ハリボテであることを求められても | 武井義勇(kammy)のブログ

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僕は、公立小学校の教員をしています。

その中で大切にしたいことや、自分の生き方を考えてきました。それをシェアしていきたいです。

いつもお読みいただきありがとうございます😊本質の追究者の武井義勇(たけいきゆう)です。


大勢の中にいるのに、自分はそこにいる一人として認識されていない経験、あなたにはありますか?僕にはたくさんあります。

このような経験をすると、自分の存在が世の中に必要とされていないのだと思って非常に虚しくなります。そして「自分なんていなくても別にいいや」と自分を責めてしまうものです。


今日は「はりぼてでいるだけならば、その場にはいたくない」気持ちから、人を尊重するとはどういうことなのかを考えていきます。過去の自分のトラウマのようなものをえぐる話にもなりますので、真剣に向き合っていこうと思います。



現在5月のゴールデンウィークです。Voicyパーソナリティの「さわなお」さんが精神的に落ち込んでいるという放送を数日間繰り返されています。


きっかけは、あるテレビの制作会社の番組に出演することになった奈緒さんが、ぞんざいな扱いを受け続けたことです。「澤円さんの奥さん」という立場でロケでも隣で笑っているだけ、コメントしようものならば「奥さんのコメントは求めていませんよ」と言われ、スタジオ収録では台本に一言もセリフがないという状況だったとのことです。


「私は夫婦の『婦』という扱いしかされなかった」

と悲しんでおられました。番組の制作会社にとっては、奈緒さんははりぼてでよかったのです。そこに心はいらない。ただ「澤円さんの奥さん」という人形であればよかっただけです。


奈緒さんはこの件により、数日間寝込まれ、体調も崩し、毎日配信もままならなくなりました。


人によっては「それだけでそんなに落ち込むの?」と思われる人もいるかもしれませんが、僕は奈緒さんの気持ちがすごくよく分かるし、さらに言えば憤りを感じました。


僕にとって澤奈緒さんは、Voicyパーソナリティでなくてはならない人です。フォロー解除をしたパーソナリティも多い中で、初期からずっと聴き続けています。


奈緒さんの放送にはコミュニティが築かれ、多くのリスナーが救われました。僕にとってはカリスマです。


その奈緒さんが『婦』の扱いをされただけでも不快なのに、すごく傷つけられた事実が、制作会社に対しての憤りを禁じ得ないのです。「我らが象徴を傷つけやがったな!」という思いです。


こういった気持ちは、推しアイドルを誰かに誹謗中傷された時も同じようになるものですかね。自分が誇りにしているものを傷つけられると、怒りが湧いてくるものです。


さてそんな中、奈緒さんはご自分を責めていました。

「私はこの場にいなくてもいい存在なんだ。必要とされていないんだ。だったら呼ばなくていいのに。私は澤奈緒でいたい。」

と。これが痛いほど分かります。

ある集団の中にいても、自分が透明な存在なのだと感じる時に、すごく悲しい気持ちになるものです。僕も暗黒時代だった中高生の時に、このような思いを何度もしました。


友達の輪の中で盛り上がっているのだけど、自分が何かコメントをしても無反応だったり、場が白けたりすることがありました。「あれ?オレ何か変なこと言ったかな?」となり、いたたまれなくなりました。


大勢の中にいても、自分は発言を控えるようになったり、自分だけがアウトローになるように行動したりと、次第に人の中にいること自体が苦痛になっていきました。


例えば、細かいことで言えば自転車で帰宅する時のことです。当時3人で帰ることが多かったのですが、僕以外の2人がずっと話していて、それに付いていくだけの自分がいました。

2人のうち一人がバイバイした後は、そのもう一人と何事もなかったかのように帰っていたのですが、一人で帰っている時の寂しさといったらなかったです。


また、どこかに友達同士で出かけようとなった時も、誘われるのが最後というようなことも結構ありました。この最後に誘われるタイプって、「ああ、あいつもいたわ。誘ってやるか。」みたいな数合わせ的なポジションですよね。僕はそのタイプだったこともあるのです。


「そんなことで悲しいの?」と不思議に思う人もいるなもしれません。はい!そんなことだけど悲しいのです!!


今ならよく分かります。ここに明らかに欠けているのは

「尊重の意志」

です。人を尊重しようとすれば、自然と相手を大切に思い行動するものです。ぞんざいな扱いを受けたと相手がとらえるならば、それは紛れもなく尊重の意志を欠いています。


これは能動者がそう考えていなくても、受動者がそう感じたのならば間違いないです。だから「そんなつもりはなかった」という言葉は一切受動者には通じません。行動が示しているからです。



奈緒さんが今回制作会社から受けた扱いからは、奈緒さんを尊重する意志を感じませんでした。それは奈緒さんが説明してくれた一つ一つの行動からも伝わってきます。完全にテイカーだと判断できます。


奈緒さんは、テイカーやプレデターたちから身を守ることを常に発信されています。搾取される苦しみを知っているからこそ、そういった輩から自分を守ろうと訴えています。


今回の件は、予想もできないところからやってきた攻撃でした。だから奈緒さんは防御する間も無く攻撃を喰らってしまいました。気を付けていてもこのようなことが起こるのですね。



はりぼてでいることを求められることは非常に悲しいことです。時には「生きている価値がないんだ」とさえ感じてしまいます。それほど、人は人の中で生きていくことを本能的に求めているのです。


このことについては、奈緒さんの放送のリスナーであり、Voicyパーソナリティでもある水谷アスさんが【2024.5.3 自分を蔑ろにされたと感じた時の話】でも語られています。


アスさんも自分があるコミュニティで、空気のように扱われた経験をお話されています。その時に「自分はこんな小さなことでショックを受けているのはおかしいのではないか」とおっしゃっていましたが、奈緒さんの話を聞いて「人の感じ方は絶対的なもので、悲しさを感じてよかったのだ」と思ったことを伝えられています。


人が受ける気持ちに、大きいも小さいもないのです。自分が感じたものが全てというか、それを感じてもよいのです。


これはセルフ・コンパッションの学びの中にも出てきたものです。自分の感情に大きいも小さいもない。その感情を抱いている自分自身が大切です。




このように考えてみると、人間関係のトラブルは尊重の姿勢が崩れたところに起こると言えるのではないでしょうか。


今回僕が伝えたいことは、僕が尊重の意志をもって人と接することができているということではなく、尊重の意志を欠いたまま人と接していることがあるのではないかということです。


自分では尊重している「つもり」であっても、相手にはそのように受け取られないことがあります。それはきっと行動の端々に滲み出てしまうものなのだと思います。


それを完全に取り払うことはきっと不可能です。不完全な自分だから、頑張っても完璧にはできません。


ただ、尊重の意志は行動によって示されることを意識しておかなければならないと考えます。相手から「あなたのこの行動が悲しかった」と言われたら、きっとそれはそうなのだと思うからです。



世の中には、相手に無配慮無遠慮の人が必ずいるものです。そのような人はきっと良い死に方をしないのだとは思いますが、いなくなることはありません。


僕は相互尊重の世界を目指していますが、尊重の意志をもてない人が一定数いるので、この世界の構築は相当難しいことも理解しているつもりです。ただ、僕の発信で尊重の意志をもつことの大切さに共感してくださる人が少しでも増えれば、これまで風穴すらも空かなかった壁に少しの穴を空けられるかもしれません。



最近の奈緒さんの放送には、これまで以上のいいねやコメントが寄せられています。今までリスナーだったけれどコメントしていなかった人まで初コメとして発信されています。

それはこれまで奈緒さんが築き上げてきた信頼の成せる業です。そして奈緒さんがリスナーに愛されている証拠であり、多くの人を救ってきた証なのです。


奈緒さんは、リスナーに対する尊重の意志を行動で示し続けてこられました。だからこその結果です。


この経験を奈緒さんがどのように生かされるかは分かりません。ただ確実に言えることは、レジリエンスの強い奈緒さんは必ず復活されるし、この経験が後々に大きなものとなって活用されることになるということです。


今はまだVoicyパーソナリティとしても新鋭的なところがありますが、いつか爆発的な力を発揮されるのではないかと密かに期待しています。


人をはりぼてとして扱うのはやめましょう。それはその人の心をえぐります。

尊重の意志を示すためには、その人の名前を大切にし、その人自身が活躍できる役割を与えることが大切です。そしてみんながそのように考えられるようになれば、この世はもっと生きやすくなるはずです。


僕も子供たちと接する中で、気を付けていきたいと思います。


最後までお読みくださりありがとうございました。