知ることのその先に | 自分の人生の舵を取れ! ⭐︎武井義勇(kammy)のブログ

自分の人生の舵を取れ! ⭐︎武井義勇(kammy)のブログ

僕は、公立小学校の教員をしています。

その中で大切にしたいことや、自分の生き方を考えてきました。それをシェアしていきます。

自分の人生の主役は自分自身です。いかに生きればもっと幸せになれるのかを追究しています。

いつもお読みいただきありがとうございます😊本質の追究者の武井義勇(たけいきゆう)です。


不可逆性という言葉を知っていますか?一度知ってしまうともう二度と後戻りはできないという意味です。

知らなければスルーできたことが、知ってしまったが故に戻れなくなる経験、きっとあなたにもあると思います。


今回は不可逆性のさらに先にある世界についての、僕なりの見解を述べていきます。




世の中には「あえて見ようとしない」という人が相当多くいます。そのまま進んでしまったら、間違いなく苦しい生き方をすることが分かるのに、本人は気にせず突き進みます。

酒やタバコ、ギャンブルなどが分かりやすいですね。嗜む程度ならよくてもこれらにハマってしまうと不幸な人生を呼び込んだり、早死にしたりします。

けれど周りがどんなに注意したとしても「これがオレの生き方だ!」などと言ってそのまま進んでいく人もいます。

そういった生き方をかっこいいと思う人もいます。僕にとってはお付き合いしたくないタイプです。自分の心身の健康や財産を大切にできない人は、他者のそれも大切にできない傾向にあるからです。付き合うだけ損をします。


ではなぜこのような愚行を繰り返すのでしょうか。それは、知ることの先にある未来を実感できないことにあるように思います。


知ることは怖いことです。酒を飲み過ぎたら肝臓を壊し、その後どのような状態になるのかを知れば怖くなります。薄々は気づいているけれど、正面から向き合ってしまえば改善へ向けて努力しなければならなくなります。もう「楽」を選ぶことができなくなるのです。


苦しいことや面倒くさいことを避けたい、今のまま変わりたくない、もっと楽に生きていきたい、そういった気持ちが根底にあるから、知ることを恐れるわけです。


しかしそこから目を背けずに、問題に正対した人は変わります。知ることから逃げずに知識をもった人は、勇気をもって突き進むことが可能です。

そしてそちらの人生の方が遥かに幸せに近づけることを、後で知ることになります。将来苦しむよりも、今苦しむことを選択したのです。当然結果は変わってきます。


知ることは、自分の弱さや不完全さ、機能不全感を正面から引き受けることになります。分かりやすい言葉で表せば、「自分が大した人間ではないことに気づくこと」です。強くもなければ、完璧でもない。そして社会にとってさほど有益な存在ではないことを受け止めるわけです。


僕はアドラー心理学に出逢ってからずっと、己を知ることを繰り返してきました。己を知るとは、自分が大した人間ではないことを受け入れる過程であったとも言えます。30代の半ばから、何者でもない自分を築いてきました。承認欲求の塊だった自分が、それを少しずつ少しずつ削ぎ落としていったのです。


結果的に今がとても生きやすくなっています。他者に対して肩肘張って強く見せようとする必要がなくなり、誰とでもいつも自然体で接することができるようになってきました。


特にこれは人間関係のいざこざが激減するという効果をもたらします。相手にも自分にも大きく期待することがなくなるので、他者に要求することが減るからです。必然的に人間関係が良好になります。




知ることはこのように良いことづくめですが、それでもその効果を実感するまでには壁が高いように思います。



例えば、今の学校教育はそのシステムに限界を迎えています。不登校の子供たちが増えたり、教員不足が指摘されたり、管理職層の一新が求められたりするなど、メディアでも問題が取り沙汰されるようになりました。


しかし知ることを恐れる人たちは、この事実から目を背けます。相変わらず現場は旧態依然として、これまでのシステムのまま進もうともがいています。


僕は不可逆性の中にいるので、新しい世界の形を築こうと努力しています。もう元の家にいようとは思えない状況だからです。


僕は少しずつ現場でも、現実を知らせるように行動していますが、なかなか思うように進んでいません。旧態依然とした姿勢の方がメリットがまだ大きいからです。


今、日本が危ないと僕は考えています。けれど実はそこまで危なくないのかも、とも最近は思います。レッドゾーンに入れば、「変わらざるを得なくなるから」です。今はイエローゾーンといったところでしょうか。まだ変わろうとしなくても危機的な状況が訪れていません。


だから変わろうとしない人が多いです。今実際に苦しんでいる人はさほど多くはないのだと思います。


でも僕は今の段階から変わる準備をしておくべきだと考えます。なぜなら変化するには膨大な時間が必要だからです。


僕がアドラー心理学に出逢ってから変わり始めて、もうすぐ10年が経ちます。でも実感としては、まだまだ変わり切っていません。本当に毎年微々たる変化を繰り返し、少しずつ変わってきたのが現状です。


これを数年で変化させようとするのはあまりにもリスキーです。急激な変化は心身に大きな反動を与えます。革命が多くの血を流して行われたのと同様に、大きく急激な変化に耐えうるだけの心身の強靭さが求められます。



これらの学びを通して僕が一番知ってよかったと思うことは、自分が無理しなくても世の中が回っていくということです。自分は世界の中に落とされた1つの歯車に過ぎず、それは何者でもない自分を自覚することでした。


何を言っているのか分かりにくいかもしれないので、少し具体的に述べます。


今教員の世界では教員不足が深刻化していて、多くの学校で教員がいなくなり火の車になっています。現任校でも数年前は同じような状況にありました。しかし今は病休者が減り、比較的穏やかに過ごせています。


火の車になっている学校では、管理職も含めて総動員で対応しています。教員には真面目な人が多く、責任感も強く「自分がやらなければ他の人に迷惑をかけてしまう」という使命感から、心身を削って仕事に勤しみます。そうしてどんどん病休者が増えていきます。


それはその仕事に耐えられなくなったその人の自己責任です。頑張ればそういった状況であっても打開策を見つけることができるはずだからです。


・・・なんてことを僕は若い頃は当たり前のように思っていました。耐えられないその人が悪いのだと。


でも違ったのです。本当に問題なのはその人ではなく、そのような仕組みになってしまっていることです。僕はそのことに気づいてしまいました。


学級をコントロールできないのは、その教員の資質に問題があるからだ。10年前の僕は本気でそう信じていました。

違います。それには様々な環境要因が重なっているのです。


もちろん教員の資質もその内の1つではありますが、それだけでは説明できないことが数多くあります。それにも関わらず、真面目で誠実な教員は無理をしてでも何とかしなければと使命感を燃やすのでした。


僕は3年前に病休をとりました。その時に知ったのです。「自分がいなくても、社会は当たり前のように進んでいく」ということを。

僕がどんなに力をもっていたとしても、どんなに有名だったとしても、その一人がいなくなったところで社会的ダメージは微々たるものです。

しかしこの人がいなくなるとクリティカルにダメージを受ける人たちがいます。それが家族です。教員の替えはいくらでもいるけれど、息子たちの父親の替えは僕しかいません。

少し考えれば分かることですが、自分の人生にとって大切なのはどちらか言うまでもありませんよね。


仕事や社会貢献を第一に考える人は、この当たり前の事実に気づきにくくなります。自分がいなくなったら困る人が出てくる、と本気で考えているのです。


確かにそう思いながら仕事をするのは美しいことです。でもそのことによって自分の人生を犠牲にしていたとしたら、何のための、誰のための人生なのでしょう。


美辞麗句を並べて叱咤激励した社会は、あなたを容赦なく使い捨てますよ。使い物でなくなれば、掃いて捨てられるのです。それが世の中の仕組みです。



この事実(なのかどうか知らんが)を知った時、社会貢献の為に自己犠牲することの愚かしさに気づきました。僕は自分が社会にとって大した人間ではないことを悟った瞬間に、この事実を受け入れることができました。


僕がみんなに啓発活動している理由はここにあります。僕が大切にしたいのは、僕の周りの人の人生です。搾取されがちな同僚たちをもっと楽に生きられるようにしたい思いがあります。


とは言え、これは僕の手前勝手な思いです。だから多くの人にとっては余計なお世話なのですよね。



でも社会の仕組みを知ろうとすることは、どんな人にとってもメリットがあると僕は思います。だから考えるのです。学ぶのです。


自分の人生をもっと豊かにするためには、考えることと学ぶことは欠かせません。知ることのその先にあるのは、より良い未来なのだと僕は考えます。



これがなかなか伝えられないことは、もどかしくもありますが、もしかしたら僕のように求めること自体が時代に合わないのかもしれませんね。


ただ僕にはこれしかできないので、これからも考え、学んでいこうと思います。


最後までお読みくださりありがとうございました。