司馬遼太郎「ひとびとの跫音」
司馬遼太郎「ひとびとの跫音」を読み終えた。
主人公は「坂之上の雲」の子規の養子になった正岡忠三郎とそのまわりのひとびと。たとえばタカジは共産党員で戦後のパージで逮捕入獄し、出所後共産党からも除名されながら、その得意なキャラクターは終生変わらず、自分が成すべき事と考えている事を成し遂げようとする。
司馬氏得意のエピソードが淡々と積み重ねられていって、なんともなしに終わる。
最後の「誄詩」という稿で
「筆者なりに考えていた主題が、どうやら尽きたと感じている。
が、気分のほうは、まだはれるにいたらない。
この稿の主題は、子規の「墓碑銘」ふうの、ごく事歴に即したリアリズムでいえば、「子規から『子規全集』まで」というべきものであったとかと思っている。しかし私自身についていえば、すでにふれたように、忠三郎さんとタカジというひとたちの跫音を、なにがしか書くことによってもう一度聞きたいという欲求があった。そのことでの気分はまだおさまっていないのである。」
と書いている。
読み終わってのこのたとえようもない満ち足りた充足感はどこから来るのか不思議でならない。
登場人物はみなひとすじ縄でいかない強烈な個性の持ち主ばかり。にもかかわらず、それぞれがお互いを思いやり、認め合い、自ら成すべき事を淡々となしている。
共通している事は、自らのこしかたを自覚し、自らやるべきことをたんたんとこなしていく、あるいはこなしていこうとする姿勢、生き方。
そこに流れる時間は、過去のひとたちの費やしてきた時間の上に流れていて、そして次のひとに確かに繫がれていくかのように感じられる。
歴史とはこのように作られていくのかもしれない。
まさに「跫音」に聞き入りながら。