地震
LIVEでテレビに写しだされる津波の猛威にただ口をあけて呆然としている自分がいた。見る見るうちに家や車を巻き込んで進む津波の物凄さに、人間の無力さを痛感した人は多かったのではないだろうか。
女房の実家が福島なので電話をさせたが当然つながらない。23:00頃になってようやくつながった。女房の弟夫婦と母親が一緒に住んでいるが、義弟も勤務先で地震に遭遇、すぐに自宅に連絡したがやはりしばらくつながらず、50回くらい架けてようやくつながったらしい。
帰宅すると、築50年増築数年の家屋は瓦が100枚ほど地面に落ち、壁が3箇所破れ、棚類は倒れ食器等が散乱していたが、人に怪我はなかったとのこと。少しほっとした。
しかし余震が続いているので、母屋では寝れず、とりあえず安全そうな空き地の車の中で3人とも寝た由。
女房が食料、毛布、ホカロン等を買い福島へ送ろうとしたが、どの運送会社も東北方面への配送は中止していて送れない。
ただ心配するだけ、何も出来ない。
速やかな公的援助を望むばかり。
テレビに出る菅総理、枝野官房長官、信用できない面子ばかりだが、他に頼るすべはない。
司馬遼太郎「ひとびとの跫音」
司馬遼太郎「ひとびとの跫音」を読み終えた。
主人公は「坂之上の雲」の子規の養子になった正岡忠三郎とそのまわりのひとびと。たとえばタカジは共産党員で戦後のパージで逮捕入獄し、出所後共産党からも除名されながら、その得意なキャラクターは終生変わらず、自分が成すべき事と考えている事を成し遂げようとする。
司馬氏得意のエピソードが淡々と積み重ねられていって、なんともなしに終わる。
最後の「誄詩」という稿で
「筆者なりに考えていた主題が、どうやら尽きたと感じている。
が、気分のほうは、まだはれるにいたらない。
この稿の主題は、子規の「墓碑銘」ふうの、ごく事歴に即したリアリズムでいえば、「子規から『子規全集』まで」というべきものであったとかと思っている。しかし私自身についていえば、すでにふれたように、忠三郎さんとタカジというひとたちの跫音を、なにがしか書くことによってもう一度聞きたいという欲求があった。そのことでの気分はまだおさまっていないのである。」
と書いている。
読み終わってのこのたとえようもない満ち足りた充足感はどこから来るのか不思議でならない。
登場人物はみなひとすじ縄でいかない強烈な個性の持ち主ばかり。にもかかわらず、それぞれがお互いを思いやり、認め合い、自ら成すべき事を淡々となしている。
共通している事は、自らのこしかたを自覚し、自らやるべきことをたんたんとこなしていく、あるいはこなしていこうとする姿勢、生き方。
そこに流れる時間は、過去のひとたちの費やしてきた時間の上に流れていて、そして次のひとに確かに繫がれていくかのように感じられる。
歴史とはこのように作られていくのかもしれない。
まさに「跫音」に聞き入りながら。
長友、初ゴール、あのお辞儀姿は一生忘れない
長友がインテルに移籍後初のゴールを決めた。大きいDF陣に囲まれながらも反転して、わずかの隙を狙っての見事なゴールに、思わずやったと叫んでしまった。
そしてそれ以上にその後、仲間の選手たちに囲まれてお辞儀する姿に、また周りの選手たちも釣られて同じようにお辞儀する姿に感動した。
あの光景はたぶん一生忘れないだろう。
仲間に慕われ、かつ謙虚に感謝する姿は、正に「サムライ」の真髄を体現している。
さらなる長友の活躍と飛躍を願って止まない。