諸井英徳のひとりごと
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質問を変えるだけで、空気が変わる!?

小さい頃から、日本人は質問に怯えてきた。ビクビクしてきた。

「何回言うたら、わかるの!!!」こわい顔で、母親が問い詰める。

「あと、3回くらいかな。。。」こんな風に答えようものなら、

「アホか!! そんなん聞いてへん!」って怒られる。

「引っ掛け問題やったんやぁ。。。」と体が覚える。質問の内容はともかく、質問している人の顔色が大事なんや、と覚える。顔色を伺うことを覚える。

学校の先生が聞いてくる。「お前、オランダの首都知ってるか?」

アムステルダム、って答えたら良い生徒で、答えられへんかったらアホな生徒の烙印を押すための質問や。
考えてみたら、けったいな話や。

もし街角で、通行人に「郵便局はどこですか?」って尋ねられたと想像してみぃ。あなたが親切に、「あそこの角を左に曲がって、まっすぐ約50メートル進んでください。タバコ屋さんがあります。その角を右に曲がって20メートルほど進むと、左手に郵便局がありますよ」と答えたら、その通行人が「よっしゃ!正解! この街のこと、なかなかよ〜知ってるなぁ!」って言いよんねん。怒るやろ??
「忙しいのに、ええ加減にせぇ!」って怒鳴るやろ??

本来、質問というのは「知らない人」「情報を手に入れたい人」が「情報を知っている人」「知っていそうな人」に尋ねるものやねん。

質問する人、というのは謙虚な姿勢であるのが通常やねん。相手の口から出てくる言葉にリスペクトするものやねん。本来なら。

「お前、オランダの首都、どこか知ってるか?」って聞いてくる学校の先生に、試しに聞き返したってみぃ。
「先生、オランダの首都、知らんの?」って。
ほんだら、血相変えて言いよるわぁ。
「アホか! 知ってるに決まってるやろ!」って。ほんだら、また言うたんねん。
「先生、尋ねるって言うのは、知らん人が知ってるであろう人に聞くのが通常やねんでぇ。街中で道聞かれて、親切に教えた後に『正解!なかなかよぉ〜知ってるなぁ!賢いなぁ!』言われたら、頭にくるやろ?それと、一緒やでぇ。気つけやぁ。」

ためしてみたいものやなぁ。。。

私の尊敬する、エドガー・シャイン先生は、最初のオカンの質問
『何回言うたら、わかるんや!?』を ”対決的な質問”と名付けられた。

そして、学校の先生が日常的に投げかけてくる
『オランダの首都、どこか知ってるかぁ?』を”診断的な質問”と名付けられた。

どちらの質問も、相手に対するリスペクトの気持ちは少ない。
50:50の人間関係とはほど遠い。心の溝ができてしまう。

この国には、対決の質問と診断の質問が満ち溢れている。そんなんしてると、みんな顔色伺う能力高くなる。「忖度する」能力や。
いつも、「診断されている」「比較されている」と、周りと自分を比較することばかりに気をくばるようになる。

日常生活の中にある質問を変えるだけで、色んなことが変わる。

カルチャーエンジニアリングで伝えたいことの肝やねん。

 

だから、診断しません!

カルチャーエンジニアリングでは、色んなことを尋ねます。ただし、診断のための質問ではありません。

「現在のあなたの組織は、、、、」などと、何かと比較して優劣をつけるようなことは、絶対にしません。

内部者となって、内部から現在その組織で働いている人の気持ちになって、ありのままを知ろうと努力します。

そして、内部者の方々が考える「理想像と現実のギャップ」を埋めるべく、その方法を一緒に考えていきます。それぞれの企業、組織には独特の「やり方」が存在するのですが、その「やり方」については、きっと何がしかの改善策が存在するものです。プロセスを改善するのです。

「質問」を見つめ直す。

これも立派なプロセスの改善です。

少々回り道に見えても、「文化」「カルチャー」から変えてしまえば、後戻りすることも少ないですよね。

カルチャーエンジニアリング、してみませんか?

謙虚なコンサルティング、「プロセスコンサルテーション」でお手伝いさせて頂いております。

お久しぶりでございます

こんにちは。諸井でございます。

ピース又吉さんの著書「火花」が芥川賞を獲得しましたね。
3月に発売になった直後に購入、一気に読破した私としましては、
「ほら、やっぱりな」ってところです。彼の小説が、登場人物の心の機微に
スポットライトを当てたまさに「純文学」であると理解するには
ほんの5分もあれば十分でした。しかも、そのイキイキとした表現、
共感できる様々な心の情景、笑い、涙、葛藤、、、。

日曜日の丸一日をかけて、気がつけば一気に読破していました。

彼の小説を読んで、「自分でも書きたい」という衝動に駆られたのも
事実でして、、、。

書きたいなぁ、と。

書くなら純文学を書きたいと。。。

とは言うものの、大衆文学と呼ばれるジャンルの作品も大好きでして、、、、

とにかく、書きたいと思っております。

「諸井さんの文章好きなんですよ!」なんて言ってくださる方々の
お世辞のパワーのおかげで、文章を書く気になっている諸井でございます。



さてさて、前置きが長くなりましたが、、、、

ご存知のように、3ヶ月の世界一周旅行に行かせていただきました。

居酒屋の前にポスターが貼られている、あの「ピースボート」で世界を周った
ワケです。

まあ、いろんな経験をさせてもらいました。

「世界を見る!」と意気込んで出発したわけですが、まず初めに目にするのは
「日本!」でした。

グローバルな視点を持つ若者を誕生させることが、当初のピースボートの
目的の一つだったはずですが、残念ながらピースボートも「愛と平和」
だけでは、船を走らせることができません。「経済的な理由」には勝てない
わけで、お金を払ってくれる人に迎合した船のコンセプトへと、見事にシフト
している姿を見せつけられるのです。もちろん、船は油で走るわけですからね。
油は、おカネがないと買えないのですからね。

ネット上の情報と、パンフレットの情報だけで乗船を決めた私でした。
説明会、船内見学会などには一切参加しませんでした。

まさか乗客の99%が日本人だとは想像もしていませんでした。
まさか乗客の80%が60歳以上の、いわゆるシルバー世代だとは
知りませんでした。
まさか乗客の40%がリピーター、つまり「常連さん」だとは
思いもよりませんでした。
何もかもが、驚きの連続でした。

語学学習のためには、かなりの好条件が整っていると思っての乗船でした。
私の今回の旅の目的のうちの80%は、語学でしたから。

やや残念な船でした。その目的達成のためには。


グローバルな視点を持つ若者を育てるという目的に対しても、今のままの
ピースボートでは、不十分な成果しか得られないだろうと思います。

とにかく、船のなかは「ザ・日本」という環境で、日本人の大好きな
「当たり前」が飛び交い、「根も葉もないウワサ」が飛び交い、
人が人を監視する社会の雰囲気が狭い「船内」という空間に充満し、、、
まったくグロバールな雰囲気とは真逆の世界を見せてもらいました。

ただし、今となれば、そのおかげで「グローバル」を強烈に認識させてもらうことが
できたのだと、反面教師としてピースボートには感謝しています。

本来なら、船の上からブログを更新しようと思っておりましたが、乗船後の早い時期に
パソコンを盗まれ、ブログの更新ができませんでした。

今となっては、少々過去の話であり新鮮さには欠けますが、それでも
強烈なインパクトをもって、私の心に突き刺さったままになっている想い出達は
数多くあり、少々熟成された想い出は、むしろコクと深みを増した状態で、
読者の皆様にとどくのではないかと思います。

いろんな出来事、そしてそこから感じられたことを書きたいと思います。


沈黙は金?

幕末から明治の初めに日本を訪れた外国人や、その中でも特に
日本国内を散策、旅をした外国人が当時の日本人について、
フレンドリーで礼儀正しく、おもてなしの精神を持ち、
子ども達を大切にする文化、習慣をもった人達と記述している。

私が生まれた昭和30年代後半や40年代初めごろまでは、
隣近所で調理料の貸し借りをするのは当たり前だったし、
大量に作った食材や、貰い物、お土産などをお裾分けすることも
日常に溢れる当たり前の風景だった。

また、近所の怖いオッチャンに怒られることも当たり前だったし、
町に住む人々は町の子ども達の成長に全員でコミットしていた
と言えるかもしれない。厳しくも暖かい目で見守っていたのだと思う。

だとするならば、明治の初期に限らず日本には、他者とフレンドリーに
会話を楽しみ、お互いに節度を守った「おせっかい」を施しあい、
子ども達を大切にし、子ども達に関わりあい成長を見守る、そんな
脈々と続いて来たのだ。


ところが少々、様子が変わって来た。


エレベーターに乗る。誰も会話しない。無言の箱に閉じ込められた窮屈感を
それなりに感じながら、誰も会話しようとしない。言葉を発しないことが
礼儀だと誰に教えられたワケでもないのに、それが日本国内限定のマナーに
なった。
外国に旅をすると、エレベーターの中で初めて出会った人に"Hello!"
"Good morning!" と声を掛けられる。たった数十秒の間でも、同じ空間を
共有することになった隣人に無視を貫き通すことの方が、圧倒的に苦痛だと
感じる私にとっては外国の方がエレベーターは楽だ。


さらには、挨拶をすることが「危険行為」として認識されるのか!?と
目を疑うようなニュースまで流れた。

東京都内の公園で、子どもに「さようなら」と声をかけた男性が
母親からの通報で警察不審者情報に掲載されたというのだ。(以下参照)

~不審者情報~
3月11日(水)、午後3時50分ころ、北区神谷2丁目の公園内で、
児童が遊んでいたところ、男に声をかけられました。

声かけ等の内容
・さようなら
不審者の特徴:40歳代、160cm 位、やせ型、短髪茶色、
茶色っぽいジャンパー、黒色っぽいズボン、マスク、徒歩  以上。


色々と原因があるのだろう。それぞれの立場の人にはそれぞれの言い分も
あるのだろう。「極端な例を提示して話をしているだけだ!」という批判を
受けるのもわかる。


しかしそれでも敢えて言いたい。「日本人は無口でシャイで、他者とのコミュニケーションを
積極的に取らない、取ろうとしない民族なんですよ!」なんて思っている人がいたら
それは、実は間違った認識ですよ、と。

どこかで方向性を見誤っただけだと。





ベルギーの地下鉄にて、、、

ご飯食べ終わって、次はEU本部の見学に行こうと地下鉄へ。

地下鉄に乗ってしばらく経ったころ、一人の10代女性が
歌を唄い始めた。スカーフで頭をすっぽりと覆った中東系の
その少女は、誰の視線を気にすることも無く歌を続けた。
フランス語でもドイツ語でもオランダ語でも、もちろん英語でもない
その言葉は、おそらくアラビア語。コーランの一節なのか、
イスラームの祈りの歌なのかは知らない、しかし間違いなく
「異文化」の歌であった。それは、私以外のその車両に乗る
他のベルギー人、ヨーロッパ人にとっても「異文化」なのだろう。

あからさまに嫌悪の表情を見せる乗客もいた。となりの車両に
移る乗客もいた。知らぬ顔を決め込んで、時間が過ぎるのをただ
待っている乗客もいた。

長い長い歴史の中で、様々な人種や民族が混在するヨーロッパの
国々。そこには、日本という国で生まれ育った私たちには理解しずらい
色んなコンフリクトがあるようだ。

貧富の格差が大きくなっている今の資本主義社会。残念ながら、「貧」の
方に多く含まれるのは、有色人種で、非キリスト教徒である。
もちろん、「富」の方にも多数のイスラム教徒がおり、有色人種はいる。
しかしながら、やはり今の世界のスタンダードは白人社会、キリスト教社会が
作り上げたスタンダードだということは、誰もが心の奥底に分かっていることだ。

私の周りにはたくさんの海外経験者がいるが、間違いなく全ての人が
何らかの「差別」もしくは「差別らしき」経験を受けている。
それが現実だ。


たまたまドイツまでの行きの飛行機の中で、片倉もとこ著「イスラームの日常生活」
という本を読んだ。

本来のイスラム教は、攻撃的な宗教ではない。

私たち人間の存在を「弱」と考える「性弱説」に立脚していると著者は言う。
弱い存在であるからこそ、酒を呑まない。女性は肌を隠す。一日に5回祈りを捧げる。

人間は弱い。その弱い人間が酒など飲めば、体を壊し、精神を正常に保つことができず
悪いことをするのは明らかだ。だから、酒など飲んではいけないのだ。
人間は弱い。その弱い人間は、永遠の契りを妻と結んでも、それを神様の前で誓っても
誘惑に負けることがある。だから、女性は肌を隠す必要があるのだ。

また日本では「祈る」という行為と「願い」「頼む」という行為が合体する
ことが良くある。「祈願」「神頼み」という言葉にそれが表れている。

しかしイスラムの祈りには「願い」も「頼み」も含まれない。

今、生きていることへの感謝と、神の栄光を祈ること以外に祈りの目的は無い
という。

一年に一度のラマダン(断食月)も、彼らにとってはとても重要で、イスラム教徒で
あることの確認するための重要な儀式だ。

日の出から日没までの間、一切の食べ物、飲み物を口にしない。厳格な教徒は
ツバを飲み込むことさえ我慢するという。
そして、日没後、家族みんなが揃い、近所の人々が集い、大いに食べる、
大いに飲む(もちろん酒は飲まない)。ハラペコだ。きっと、スマホを触るアホは
おらんだろう。ゲームをする馬鹿息子もおらんだろう。
「食事」「生きていること」「食べ物」「生き物」に体する感謝の念が、自然と
沸き上がるのだろう。。。

こうやって考えると、じつは私たち日本人の文化、精神性というのはむしろ
イスラームの人々との方が共通点があるのではないかという気持ちになった。

今、まさにイスラームとキリスト社会の間に、この何世紀かの間で最大級の
コンフリクトが生まれている。

私たちは、どちらかというとアメリカやイギリスと「同盟国」だという意識から
イスラムを蔑視するような傾向はなかったであろうか?残念ながら私にはあった。

今回、ヨーロッパを歩いて感じた。

ひょっとすると、私たちが「善」だと思っていることの方が、自然や地球、宇宙、
私たち以外の生物、生きていること、生まれるという奇跡に対する畏敬の念、畏怖の念を
欠いた、「神への冒涜」なのかも知れないと。







日本だけと違うねんなぁ

ベルギーの首都ブリュッセル。日曜日の昼下がり、広場の前にあるお店で
食事をとった。オープンカフェもあるが、まだ肌寒い時期でもあり私は
室内の席を選んだ。

隣のテーブルには白人の夫婦と息子2人。

息子たちは、もくもくとゲームに励んでいる。両親もスマホに視線を
落としている。

EU域内からの観光客とおぼしき家族。
「旅行に来て、なんでゲームやねん?なんでスマホやねん!?」
とツッコミたくなるところ。

会話は無いのか?

しばらくするとゲームに飽きた兄弟は、ガサガサ始めたかと思いきや
兄弟げんかのスタート。親は、スマホに視線を落としている。ほったらかし。

日本だけじゃありませんでした。
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