちあがって頭を下げた。
(4)