今回のチェンマイ行きを決めたのは、ここからラオスのルアンプラバン(ルアンパバーン)に飛ぶ便が有るのを見つけたこと。前期ラーンナー王国の最終期、世継ぎが無くて縁戚のルアンプラバンのラーンサーン王国からセータティラート王(チェンマイ在位1546-1548)を迎えるが、2年でラーンサーンに帰ってしまい、この時期ラーンナー王国に在ったエメラルド仏(今はバンコクの王宮寺院に在る)を持ち出している。(エメラルド仏はルアンプラバンからヴィエンチャンに移され、1779年にチャクリー将軍、つまり後のラーマ1世がヴィエンチャンを攻めた時にトンブリーに持ち帰り、今のラッタナコーシン朝を建てると王宮寺院に置かれることになった経緯)


ラオス北部は15年ほど前に、雲南省西双版納の磨敢・ボーテン国境からルアンナムター経由でムアンシンを訪れている。

ムアンシンの興味は19世紀のチェントゥン(チャイントン)絡みで、19世紀の前半のチェントゥンのチャオファー・コンタイ・チェンケーンはメコン河岸のチェンケーン(現在の地図では不明も当時ムアンシンとチェントゥンを往来するルートのメコン河岸)の縁者で、後に19世紀の後半、英領化される時期のチェントゥンチャオファー、チャオ・コンケオ・インタレンの第一夫人はムアンシンのチャオファーの娘。

面白いのは、19世紀末に国境線の画定を争って西から来た英国(英領インドの官僚はJ.G.Scott)と東から来たフランスがムアンシンで出会って一触即発の状況が有った。このときの記録に、ちょうど第一王子を妊娠して里帰りしていたインタレンの第一夫人の一行が、チェントゥンに戻るのを高台から見ている記述が有る。

因みにその第一王子は英国に嫌われ、英国が指名してインタレンの後継者となった半弟のチャオ・コンタイを暗殺した黒幕(実際の下手人は甥)で、日本軍占領期にはタイ王国領(サルウィン河東岸をタイ領とした)となったチェントゥンのチャオファーを務め、英国の復帰でチェンマイに逃れて余生を過ごした人物。


現在のムアンシンには、英仏間でメコン河を国境とする合意が成ったあと、フランス軍の駐屯施設の廃墟のようなものが残っていた。どうやら駐屯していたのはフランス領アフリカの兵だった様子。フランス領インドシナの最果ての地だった。

もうひとつムアンシンで興味深いのは、町の西に在るワット・ナムケオ・ロン。19世紀にチェントゥンに逃れて来たタイヌー(北のタイの意味だが、チェントゥンでは清朝の改土帰流策で逃れた現在の景谷・モンウォの集団を言う)の一部がさらにムアンシンに移ったと見られる。


ムアンシンで、メコン河のチェンケーンに行けるか尋ねたら、車で通れる道は無いとのこと。道が有るのはメコン河が大きく折れ曲がって角のようになった場所のシェンコック(チェンコック)、そこまでは行ってみた。河を望むゲストハウスが在って、タイのチェンコーンからボートで月に2度ほど西洋人の観光客がやって来ると言っていた。


話がムアンシンにそれたが、ルアンプラバン(ルアンパバーン)は、未だ行ったことが無かった。


で、実はチェンマイへの移動の前日に、高校の同級生のO君の訃報が同級生のメールで回って来た。彼は十数年前から、チェンマイに部屋を借りて居て、数カ月ごとに京都とチェンマイの居所を替えて暮らしていた。

ちょうど一年前の8月にチェンマイで会って、数回食事を共にした。

そう言えば、その時に少し違和感も感じたが、まあ老化は仕方がないからと思っていた。が、10月になって日本に戻って数日で入院することになり、その後ケアホームに移って、数回訪れ7月に会って会話をしたのが最後。

そんなことで、今回のチェンマイは追悼の旅にもなった。


バンコク・チェンマイの特急列車は、20数年前、まだチェンマイに部屋を借りずタイ各地をあちこち見て回っていたO君と一緒に乗った記憶がある。


それで、まあ冥福を祈りつつ僧院でも回っておこうと、ワット・スワンドークから。


チェンマイ旧市街の堀、雨季で朝から雨模様

ワットスワンドークのヴィハーン、ここは大きい建物で以前からあまり好きではない。

スワンドークの敷地の奥、カオトゥー仏像を祀った堂、こっちは有り難みが多い。建物も綺麗なラーンナー様式で、左の壁にはクーナ王(ラーンナー王国の仏教政策で重要な役割)の姿も描かれている。

ワットプラシンに移動して、
ここも大きいヴィハーンは寄らずに、奥のライカム堂(Lai Kham)のプラシン仏。

紐で結ぶ儀式の準備がしてある



プラシン仏の堂の右手に、生きているみたいな高僧のレプリカが並ぶ堂はボソット(布薩堂)。左の端はクーバ・シーヴィチャイ、20世紀前半バンコク政府に対して北タイの文化を守護した僧。

夕方、もう一度ワットスワンドークを訪ねる。朝に、『Monk Chat』の曜日を確認しておいた。『Monk Chat』はCOVID19の以前から、スワンドーク僧院内の建物で、英語を話す僧が観光客相手に会話をする企画。
その後、ワットチェディルアンでも僧が観光客相手に英語で会話するコーナーが作られた。
おそらく初めは僧の英会話練習と、西洋人の瞑想とかに関する興味に応じるところから始まったのではと推察している。
COVID以前には曜日を決めて夕刻、僧が対応していた。私的に興味が深かったのは、スワンドークではなく周辺の僧院に止住しているビルマ出身僧やスリランカ僧などと話せたところ。
タイでも若者の僧のなり手が少なく、隣接するビルマ(ミャンマー)などの出身僧がけっこう居る。北タイだとシャン州、バンコク周辺にはモン州の僧が居る。

夕方、チェンマイ旧市街の南西角の城壁、雨が途切れて青空も見えている。

チェンマイ旧市街のスワンドーク門

夕暮れのワットスワンドークから見るドイステープ

この日居たのはアラカン(ラカイン)出身の僧。これは珍しい。話すとやはり、「ラカインはビルマとは違う」意識が有る。彼は8つで僧院に小坊主で入って、そのまま僧院で育って僧になったと言う。それでも身内の少年がビルマ国軍の爆撃で死ぬのを目の当たりにしたとも。

シャン州出身の僧が居たらCOVID以後どうなっているか少し聞けるかと期待していたが、これはしょうがない。

ラカインの僧は30歳だそうで、COVID以前のビルマ(ミャンマー)の経済発展と社会変化を見てきているが、やはりアウンサンスーチーとデモクラシーにシンパシーを寄せている。はっきり言って、それではビルマ国軍に勝てなかったし、勝てないだろう。
思えば、20世紀後半はある程度理想や希望が語れた時代だったのだろう。
しかし、今、ガザやウクライナやアフガニスタンやビルマ(ミャンマー)で、戦争と暴力が打ち続き、実は数千年の人類の実態を繰り返しているだけではないのだろうか?
平和や人道支援や絵空事の理想は、それをまた食い物にしている公的・私的仕組みや、或いは善意では有るが無邪気な思い入れで、実効性を持たないか、時には悪化させさえするように見える。

仏陀は、だから「現世から離れよ」と説くのだろう。しかし、ラカインの僧も私もこの世にとどまっているのは事実だし、日々を混迷の中で過ごしている。
そんなことを考えた。