ふるさと いしげ | 山と花と旅 Japan Alpine Flowersのブログ

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 石下小学校の始まり 今から150年年くらい前、明治6年ころ、本石下の興正寺で石下小学校が始まりました。尋常(じんじょう)小学校です。江戸時代の寺子屋で子どもたちを教えていたお経の漢字を読み書きできたお坊さん、祝詞を読み書きできた神主さん、長崎でシーボルトから蘭学などを学んだ武士、農民・商人・職人の中で新しい知識を得て、新しい日本を作るために、志を持って、尋常小学校の先生になった庶民(普通の身分の人)、さいほうなどを教えていた賢い女の人たちなどが、尋常小学校の先生になったと思われます。全員4年生で卒業。卒業後、多くの子どもたちは、家の仕事を引き継いだり、家の小さな畑や田んぼで働いたりしました。親元を離れ、東京や大阪などの大店(おおだな)で、丁稚奉公(でっちぼうこう)で働いた子どももいました。大店(おおだな)のご主人夫婦に認められ、お婿さんに入ったり、大番頭になったりした人もいました。そんな子どもたちは、奉公先や家の仕事を手伝いながら、お豆腐の作り方やお酒の作り方やお店の品物を笑顔で売るやり方や、田植えのやり方やきゅうりの育て方などを、大人たちから、学んだんですよ。自分でいろんなことをやりながら、うまくいかなかったり、うまくいって喜んだりしながら、いろんなことを身につけていったんですよ。学校で学ぶ知識だけでなく、日々の生活の中で、「体験を通して身につけた生きる力、体験を通して身につけた学力」を体得していったんですよ。大人になって、結婚し、懸命に働いて、子どもたちを育て、いろんなことを、子どもたちに教えていったんですよ。

 

2024年5月22日に、石下小学校の女性の先生がお2人。私の家に来ました。それで、この記事を作成しました。

「石下小学校跡地(あとち)(常陽銀行近くの空き地)の記念碑」がある場所に、私たちが登下校したころの石下小学校がありました。 重厚で大きく風格のある長い2階建ての校舎でした。玄関も大きく広く立派でした。その風格のある玄関前に「トベラ」と「キャラ」の木がありました。そのトベラは、今の小学校に移植されて、現在も、職員室と通用門の間の大きな石碑の近くにあります。「前の石下小学校の校舎の絵」が額に入って、校長室と玄関付近に飾られています。その額縁の絵にも校舎や玄関やトベラが描かれていますよ。100年以上と思われる株立ちのトベラ。根元付近の曲がりくねって太い幹のトベラ。明治初期から150年の歴史の石下小学校の隠れた「シンボル(象徴)」です。房総半島の海辺のあちこちに、トベラの木がたくさんあります。実生(種がこぼれて自然に生えた幼木)のトベラも無数にあります。石下小学校のトベラの古木は稀です。低木。常緑。病院などにはあるかもしれません。海辺の原生林のどこかにはトベラの古木があるかもしれません。

私たちの頃の石下小学校の絵 描いた方は上石下の斎藤さんと思われます。

 

南に隣接して石下中学校がありました。たしか70年前ころのある日、3年生か4年生のときです。中学校から煙と火の手が上がりました。教室から見えました。半鐘の早鐘がカーンカーンと鳴り響きました。中学生のお弁当を温める箱の中の炭火がお弁当を包んである布に燃え移ったのです。先生方が下校するように言いました。わたしたちは夢中で家に駆け戻りました。途中なん台もの消防車と出会いました。

 

私たちが中学生になると、今の石下紫峰高校のところにできた中学校に登下校しました。その後、石下中学校は、現在、本石下のトライアルの北にあります。                           

 

81歳。昭和18年生まれ。わたしが生まれたころの日本。第2次世界大戦。太平洋戦争。日本のゼロ戦は当時世界1の高性能。「日本ドイツイタリアの三国同盟」~「アメリカ・ソ連・中国・フランス・イギリスなどの全世界」との無謀(むぼう)な大戦争。「戦艦大和」(全長263メートル。幅39メートル。時速50KM。主砲46CM。)と「戦艦武蔵」は世界1の巨大軍艦。日本軍の「ゼロ戦」戦闘機は、世界最高の戦闘機。日本軍のハワイ真珠湾攻撃(1941年12月8日。大日本帝国山本五十六連合艦隊空母艦載機特殊潜航艇は、北の千島列島のエトロフ島付近から出撃し、ハワイのアメリカ連合艦隊に大打撃を与えました。日本軍は中国の満州・朝鮮・フイリピン・ベトナム・タイ・太平洋諸国の島国などを占領しました。占領された国々の人たちは、ひどい目に会いました。
 

 

世界1の経済力を誇るアメリカは「大きいB29新型戦闘機を大量生産」。世界1の戦艦ヤマトやムサシは沈没。「ゼロ戦もB29」に撃ち落とされました。日本各地に「B29爆撃機」が「焼夷弾じゅうたん爆撃」。東京は焼け野原。広島と長崎に「原子爆弾」。この戦争により日本人310万人が亡くなりました。多くの若者が戦死しました。私が2歳のときに日本軍無条件降伏。敗戦。平和な日本になりました。人々は貧しく食べるものがありませんでした。給食はありませんでした。お弁当は麦飯に梅干し1つ。お弁当を持ってこられなかった友だちもいました。

 

 

 平和な日本になりました。人々は貧しく食べるものがありませんでした。給食はありませんでした。お弁当は麦飯に梅干し1つ。お弁当を持ってこられなかった友だちもいました。わたしが通ったころの石下小学校。教室の白い壁にアメリカ軍の戦闘機銃撃による穴が幾つか開いていました。焼け野原になった東京上野。親が死んでしまった浮浪児が大勢いました。全国の広い道も砂利道。大人たちは自転車、バス、鉄道で通勤しました。テレビは無く、どの家でもラジオが楽しみでした。粗末なバラックで商いを始めた人たちがいました。その人たちの中には、その後、大きな商売を始めたり、会社を作ったりした人たちがいました。日本は少しずつ立ち直り始めました。

 

                               

 

どの家も貧しかった。わたしの西原集落で水道があったのは2軒だけ。庭に穴を掘った井戸がありました。つるべで水を汲み上げました。井戸に魚の鮒を入れてぼうふらを食べさせました。どの家にも大きな瓶がありました。砂と棕櫚の皮で水を漉して飲んでいました。

 

井戸さらい ときどき「井戸さらい」をしました。バケツで何回も水を汲み、空っぽにして、木のはしごで、井戸の底におり、泥を掻き出しました。その後、きれいな水が湧き出るのを待ちました。炭を入れ、消毒しました。

 

ガッチャンポンプ 少し裕福な家には、井戸の上に「手押しのポンプ」を取り付けました。

鉄でできた斜めの棒を上下に動かすと、ガッチャンガッチャンと音がしました。バケツや桶に簡単に水を汲むことができました。

 

敗戦後、今から77年前のころ、小学校6年、中学校3年の新しい学校が、全国で開校しました。合併前の石下小学校。わたしたちの学年は200人近い大人数。4クラス。1クラス50人近く。教室はぎゅうぎゅう詰めでした。靴を履いて登校する子どもはいませんでした。下駄か草履。体育は、冬もはだし。体育が終わると、下駄箱近くのコンクリートの流しで泥足洗い。冷たい。みんな、しもやけのかゆい足でした。

 

牛乳に似た飲み物 日本を占領したアメリカ軍がアメリカから脱脂粉乳を運んで「小学生に飲ませました。アルマイトのお椀に1人1杯。おいしかった。」

 

女の子の真っ白い髪の毛 女の子は全員頭の髪の毛が「アメリカのDDTという消毒薬の粉」で、ときどき真っ白になりました。シラミ退治のためでした。

 

石下小学校夏休みの「大洗磯浜の宿泊臨海学校」初めて見た太平洋の大海原。打ち寄せる波にひざまで入って「大はしゃぎ」。波にさらわれないように見守った先生方や付き添いのお父さんたち。波寄せ岩で見つけた蟹に感動。寝たのは磯浜小学校の教室。みんなで雑魚寝。板張りの床に古毛布1枚。かけ布団代わりに古毛布1枚。毛布はいしげから集めて磯浜に運んだのだと思います。戦後の貧しい日本。教育委員会にも家々にもほとんど無かったはずの予算とお金。こんな行事をやろうと発想し、実現した校長先生方や親たち。日本人は貧しくても、子どもたちに「こんなすばらしいことをしてくれました」。当時の校長先生が100キロも離れた大洗の磯浜小学校にお願いして借りた大事な磯浜小学校。よくも貸してくれました。食事は付き添いの有志のお母さん方。わすれえぬ思い出です。

 

 

6年生の日光旅行。バス。栃木県に入ると「いしげの家々と田んぼと畑ばかりの風景」とは一変。驚き、心はわくわく。東照宮。中禅寺湖。湯の湖。男体山。旅館に宿泊。驚きと感動の2日でした。やっぱりお米持参でした。

 

富士箱根2泊修学旅行 お米持参。初めて見た富士山・大涌谷の噴煙。みんなで雑魚寝した旅館。貧しかったけれど、親たちは、子どもの修学旅行の費用をなんとかしたのです。

 

 

石下中学校 私たちの頃は、今の高校のところにありました。西原から歩いて1時間。帰りも1時間。いしげでは、高校に行けたのは10人のうち3人か4人。10人のうち、6人くらいは、中学卒業後、家の畑や田んぼをやりました。都会に就職し辛い生活をし、やがて一人前になり、結婚し、一家を支えた同級生も少なくありませんでした。常総線で取手まで1時間。キャノンなどに就職し、やがて独立し、キャノンの下請け会社を設立し、多くの従業員を雇用する立派な同級生もいました。還暦前後にふるさとに帰ってきた同級生もいます。石下中学校のわたしたちの学年。卒業時は、4クラス。192人でした。教室は机と椅子でいっぱい。先生も生徒も教室内を歩くのが難しかったです。3年生のときには、高校受験のために、課外授業がありました。日暮れてお星様を見ながら暗い道を歩いて帰りました。石下中学校の生徒は学力が高く、西原集落には、東京大学合格者が、戦前に2名、戦後に2名います。

 

秋休み 私たちが中学生のころ、4日間の秋休みがありました。その頃は今のような農器具はありませんでした。田植えも稲刈りもそのほかの農作業も、手作業、足作業。人海戦術。中学生は貴重な働き手だったのです。稲こきはガーコンガーコン。足踏みで尖った鉄がついている円形の樽のような形のもので稲の実を落としたのです。全身わらごみまみれ。鼻もわらごみまぎれでした。

 

 

戦後復興 河畔砂丘林 十一面山(若宮戸山) 標高30メートルくらいの砂山が4列になって、白砂青松の里山でした。みんなでキノコとり。ハツタケ。1本シメジ。アミタケ。松露しょうろ。ごちそうでした。田中角栄首相当時。東京オリンピック前後。数年間。この河畔砂丘林の砂が昼夜ダンプカーで東京方面に運ばれました。競技場や道路やビルの建設に使われました。昼夜連続するダンプカーの地響き。眠れない夜が続きました。国道294号線が東にできて、ひどい騒音被害は落ち着きました。河畔砂丘林の十一面山は平らになってしまいました。

 

 今から60年前頃。私が高校生のころ。昭和20年頃。日本の人々の生活は、少し豊かになりました。食べ物もよくなりました。電気洗濯機、白黒テレビ、冷蔵庫が普及しました。日本全国の各駅の駅前通りには、いろんなお店ができて、にぎわいました

がちゃまん。いしげの結城織物業。絹と綿の糸を縦横に織った着物用の反物。ガチャガチャ機織り機を踏むたびに、1万円がもうかったと言われ、この言葉が生まれました。当時100軒以上の織物工場。貧しい暮らしから大金持ちの家が続出。日本全体でもトランジスタ小型ラジオやオートバイやテレビや電気洗濯機や自動車などを世界じゅうに輸出。日本人は懸命に働き、世界でも1番か2番の裕福な金持ちの国になりました。

世界1の好景気 1986年。昭和61年。38年前から4年間。日本は世界1豊かな国になりました。バブル経済です。大きな会社がたくさん出現。高い給料。1年間に3度の高いボーナス。スキー。ゴルフ。日本各地への旅行。海外旅行で爆買い。立派な家。都会の大きなきらびやかなデパート。高級品が売れました。若者はディスコで、踊り続けました。あり余るほどのおいしい食べ物。日本人は世界がうらやむ贅沢な生活をしてたいました。

バブル崩壊 今から33年くらい前。平成3年。日本の経済は落ち込みました。多くの会社が倒産。就職氷河期。株価や土地が大暴落。バブル崩壊です。その後、日本の経済は10年以上、元気がなくなりました。

「今は」 広い駐車場がある郊外の大型店 都会の郊外や幹線道路の広い空き地や田んぼや畑に、大きなスーパーやホームセンターやドラッグストアやファミリーレストランやコンビニがたくさんできました。お客さんが大勢で大にぎわいです。都会には高層の高級マンション。全国の駅前通りのお店は少なくなりました。日本の人口が減り始め、働き手が少なくなり、介護施設や工場などで働く外国人が増え始めています。

日本は世界1安全で文化的で親切なおもてなしの国 今、日本は愛され尊敬される国 新幹線。高速道路。決まった時間に到着する鉄道。京都・奈良・鎌倉・日光などの寺院。清潔な大都会。春、日本どこに行っても桜が満開。秋、モミジやツツジの紅葉。なくしたお金やスマホが返ってくる国。富士山や渓谷などの美しい風景。世界じゅうから観光客が日本に押し寄せてきています。

 

大雪山

 

尾瀬 三条の滝

沖縄 ヤンバルの渓谷


我が国の総人口 令和3年10月1日現在 1億2,550万人
65歳以上の人口 3,621万人 
13年間減り続けています。1年に60万人~80万人。
小学生の皆さんは「日本の宝」「好きな道」「得意な道に進んでください。」

認知症患者。500万人。散歩に出かけて自分の家に帰る道を忘れてしまう行方不明者。
1万8709人。

「ふるさといしげパート2」に続きます。

https://ameblo.jp/h26matsue8kaoru22
上をクリックしてください。高山植物や登山の画像が満載です。
Please click above. It’s full of images of alpine plants and mountaineering.

 


 

ふるさと石下近くには、博物館などが、幾つかあります。小学生や中学生のときに、おうちの人に連れていってもらうといいですよ。
 

常陸風土記の丘 ひたちふどきのおか 石岡市染谷1646
石器時代 石器 1万5千年前から年前
縄文時代 1万年くらい続きました。
縦穴式住居たてあなしきじゅうきょ
縄文土器縄文土器
  
縄文時代の関東平野 気温があたたかく南極北極ヒマラヤの氷がとけて、
海水が高くなった時代。縄文海進。じょうもんかいしん。4千年前。関東平野の半分は海。水海道と石下は海辺。鬼怒川河畔林砂山に今も残っている「ハマナス」。紫色のきれいな花。4千年前に海辺だったことの生きた化石です。

ミュージアムパーク茨城県自然博物館
大きな恐竜の化石がありますよ。 板東市大崎700番地

霞ヶ浦環境科学センター
関東平野や霞が浦の成り立ちなどがわかりますよ。
4千年前。縄文海進のときの関東平野。
土浦市沖宿町1853



平将門銅像 常総市向石下121
平将門生誕の地 豊田館跡 とよだやかたあと

蛇沼古戦場 常総市豊田1880

江戸時代の4つの石下 
本石下 名主 新井五郎左衛門 惣名主 石下小玄関に寄贈の額が飾られています。
中石下 名主 八右衛門  石下城家老 八幡様創始者
新石下 名主 孫兵衛 西福寺南の道路の南側 孫兵衛代々の石塔
上石下 名主 作左衛門

長塚節生家
小説「土」当時の農民の生活を描写
鬼怒川を夜更けて渡る水竿の遠く聞こえて秋たけにけり
うまおひのひげのそよろに来る秋はまなこを閉じておもひみるべし
常総市国生11

鬼怒川洪水 2015年9月10日 2つの台風 線上降水帯
河畔砂丘林十一面山から越水 三坂町で堤防決壊
ヘリコプターで救助

 わたしの家の車庫

                                     和歌山県から来てくれたボランティアの人たち
 

今の日本 長生きの国になりました。日本の長寿社会 女性が87歳 男性は81歳

第1の人生は60歳ころまでです。好きな道や得意な道に進んでください。
いろんな失敗や辛いことなどが、だれにもあります。それを乗り越えていってください。

第2の人生は、60歳から99歳ころまでです。好きな道な得意な道に進んで、幸せになってください。99歳まで、心もからだも健康に過ごせるように、毎日くふうして生活してください。


石下の自由教育 大正時代に石下では、「自由教育」が行われました。この流れが、戦後の石下町の教育にかなりの影響を及ぼしました。「児童の生活を児童の言葉で綴る作文教育」です。現在でも、茨城県の多くの小中学校の図書館に、当時の児童・生徒の作文集の本があるはずです。これらの作文を読むと、ためになりますよ。「絵日記」に添える文章も上手になりますよ。

 

頭がよくなる方法 歩いて汗をかく。スポーツで汗をかく。おうちの手伝いで汗をかく。汗をかくと体の中の血のめぐりがよくなり、頭がよくなり、学校の成績がよくなりますよ。絵本や物語を読む。図鑑は1ページ見るだけで1冊読むほどのねうちがありますよ。本を読むと頭がよくなりますよ。やってみると頭がよくなります。虹を見る。子猫にさわる。野菜を食べる。小鳥の鳴き声を聞く。焼き芋の匂いをかく。なにかを感じる。

 

「生きる力」とは「体験を通して身につけた能力」

 

「学力」とは「体験を通して身につけた能力」

「学力」とは「身につけた知識」

「学力」とは「身につけた複数の知識を組み合わせて新しい知識を得ること」

 

大人は、幼児の興味関心を察知して褒めてあげる。

大人は、幼児の興味関心を察知して、お話してあげたり、図鑑を見せたりする。

大人は、幼児の興味関心を察知(例 蝶やトンボ)して、野原や土手などに連れて行く。

「言葉と知識と体験」の一体化


我が国の総人口 令和3年10月1日現在 1億2,550万人
65歳以上の人口 3,621万人 
13年間減り続けています。1年に60万人~80万人。
小学生の皆さんは「日本の宝」「好きな道」「得意な道に進んでください。」

認知症患者。500万人。散歩に出かけて自分の家に帰る道を忘れてしまう行方不明者。

1万8709人。

 

「ふるさといしげパート2」に続きます。

国破れて山河あり。

敗戦後の日本で、私たちが過ごした日々や遊びなど。

 

私は高齢者です。書いてないことはすぐに忘れてしまいます。お金。自動車の鍵。メガネ。いろんなものを忘れたり、無くしたりしています。そこで、忘れないように、必要なことをあちこちに書いて貼ってあります。その書いたものを見て、毎日、ホームページやブログをやって、痴呆を遅らせようとしています。「忘れたこと」や「わからないこと」は、パソコンに聞きます。するとパソコンがなんでも教えてくれます。私は、入退院を繰り返していて、手術で心臓内に人口血管のステントをなん回も入れてもらっています。左心房と右心房をつなぐ全ての特殊な線が全部切れていて(心臓の左脚異常)、左右の心臓がばらばらに動いているので、睡眠時には1晩に1回、49秒も呼吸が停止しています。10秒間の呼吸停止は1晩に200回です。病院のお医者さんから、電動で動く鼻から心肺や血管に空気(酸素)を送り続ける装置を頭に装着して、就寝しています。ですので、眠っているときに突然死んでしまう危険は少なくなっています。心臓の薬を毎日7錠飲んでいます。IPS細胞で心臓病をなおす治療も始まっています。午前中3時間くらいは、所有地の平地林で樹木や草花の手入れや電動草刈り機で草刈りなどをしています。汗をかきます。帰宅してお風呂に入ります。血流がよくなり気持ちがよくなります。心がけて、普通に近い生活を続けています。幸せなことに、筑波市には優れた幾つかの大病院に、優秀なお医者さんたちがたくさん勤務されています。あと7年くらいは普通に近い生活を続けて、88歳まで生きたいです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

475年前。フランシスコザビエル来日。中世日本の教育が進んでいたことは、戦国時代に来日した宣教師の言葉からもわかります。フランシスコザビエルは「大部分の人々は、男性も女性も読み書きができ、特に武士や商人は際立っている」と本国への手紙に書いています。ルイスフロイスは島原を訪れたときに「この地の男子・女子はほとんどみな読み書きを知っている」と識字率の高さに驚いています。読み書きばかりではなく、庶民も男女を問わず和歌や連歌、漢詩の素養を身につけていたことは、狂言や御伽草子などの史料から読み取れます。

 

江戸時代 今から400年前ころから150年前ころまで。日本人の教養は、世界的にも高く、庶民の8割が、「読み書きそろばん」ができたのです。「僧侶、神官、武士、庶民、裁縫などを教えた女たち」が開いた寺子屋で学んだのです。明治の初め頃にできた「尋常小学校」は、寺子屋のいしづえがあって、できたとも言えます。女性は、家族の着る着物などを自分で縫うことができたのです。日本人と今日本に住んでいる外国の人は、日本と母国に誇りを持ってください。1853年と1854年に黒船(アメリカ艦隊)を率いて日本に開国をせまったペリー提督の驚き。日本人の熱心な知識欲。好奇心。観察力。よみかきそろばん。職人の高度な技術力。知性。教養。礼節。