いつもお読みいただきありがとうございます😊キョウイクの探究者の武井義勇(たけいきゆう)です。
書いているようで書いていなかった、僕の新任時代の話です。興味ないかもしれませんが(笑)、お付き合いいただけたら幸いです。
今から17年前、僕は27歳で採用となり地元の小学校に配属されました。すごくドキドキしていて、希望よりも不安の方が遥かに大きかったことを覚えています。
当時の校長先生に「指導教諭はトトロみたいな人だから」と言われていたのですが、いざ初めてお会いする時にはドキドキしながら玄関で待ち構えていました。
しばらくして玄関にかなり恰幅のいいおじさんが入ってきました。一目で分かりました。「あ、トトロだ」校長先生が言った通りでした(笑)
後に分かることですが、当時の子供たちもこの先生(B先生とします)のお腹にぴっとりと張り付いて、正に生トトロを間近で見ることになります。
怖い、神経質な人だったら嫌だな、と思っていた僕は一目見て安心感を得たのでした。
この先生とは1年間の付き合いでした。体が持たないと言って、早期退職をされてしまったからです。でも僕にとってこの1年間は、教員人生の礎を築く大切で濃密な期間になりました。
B先生は型破りな教員でした。「やりたくないことはやらない」と職員会議や朝会でも堂々と発言し、教室の掃除はめちゃくちゃ、給食の配膳もめちゃくちゃでした(笑)はっきり言ってしまえば、今の教育認識だと服務事故レベルの学級経営でした。
でも子供たちのほとんどは先生のことが大好き。学級も「揃っていないけれど乱れていない」ので、クラスに入ると温かくのんびりとした安心感を感じられたものでした。
B先生は、授業や学級経営のことをあまり教えてくれませんでした。「見て覚えて」「やっていけばできるようになる」と言うことがほとんどで、自分から進んで教師のあるべき姿を教えようとはされませんでした。
その代わり、子供への接し方や眼差しの向け方についてはかなり詳しく教えていただけました。教師と子供の信頼関係の築き方をいろんな話から伝えてくださっていたのです。
僕が今、授業でなく人間性に重きを置いている素地は、この時の教えが土台にあります。研究と修養でいえば、修養について多く学ばせていただいていたのです。
B先生は会津出身。当時50代後半でしたが、会津訛りも残っていましたし、僕の授業を見ていたら後ろで居眠りしていることも多く、何となくおじいちゃん感がすごかったです。
この雰囲気が子供からの人気を絶大なものにさせていました。B先生がいなくなったということを知った多くの子供たちは号泣しました。僕も泣きました(笑)
B先生からは、教師の心得を様々学びました。・・・と書いてみたものの、具体的なものは忘れてしまいました(笑)。ただ、教わったことがすでに血肉となっているので、自分のものなのかB先生から教わったことなのか分からなくなっています。
僕は教育実習生を何回かもちましたが、全く向かないことに気づきました。B先生マインドが骨の髄まで染み込んでいるので、型破りなことしか教えられないのです。
指導案を作るのが大嫌いだし、発問や板書の仕方を工夫することもないし、場当たり的な授業をするし、何一つ教師の技量を高める方法を教えられません。
その代わり、教師として(人として、かも)の話はいくらでもできます。僕が教えられることは「哲学」です。それはB先生が僕に対して接してくれた通りの姿勢です。授業のノウハウを教えることはできませんが、どのようなマインドで仕事をしていけばよいのかはいくらでも語れます。
僕のような教員は、人を育てるのには不向きです。なぜなら社会人として求められるのは、その世界にどのように順応するのかということだからです。型破りから入ると、混乱を招いてしまうのです。
僕はB先生を心から尊敬しています。だから型破りな教員になりました。でも型破りの教員でいることはしんどいことも多いです。多くの人には向かないように感じます。
僕はB先生に叱られたことはほとんどありません。そもそも、B先生は一般の教員だったら叱るようなことを叱ることはなかったからです。
ただ一度だけ、めちゃくちゃ叱られたことがあります。記憶にあるのはそのたった一つの出来事だけです。
それは2月の中旬くらいのことだったと思います。当時、担当クラスでは毎日作文の宿題を出していました。
その作文に、ある女の子が「カミー先生の直した方がよいところ」といった内容で書いてきたことがありました。何が書いてあったのかは忘れましたが、僕はとてもショックを受けました。
そして僕はその作文に
「もうすぐクラスも替わるのだから我慢してよ」
と返信しました。その宿題のことを笑いながらB先生に報告したら、B先生は急に顔色を変えて
「オレは今までカミーちゃんに怒ったことはないけれど、それは許せねー。子供と真剣に向き合おうとしないのは教師として許せないんだ!」
と激怒されました。僕はびっくりするやら、混乱するやらで、顔が青ざめました。職員室のその出来事は、周りの先生たちも心配するほどの剣幕でした。
授業や学級経営については積極的に教えない先生が、子供との向き合い方については本気で指導されたのです。僕にはその出来事が最も心に刻まれるものとなりました。
今の自分が子供たちと真剣に向き合っているとは思えません。むしろ手抜きをしているところも多々あるように思います。
しかし僕のベースには、子供の教育に対する拭い難き情熱があります。このベースは、B先生とのこの出来事から創られていったように思います。
授業力も大切だけど、最も大切なことは「人間として接すること」
それを体現して教えてくださったのがB先生でした。
それ以降、数多くの尊敬する先生方に出会いましたが、ここまで僕の教員人生に影響を与えてくださった方はいません。僕はあまり「恩師」という人に巡り会ってこなかったのですが、B先生は正に恩師です。
退職されてからの数年間、移住された北海道にも何度も足を運びました。それほどまでに僕にとってはなくてはならない人です。
今までなぜ書いてこなかったのか。自分でも不思議です。ただ教師武井義勇は、B先生なくして語れません。ここに記しておくことで、自分の原点を見つめ直すことができます。
今日は誰の何の得にもならない記事でしたが、備忘録として書かせていただきました。
最後までお読みくださった方、ありがとうございました😊