ホテルの傍のワットマイ、その前の丘は前日夕陽を見たプーシーの丘
ワットマイの本堂はエントランス部分が添加された形
この僧院の中の教室(小坊主が勉強する机などが在る)と書かれた建物で、貝葉(経が記された横長の乾いた葉)を筆写している青年と、その師らしい老人がいるのを発見。
老人はノート端末に元の経典を貯蔵していて、一区切り毎に青年に画面を見せて読み上げている。
後ろで見ていると、筆写されているのはタム文字(北タイから伝播した文字、チェンマイでは僧院に残っているのは当然で、その他街の中でも見られる。シャン州のチェントゥンでは20世紀でも公文書に使われていた)。
ふたりとも俗人ではあるが結構作業に集中している。
ちょっと区切りのところで声をかけてみた。
青年の方は英語を話す。師の方は着ているシャツにフランス語話者の会みたいな文字が有るのでたぶんフランス語教育を受けた世代だろう。
青年は作業の手を止めて少し話してくれた。建築が専門だが当然地域の文化には理解が深い、いくつか気になった事を訊いてみた。
僧院を語る際に、ラオスでは英語でtempleとするのが多いが、上座部仏教では実態としてmonasteryだと思うに対し、「うーんどちらも使うけど、ラオスの研究者はtempleにしてる」。
僧院の本堂はヴィハーンとは呼ばないのかに対し、「ラオスではシムと呼ぶ」。
ボソット(ウボソット、布薩堂)は無いのかに対し、「あれがそうだ(その機能が有る)」とシム(僧院の本堂)を指す。
あとで、シムとはシーマ(結界)の意味かと考えたが、これは確認できず。
タム文字は14世紀から15世紀にラーンナーから上座部仏教とともに伝播したと考えていると話すと、ここからいくつか話が広がって。
彼の理解では、ルアンパバーンの始めはムアンサワで、カム(モン・クメール系)が建てた町。タイ族のタイ・ラオが後に来て、シェンドン・シェントーンと呼んだ。
彼は自身について、半分タイ・ルー(シプソンパンナーを中心に、東部シャン州、北タイなどに分布)で、この地域では、「5つのシェン(チェン、メコン河流域の重要城市)という言い方が有って、シェンフン(景洪)、シェントゥン(チェントゥン)、シェンセーン(チェンセーン)、シェンドンシェントーン(ルアンパバーン)と、もうひとつは今思い出せないけど···」。チェンコーンではないとのことで、この流れならおそらくムアンシンのメコン河沿い、シェンキェーン(チェンケーン)ではなかったかと推測。
「ルアンパバーンは交易の拠点で、人種も文化も混じりあっている。ルアンパバーンの名はクメールからパバーン仏像が到来したからで、建築にもクメールの要素が。例えばあのシム(本堂)の窓はクメールの窓柱飾りで、ただしこの地域では石材がなくて木製。シムの前面の木彫はルアンパバーン固有のスタイルで、シムの入り口に付け足された前門部分にはタイルーの装飾パターンが見られる」と、建築からの解説。
仏教の伝播については、「6、7世紀にチャンパサックあたりに既に···」とこれはドヴァラヴァティーの影響が窺える石碑などの出土が在る話題で、またチェンマイからのラオス航空機に載せていた機内誌にはインドの支援で調査と整備が進められているワットプーの記事なども有ったが、タイ族のラオと上座部仏教の伝播については別の主題。
このへんで、貝葉の先生が早く次に進みたそうなので、謝意を示して辞する。
ワットマイの本尊仏、堂内の装飾は赤地に金模様のラーンナー系の形
左にエメラルド仏型が多数
ワットマイ本堂、正面エントランス部分から
メインロードを進むと、20世紀初頭に建てられた旧王宮、現在のルアンパバーン国立博物館。
これは新しくパバーン仏像を安置する為に建てた祠堂ホーパバーン
こっちが宮殿ホーカム
王宮はフランス統治下のラオス王(ルアンパバーン王家)が1904年に建て、王族が1975年にパテト・ラオに追われるまで住んだ。
王宮の調度類は、ああそうですかとまあ一般的なものだが、廊下に石碑が数点置かれているのと、ドンソンドラムの写しで20世紀に使用されたものが数点有って興味が惹かれた。
ドンソンドラムを近代になっても複製していたことに気が付いたのは、昨2023年に寄ったランプーンのワットプラタートハリプンチャイでだったが、その後注意して見ると各地で似たようなものが有り、2000年前から実は複製や模造品か゚造られ続けていたのだろうという理解に至った。
このドンソン型ドラム、20世紀の作なら模造品か、だが、1000年ぐらい前の作なら別の意味も出てくる。バリ島のプナタラン・サシ寺院の大きなやつとか、ビルマ(ミャンマー)のカレン族が持っているドラムとか。
石碑については、ひとつは1527年とされる上部に仏教系のホロスコープを示した奉納碑文で、文字は綺麗なタム文字。
並んで置かれていたのは、少し欠けた碑で紀元6世紀かとするもの。こちらは寧ろ現在のタイ文字やラオ文字に近いクメール系の文字。
やはりこの地域では、15世紀ぐらいからタム文字が碑文に用いられるようになっている。
この石碑を撮ったら、えらい勢いで寄って来た老守衛が、腕を掴んで、敵を捕らえた共産ゲリラのような足取りで、入り口近くの若い職員のところへ引き立てる。確かに入り口脇の壁に『館内撮影禁止』の表示が有る。
若い職員は、スマホを確認して、ゴミ箱の中のデータまで消去を確認する(消去してもこのゴミ箱に一定期間残っていることを小生は知らなかった)。
大体にこの博物館にそんな大層な展示物は無いのに、異様に神経質。単なる権威主義なのか、嘘くさい展示物が有るのか。
で、このあとこの若い職員と話すことに。ドンソン型ドラムについて、元は2000年以上前の青銅器で、初めに見つかったのがヴェトナム北部のドンソンで、それ以来ドンソンドラムと呼ばれるが、凡そ東南アジア全域で出土していると言うと、彼は知らなかった。他の場所にも有るのかと訊くので、インドネシアからマレー半島、タイやビルマ(ミャンマー)、カンボジアでもと教えると、本当に見たのかと訊く。自分で見て来たし、そんな特別なことではない。同じパターンなのは、カエルの飾りや中心部の星形或いは陽光かと見る造型など、基本は1メートル程の直径だがもっと大きなのも有るし、寧ろ私的には、最近に複製や模造をしているのが面白い発見なのだと説明。
用途について、やはり宗教的な儀式に係るのかと訊く。今のルアンパバーンでは結婚式とかフェスティバルでドンソン型ドラム(展示してあった20世紀のもの)を叩くらしい。たぶん、仏教以前に雨乞い(カエルの姿とか)とか豊穣を願ったのではないか?と答えておく。
で、もうひとつの碑文について、1527年の石碑はタム文字で書かれていることについて、彼は文字がわからないと言う。実際には書体の違いのようなもので、音標表は今のラオ文字やタイ文字と本質的に同じ。と言うか、もともとインド文字が有って、そのヴァリエーション。音標表はインド式のもので、タム文字と現代ラオ文字の対応がわかれば読める。母音記号の付け方の基本も同じだしと説明。
ついでに、日本語の音標表も、初めに母音の列が付いているが、以下の『かさたなはまやらわ』の順はインド音標表由来とも説明すると、彼は少しJICAの仕事に関わったことがあって日本語を勉強したが難しかったと言う。日本語の読み書きは初学者にはかなり難しい、『あいうえお』のひらがなを40数個覚えても、『アイウエオ』という別系統の文字が有って、更に漢字という漢字文化圏以外の人々にはかなりなハードルが待ち構え、何よりたちが悪いのは『漢字の読みが一つではない!』という事実。中華圏では基本、文字の音はひとつ、文字の合理性から言って当然そうあるべきだ。が、悲しいかな日本語の表記の歴史から、こうならざるを得なかった。泣いてもらうしかない。
彼はJICAの活動について理由が今ひとつわからなかったようで、なぜあんな活動をしているのか、いつからしているのかみたいなことを訊く。
詳しいことはよー知らんけど、ひとつは援助することで結果的に日本の経済に役立つ(直接的な例は政府援助のインフラ事業等を日本企業が受注する)、発生の経緯についてもよー知らんけど、第二次大戦後に東南アジア諸国などに対して戦前の反省も含めて、影響力の及ぼし方を考えた結果ちゃうかな、みたいな返事をしといた。
まあこの若い職員はパテト・ラオの老兵みたいな守衛よりは開けているが、いかんせん歴史や文化や近隣諸国の情況について、学ぶ機会は少なかったのだろう。
今は中国の影響が強まっていると言う彼には、3000年ぐらいのアジアの歴史を見れば、中国は常に膨張と混乱を繰り返す国で、近隣諸国がそれに拠って結局は損をする歴史。いつでも近隣諸国の質の悪い輩を賄賂やその他で取り込んで手先にする。下品な人間ほど中国に擦り寄る、風向きが変われば切り捨てられるのに。
ラオスの博物館は昼休みが入るシステムで、一旦閉館、守衛が追い出しに回って来る。
若い職員には、ラオスの立場なら、中国は信用するな、でもうまく利用すればいい、中国の良い時は30年も続かない、いつでも内側から混乱が起きるから、と言っておく。
博物館の裏、昼のメコン河
昼寝していたら16時前に雷鳴と豪雨
18時になって小降り
小降りの雨でもナイトマーケットはでている
トリップアドバイザーに載っているレストラン、水牛のテンダーロイン
ルアンパバーンでは水牛を食べると書いてあった。本当に水牛が食べられるのか試した。
美味くはないが、食べられる。匂いも無い。