ふるさと石下いしげpart2 | 山と花と旅 Japan Alpine Flowersのブログ

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 ふるさと石下いしげpart2

81歳。 昭和18年生まれ。 わたしが生まれたころの日本。 第2次世界大戦。 太平洋戦争。 日本のゼロ戦は当時世界1の高性能。 「日本ドイツイタリアの三国同盟」~「アメリカ・ソ連・中国・フランス・イギリスなどの全世界」との無謀(むぼう)な大戦争。 「戦艦大和」(全長263メートル。 幅39メートル。 時速50KM。 主砲46CM。 )と「戦艦武蔵」は世界1の巨大軍艦。 日本軍の「ゼロ戦」戦闘機は、世界最高の戦闘機。 日本軍のハワイ真珠湾攻撃(1941年12月8日。 大日本帝国山本五十六連合艦隊。 航空母艦6隻。 空母艦載機350機。 魚雷攻撃用特殊潜航艇5隻。 、オホーツク海。 千島列島エトロフ島付近から出撃。 ハワイのアメリカ連合艦隊に大打撃を与えました。 日本軍は中国の満州・朝鮮・ミャンマー、カンボジア、インドネシア、フイリピン・ベトナム・タイ・太平洋諸国の島国などを占領しました。 占領された国々の人たちは、ひどい目に会いました。 (山本五十六の言葉 やってみせ、言って聞かせて、させてみて、誉めてやらねば、人は動かじ。 )

世界1の経済力の超大国アメリカ。 国土も広大。 石油、石炭、鉄鉱石など、たくさん産出。 「航空母艦」や「大型潜水艦」や「大きいB29新型戦闘機」を大量生産」。 日本軍のなん倍も作り続けました。 日本軍は全国のお寺の鐘を強制供出させ。 航空母艦や戦闘機など製造しました。 アメリカは特に戦闘機などを重視して大量生産。 日本軍は軍艦を重視して生産。 世界1の戦艦ヤマトやムサシは、航空母艦から発進した高性能の戦闘機「B29」から連続して攻撃され、沈没。 ゼロ戦もB29に撃ち落とされました。 日本各地に「B29爆撃機」が「焼夷弾じゅうたん爆撃」。 東京は焼け野原。 広島と長崎に「原子爆弾」。 この戦争により「日本人310万人」が亡くなりました。 多くの若者が戦死しました。 親のいない孤児も大勢できました。

私が2歳のときに、日本軍無条件降伏。 2歳ですから、その当時の日本の様子はもちろん記憶にありません。 しかし、敗戦後、未就学児時代、小学校時代と、大人も子どもも、飢えに苦しんでいました。 私は、食料不足のひどい生活の生き証人の1人です。 戦争の無い平和な日本になりました。 そのころの日本に、給食はありませんでした。 お弁当は麦飯に梅干し1つ。 お弁当を持って来られなかった友だちもいました。 わたしが通ったころの石下小学校。 教室の天井近くの白いしっくいの壁にアメリカ軍の戦闘機銃撃による穴が幾つか開いていました。 焼け野原になった東京上野には、親が死んでしまった浮浪児が大勢いました。 全国の広い道路も砂利道。 大人たちは自転車、バス、鉄道で通勤しました。 テレビは無く、どの家でもラジオが楽しみでした。 上野などの粗末なバラックで、商いを始めた人たちがいました。 その人たちの中には、その後、大きな商売を始めたり、会社を作ったりした人たちがいました。 日本は少しずつ立ち直り始めました。

凍てつく真冬の満天の星空

 

わたしが小学校5年生のある日。 家に帰ると、昼はいないはずの父親が、母親を抱きしめていました。 母親は小さくなって泣いていました。 母親が癌になったことがわかったのです。 次の日から、母親は入退院を繰り返し、3年後、わたしが中学2年生のときに、43歳で死んでしまいました。 2人の兄は、大学生。 長兄は東京本郷の大学生。 三鷹市のお金のかからない学生寮に。 次兄は水戸市の大学生。 お金のかからない学生寮に住んでいました。 母親の死後、2人の兄は、いろんなアルバイトをして、家からの仕送り無しで卒業しました。 父親は仕事と母が入院している病院で、母が入院中も、死んだ後も、特に昼間は、親が家にほとんどいない生活が続きました。


わたしは、未明。 星がまたたいているうちに、朝早く起きました。 なんにも言わないのに、2つ下の弟も起きてきて、手伝いました。 私は必死で、そんなに辛くありませんでした。 それよりも、小学生の弟が不憫でした。 中学生なのに私は、弟の母親代わりに近い気持ちでした。 庭の井戸から水を汲んで、土間の台所に運びました。 1時間かけて、土間のかまどでご飯炊き。 紙くずや庭の木切れでごはん炊き。 「はじめちょろちょろ。中ぱっぱ。 赤ちゃん泣いても蓋とるな。」 少しいもらせてから、つばつき鉄釜の木製の大きな蓋を開け、朝食とお弁当作り。 学校から帰ると、隣接する江連用水のきれいな水や(当時は驚くほどの清流。 霞が浦水系の色鮮やかなタナゴなどいっぱい泳いでいました。 )庭の井戸からつるべで汲み上げた水を木製のたらいに入れ、洗濯。 洗濯物干し。 庭の井戸から水を汲んだバケツ2つ。 両手に持って家の中の風呂水運び。 紙くずや庭の木切れで1時間かけてお風呂わかし。 それから夕食作り。 麦飯。 ウドン。 ウドン粉をこねて小さいだんごにした味噌のスイトン汁。 ご飯粒をまぶしたさつまいも。 じゃが芋。 スーパーやコンビニやテレビはありませんでした。 庭の生け垣の山芋を掘っておかづにしたこともあります。 鬼怒川で釣ったヤマベやナマズはごちそうでした。 ある日、仕事で忙しいはずの父親が、わたしたち2人の子どもを連れて、遠くの水田の間を流れる用水まで連れていってくれ、アメリカザリガニを大きなバケツいっぱいとって帰りました。 庭でゆでました。 毎日空腹だったので、たらふく食べました。 今のイセエビよりも、おいしかったです。 偉丈夫で威厳のある忙しい父親が、私たち2人の子どもとザリガニ取り遊びをしてくれたので、うれしかったです。 食用ガエルやアカガエルをつかまえてきて、庭で焼きました。 少しばかりのもも肉をカリカリ食べました。 小学校1年生から夏休みは鬼怒川で泳いだり、ヤマべをつったりして過ごしました。 岸の浅瀬の大きな石の下にウナギがいました。 三角網を石の下に置き、石をひっくり返すと、うなぎが砂にもぐっていて、頭だけを出していました。 ウナギはさっと逃げて、三角網に入り、とれることがありました。 2メートルくらいの青しの竹に2メートルくらいの釣り糸を結び、その釣り糸のさきっちょに、毛針をつけます。 横一線に、20本くらい、つきさして置きます。 浅瀬の急流に、毛針はぴょんぴょん飛びはねます。 20分ごとに、見回ります。 大きいヤマベやハヤなどが、小ザルいっぱいとれるときもありました。 雄のヤマベは大きく色彩豊かでしたが、骨だらけでおいしくありませんでした。

雄のヤマベ
メスのヤマベは白っぽく、やわらかく、おいしかったです。 うすぐらい早朝と夕方にたくさんとれました。 家にアンズの木と梅の木がありました。 アンズは酸っぱかったがおいしかった。 梅の実の赤みが出て熟するまで待ちきれず、生で梅の実を食べたら、体調が急変して寝込んだこともあります。 近くの親戚の家には柿の木がたくさんあり、甘柿がたくさんなりました。 「凍てつく夜の満天の星空」の下,家事をやった66年前ころをときどき思い出します。 小学生だった弟は、11年後、静岡薬大を卒業し、武田薬品に職を得ました。 私が小学生のとき、伊豆下田生まれの母親の親が死んだとき、一家で葬式のために、伊豆下田に行きました。 熱海からバスに乗り換えて、砂利道を揺られながら、母の実家に行きました。 山裾から続く青い海原。 バスの窓から手が届きそうなみかんの実。 遺影が飾られている葬儀のなん段かにバナナがありました。 生まれて初めて見るバナナ。 わたしたち兄弟をかわいがってくれた母の兄。 バナナを1本取って「ゆきお、食べな。」小学生のときに食べた1本のバナナ。 夢のようでした。 中学生のときの運動会の前夜。 東京から帰省していた長兄。 「ゆきお、あしたの運動界でなにが食べたいか?」「 チョコレート」と言ってしまいしました。 翌日の運動会。 長兄が笑いながらチョコレートを買って持ってきてくれました。 「中学生のときに初めて食べた夢に見た板チョコレート。「仕送り無しの大学生の長兄に悪いことを言ってしまった。」 と後悔しました。

 

都会では塾に行って勉強したりする人もいるんだろうな。」 と、家の仕事やいろんな遊びをしていた私は、焦ってもいました。 そのころ、いしげを含めて、大都会以外に、塾はありませんでした。 どの家も貧しかったので、塾に行く子どもはほとんどいませんでした。 いずれ大学に行きたかったわたしは、全国の同級生に負けないようにと、授業などで、がんばってもいました。 親が高校に行かせたくてもお金が無いからどうなるんだろうとも心配していました。 どの家にも子ども用の本などはありませんでした。 いしげ小学校3年生のときに、わたしは、図書館の本を全部読んでしまいました。 (辞書などを除いて)小学生のみなさん、ものがたりを読むと、心が豊かになりますよ。 「蜘蛛の糸」とか「ごんぎつね」とか「走れメロス」などの短い物語は、20分くらいで読み終わりますよ。 図鑑を開いて、川にはどんな魚がいるかわかると、知識が増えますよ。 図鑑の場合は、1ページ読んだだけでも、1冊を読んだ価値がありますよ。 遠くから学校に歩いて通うと、からだがあたたまり、血のめぐりがよくなり、頭がよくなりますよ。

 

子どもの遊び チンチロリン 松虫 鬼怒川の土手の斜面。 ところどころに小さな草むらがありました。 草むらの下にふろしきくらいの古布か紙をしきます。 草むらをその上に倒します。 ちんちろりん松虫が2匹とれました。

子どものころの遊び 「びーだま。」「ベーゴマ」だれかの家の庭で、10人以上集まって、勝ったり負けたりしました。

近くの大人が「夜の十一面山」に、こどもたち数人を連れていってくれたことがあります。 ろうそくの火で明るくなった提灯(ちょうちん)を、1人1人ぶら下げて。 ガチャガチヤ、クツワムシ。 リーンリーン、スズムシ。 スゥーイッチョ、ウマオイ。 不気味で、怖くて、楽しかった一夜(ひとや)でした。

どの家も貧しかった。 わたしの西原集落で水道があったのは2軒だけ。 庭に穴を掘った井戸がありました。 つるべで水を汲み上げました。 井戸に魚の鮒を入れてぼうふらを食べさせました。 どの家にも大きな瓶がありました。 砂と棕櫚の皮で水を漉して飲んでいました。 ときどき「井戸さらい」をしました。 ひもでつるしたバケツで、何回も水を汲み、空っぽにして、木のはしごで、井戸の底におり、泥を掻き出しました。 その後、きれいな水が湧き出るのを待ちました。 炭を入れ、消毒しました。

ガッチャンポンプ 少し裕福な家には、井戸の上に「手押しのポンプ」を取り付けました。 鋳造された斜めのハンドルをを上下に動かすと、ガッチャンガッチャンと音がしました。 バケツや桶に簡単に水を汲むことができました。

牛乳に似た飲み物 日本を占領したアメリカ軍がアメリカから脱脂粉乳を運んで小学生に飲ませました。 アルマイトのお椀に1人1杯。 おいしかった。 私はひどい栄養失調にもならずにすみました。

女の子の真っ白な頭 女の子は全員頭の髪の毛が「アメリカのDDTという消毒薬の粉」で、ときどき真っ白になりました。 シラミ退治のためでした。

大洗臨海学校 石下小学校夏休みの「大洗磯浜の宿泊臨海学校」。 初めて見た太平洋の大海原。 打ち寄せる波にひざまで入って「大はしゃぎ」。 波にさらわれないように見守った先生方や付き添いのお父さんたち。 波止め岩で見つけた蟹の群れに感動。 寝たのは磯浜小学校の教室。 みんなで雑魚寝。 板張りの床に2人に1枚の古毛布。 かけ布団代わりに2人に1枚の古毛布。 友だちと身を寄せ合って寝ました。 毛布は先生方の家や親たちの家から集めて磯浜に運んだのだと思います。 戦後の貧しい日本。 教育委員会にも家々にもほとんど無かったはずの予算とお金。 こんな行事をやろうと発想し、実現した第2代校長先生。 先生方や親たち。 日本人は貧しくても、子どもたちに「こんなすばらしいことをしてくれました」。 当時の校長先生が100キロも離れた大洗の磯浜小学校にお願いして借りた大事な磯浜小学校。 よくも貸してくれました。 食事は付き添いの有志のお母さん方。 いしげから運んだお米や梅干しや畑でとれた野菜。 私はふるさと石下が大好きです。


6年生の日光旅行。 ボンネットバス。 栃木県に入ると「いしげの家々と田んぼと畑ばかりの風景」とは一変。 驚き、心はわくわく。 東照宮。 中禅寺湖。 湯の湖。 男体山。 旅館に宿泊。 驚きと感動の2日でした。 児童1人当たり3合のお米持参でした。

今から150年年くらい前、明治6年ころ、本石下の興正寺で石下小学校が始まりました。 尋常小学校です。 全員4年生で卒業。 卒業後、多くの子どもたちは、家の小さな畑や田んぼで働きました。 親元を離れて丁稚奉公などで働いた子どももいました。 子どものうちから働いた当時の子どもたち。 働きながら、いろんなことを学んだのですよ。 学校で教える知識だけで無く、実際に役立つ「体験を通して身につけた能力。」そうして大人になって、結婚し、働いて、子どもたちを育てたのです。

無条件降伏の敗戦後。 今から77年前のころ。 小学校6年、中学校3年の新しい学校が、全国で開校しました。 合併前の石下小学校。 わたしたちの学年は200人近い大人数。 4クラス。 1クラス50人近く。 教室はぎゅうぎゅう詰めでした。 靴を履いて登校する子どもはいませんでした。 下駄か草履。 体育は、冬もはだし。 体育が終わると、下駄箱近くのコンクリートの流しで泥足洗い。 冷たい。 みんな、しもやけのかゆい足でした。

中学3年生の富士箱根2泊修学旅行 生徒1人当たり3合のお米持参。 初めて見た富士山・大涌谷の噴煙。 みんなで雑魚寝した旅館。 貧しかったけれど、親たちは、子どもの修学旅行の費用をなんとかしたのです。 貧しくて参加できなかった同級生がいたかもしれません。 生徒1人当たり3合のお米持参でした。 薄利でも子どもたちを宿泊させてくれた旅館。 やかで大きく立派な旅館やホテルになっていきました。


秋休み 稲刈りのころ、「秋休み」が4日間くらいありました。 中学生は、稲刈りや畑仕事や家事などをしたのです。 天日(てんぴ)干しのおいしいお米。 「ガーコンガーコン」足踏みで回転させ、稲の実を落とした農作業。



石下中学校 私たちの頃は、今の高校のところにありました。 西原から歩いて1時間。 帰りも1時間。 いしげでは、高校に行けたのは10人のうち3人か4人。 10人のうち、6人くらいは、中学卒業後、家の畑や田んぼをやりました。 都会に就職し辛い生活をし、やがて一人前になり、結婚し、一家を支えた同級生も少なくありませんでした。 常総線で取手まで1時間。 キャノンなどに就職し、やがて独立し、キャノンの下請け会社を設立し、多くの従業員を雇用する立派な同級生もいました。 還暦前後にふるさとに帰ってきた同級生もいます。 石下中学校のわたしたちの学年。 卒業時は、4クラス。 192人でした。 教室は机と椅子でいっぱい。 先生も生徒も教室内を歩くのが難しかったです。 3年生のときには、高校受験勉強のために、課外授業がありました。 熟が無かった時代。 先生方が放課後におまけの授業をしてくれたのです。 日暮れてお星様を見ながら暗い道を歩いて帰りました。 石下中学校の生徒は学力が高く、西原集落には、東京大学合格者が、戦前に2名、戦後に2名います。

戦後復興 河畔砂丘林 十一面山(若宮戸山) 標高30メートルくらいの砂山が4列になって、白砂青松の里山でした。 みんなでキノコとり。 ハツタケ。 1本シメジ。 アミタケ。 松露しょうろ。 ごちそうでした。 田中角栄首相当時。 東京オリンピック前後。 数年間。 この河畔砂丘林の砂が昼夜ダンプカーで東京方面に運ばれました。 競技場や道路やビルの建設に使われました。 昼夜連続するダンプカーの地響き。 眠れない夜が続きました。 国道294号線が東にできて、ひどい騒音被害は落ち着きました。 河畔砂丘林の十一面山は平らになってしまいました。

がちゃまん。 いしげの結城織物業。 絹と綿の糸を縦横に織った着物用の反物。 ガチャガチャ機織り機を踏むたびに、1万円がもうかったと言われ、この言葉が生まれました。 当時100軒以上の織物工場。 貧しい暮らしから大金持ちの家が続出。

空前の好景気 日本全体でもトランジスタ小型ラジオなど電化製品や自動車などを世界じゅうに輸出。 日本人は懸命に働き、世界でも1番か2番の裕福な金持ちの国になりました。 高額の給料。 高額のボーナス。 「追加の差額支給で事実上3度目のボーナス支給。 高校生も大学生も全員就職。 デパートで高級品を購入。 スキー場やゴルフ場は大にぎわい。 レストランで贅沢な食事。 ディスコで踊り続けた若者たち。 ニューヨークの超高額の高層建築などを買った日本の会社。

バブル崩壊 今から33年くらい前、日本の経済は落ち込みました。 バブル崩壊です。 その後、日本の経済は少し元気がなくなりました。 高校生や大学生も就職が難しかった。

日本は愛され尊敬される国 新幹線。 高速道路。 決まった時間に到着する鉄道。 京都・奈良・鎌倉・日光などの寺院。 清潔な大都会。 春、日本どこに行っても桜が満開。 秋、モミジやツツジの紅葉。 なくしたお金やスマホが返ってくる国。 富士山や渓谷などの美しい風景。 世界じゅうから観光客が日本に押し寄せてきています。

尾瀬ヶ原 至仏山  ミズバショウ

奄美大島 タンギョの滝


今の日本 長生きの国になりました。 日本の長寿社会 女性が87歳 男性は81歳

第1の人生は60歳ころまでです。 好きな道や得意な道に進んでください。
いろんな失敗や辛いことなどが、だれにもあります。 それを乗り越えていってください。

第2の人生は、60歳から99歳ころまでです。 好きな道な得意な道に進んで、幸せになってください。 99歳まで、心もからだも健康に過ごせるように、毎日くふうして生活してください。

石下の自由教育 大正時代に石下では、「自由教育」が行われました。 この流れが、戦後の石下町の教育にかなりの影響を及ぼしました。 「児童の生活を児童の言葉で綴る作文教育」です。 現在でも、茨城県の多くの小中学校の図書館に、当時の児童・生徒の作文集の本があるはずです。 これらの作文を読むと、ためになりますよ。 「絵日記」に添える文章も上手になりますよ。

頭がよくなる方法
歩いて汗をかく。
スポーツで汗をかく。
おうちの手伝いで汗をかく。
汗をかくと体の中の血のめぐりがよくなり、頭がよくなり、学校の成績がよくなりますよ。
絵本や物語を読む。
図鑑は1ページ見るだけで1冊読むほどのねうちがありますよ。
本を読むと頭がよくなりますよ。
やってみると頭がよくなります。
虹を見る。
子猫にさわる。
野菜を食べる。
小鳥の鳴き声を聞く。
焼き芋の匂いをかく。
なにかを感じる。
「五感と第6感」を働かせる。

「生きる力」とは、体験を通して身につけた能力」
「学力」とは「体験を通して身につけた能力」
「学力」とは「身につけた知識」
「学力」とは「身につけた複数の知識を組み合わせて新しい知識を得ること」
大人は、幼児の興味関心を察知して褒めてあげる。
大人は、幼児の興味関心を察知して、お話してあげたり、図鑑を見せてあげたりする。
大人は、幼児の興味関心を察知(例 蝶やトンボ)して、野原や土手などに連れて行っていっしょに遊ぶ。
「言葉と知識と体験」の一体化

国破れて山河あり。
日本人は戦争で壊滅的な被害を受け焼け野原となった日本から世界史上例のない復興を遂げて、今日に至っています。

水死の危険 中学3年生から小学校1年生まで、10人くらいから20人くらいまでいっしょになって遊びました。 中学3年生は「ガキダイショウ」 夏休み 鬼怒川でのいろんな遊び。 真っ白い砂浜が広がっていました。 土手の下ではだしになります。 焼けた砂浜を「あっちっちっ」とさけびながら、本流の水辺までかけ足で行きました。 当時の鬼怒川は、ひざくらいの浅瀬の急流と2メートルくらいの淵が、交互に、繰り返して流れていました。 こちら側から向こう岸まで、歩いて渡れるときもありました。 ある日のこと、浅瀬と思われるところで泳いだりしてみんなで遊んでいました。 小学校3年生だったわたしが、覚えたばかりの泳ぎをしていたら、足が川底につかなくなってしまいました。 あせって手足でもがいていました。 口から川水が入ってきました。 溺れたのです。 「死ぬのかなあ。」とよぎったそのとき、「ゆきおがおぼれてる。」 中学生のだれかが、おぼれている自分を、ひょいっと抱え上げて、浅いところまで、運んでくれました。 助けてくれた同じ集落の中学生の名前も顔も覚えていません。 同級生の女の子が夏休みに鬼怒川で溺れ、悲しいことになったこともあります。 その当時、数年に1人くらい、鬼怒川で溺れて、悲しいことが起きていました。 消防団が出て、さがし回りました。 貧しく、子だくさんの当時の日本。 大人たちは、働くことにせいいっぱいで、子どもたちに毎日、目を届かせるのは、できなかったのです。 子どもたちは、みんな勝手に遊んで、夏休みや冬休みは、自由に暮らしていました。 小学生の皆さん。 登下校ちゅうに、風で帽子が飛ばされて、近くの川に落ちたら、流れに入って、溺れて、流されて、死んではいけませんよ。 生きていれば帽子などは「いっばい買えますよ。」「命より大事なものはありませんよ。

わたしが好きなもの
山や川の自然 除草剤のまいてない荒れ地
入っていけない「がさやぶ」
鬼怒川堤防上、石下橋近く。 23kmの標識。 河口からの距離。
興正寺付近から鬼怒川堤防上の標識24kmk付近までの雑木林。
クルミの高木がたくさんあります。 クリの実が落ちるころ、数百のクルミの実が落ちていますよ。
桑の木がたくさんあります。 赤い桑の実がいっぱいついた枝を切り落として食べました。
笹やヨシや蔓草で入れません。 キジやコジュケイが子育てをしています。 菌類もあると思います。

 

最近イタチをみかけます。 キジやコジュケイの雛を食べているかも。 心配しています。

我が国の総人口 令和3年10月1日現在 1億2,550万人
65歳以上の人口 3,621万人
13年間減り続けています。 1年に60万人~80万人。
小学生の皆さんは「日本の宝」。 好きな道や得意な道に進んでください。

皆さんは「日本の宝」。 好きな道や得意な道に進んでください。