目指すのは、相互尊重の社会 | 自分の人生の舵を取れ! ⭐︎武井義勇(kammy)のブログ

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僕は、公立小学校の教員をしています。

その中で大切にしたいことや、自分の生き方を考えてきました。それをシェアしていきます。

自分の人生の主役は自分自身です。いかに生きればもっと幸せになれるのかを追究しています。

いつもお読みいただきありがとうございます😊本質の追究者の武井義勇(たけいきゆう)です。


今日もまた、僕の核に言及するので長文になります。お付き合いいただける方は、何卒よろしくお願いします🙏



僕が目指したい世界がようやく一言で示せるようになりました。それは

「相互尊重」

何年もブログを書き続けて、平和な世界を築きたいと何度も書いてきましたが、平和な世界を具体的な行動で示したものがこの「相互尊重」です。


あらゆる問題の根幹には、相互尊重を欠いたもの、バランスを崩したものが存在していて、簡単には解決できないけれど原因はここに行き着くことが分かりました。


僕程度のことは誰でも気づけると思うのですが、僕がなぜこんなにも相互尊重にこだわるかというと、自分が自分の膨大な思考の時間を費やして行き着いた結論だと感じているからです。誰に教わることではなく、思考を重ねて重ねて辿り着いた僕の結論。それは、誰が何と言おうとも否定できないものです。


だから今回述べる記事の内容は、僕の核となるわけです。


今回の内容を短く端的に表すと

「多様性を認め合う社会ではなく、相互尊重の社会を目指そう」

ということになります。ここから本論に入ります。



数年前に「ダイバーシティ」という言葉を知り、心躍ったことを思い出します。当時は多様性を認め合うということが今ほど言われていませんでした。


だから僕は、この言葉を使って周りの人に自分の考えを発信していました。


けれどそれも数年経つにつれて、この言葉に嫌悪感すら抱くようになりました。多様性を認めるといった時に、誰かの権利意識が助長され、わがままや自分勝手な人が鼻につくようになったからです。


今ではこの言葉を見ると、それを使っている人を洞察するようになりました。「この人はどのような意味でこの言葉を使っているのだろう?」といったように、文脈を冷静に分析するようになったのです。


大抵の場合、この言葉は自己都合で使われています。かつての自分と同じように、自分の主義主張を伝えるための手段としてこの言葉を活用します。

例えば、障がい者にもっと優しくあるべきだとか、子供の学習権を絶対に守らなければならないとか、LGBTQ人ももっと社会に容認されるべきだなどといった感じです。

これらの言葉を振りかざされると、それが正論なだけに周りは従わざるを得なくなります。憲法に定められている「基本的人権の尊重」に違反することになるからです。


ただ、これらの主義主張に出合うと、僕は一種の不快感を覚えます。この感覚を分解して考えてみると、「人権を振りかざして自分の正義を正当化しようとする心理」に対する不快感なのだと気づきました。


子供の学習権を守ること。これは当然そのようにあらねばなりません。けれどそれを、自分のわがままを通すために活用された場合には、ちょっと待った!と思うことがあるわけです。


例えば、「この子は手遊びしながらでないと、集中して話が聞けないのです。先生は注意をされますが、それはこの子にとっては苦痛です。」といった訴えられたら(実際ではありませんよ)、うん?となります。僕の教員としての経験で、手遊びしている方が集中して聞けている子はいませんでした。そもそも手遊びをするということは、その手元に集中するわけだから、話を聞くという姿勢から最も遠いと思うわけです。


例がイマイチ分かりにくくなりましたが、こういった訴えは結構多く見られるのです。



僕は、多様性を認めよと主張する人が、自己都合で伝えようとした場合には、それをすんなりと受け入れることはできないのです。



そこで大切な視点となるのが「相互尊重」です。

これには、ある言葉を活用すると分かりやすくなります。この言葉は、とある学校の説明会で、日頃子供たちに投げかけている言葉だと紹介されていたものです。

【I'mOK.You'reOK.We are OK.】


これは子供たちの行動指針にもなります。左から順番に段階を踏んで考えるものです。


例えば、ある子供が掃除をサボったとしましょう。これを言葉に当てはめて考えさせます。

I'm OK?→掃除をサボって楽をできるから、OK。
You're OK?→その子の友達で理解ある子だったら、OK。
We are OK?→掃除に真面目に取り組んでいる子がいる一方で、サボって楽をしている子がいるのは不公平だ。オッケーではない。

といった感じです。この場合、第二段階のYou're OK?でもアウトではありますね。


自分がよくても、他者がそれを許容できなければダメなのです。We are OK.にならなければ、相互尊重の社会とは言えないということです。


先日、ある子が体育の授業の後、ボールで遊んでいました。ボールを片付けようとした子が、それを注意したところ、ボールを地面に叩きつけて帰っていこうとしました。


僕は呼び止めて伝えました。

「それはズルいだろ!なぜ片付けようとしている人がいるのに、片付けをしないで遊んでいる人が楽をしようとするのか?それは不公平だ!」

と。その子は渋々片付けをしましたが、顔には明らかな反感の色を滲ませていました。

僕はこのような時に、絶対に自分の主張を譲りません。僕にとって、不公平は許せないからです。

ここで問題になるのは、一人のわがままで、周りの資源を使っている点です。


ボールを授業で使っていたのは全ての子供たちです。ということは、片付ける必要があるのは全ての子供たちで、対等な立場にあります。


授業が終わった後にボールで遊んでいて、片付けようとした子がそれを注意をする。これは正当な理由です。これに対してキレるという行為は既に尊重の姿勢を欠いています。


さらには、ボールを叩きつけて威嚇したり、それが転がるのを拾わなかったりすると、片付けをしている子供たちの資源を奪うことになります。不快になり、ボールを拾いに行く時間や労力等を奪っているわけです。


これは明らかな不公平です。We are OK.ではありませんよね。


僕が目指す相互尊重の社会は、この不公平感をできる限り排除していくものです。そうすればお互いに気持ちよく過ごすことができるからです。


もし上記の例で相互尊重の社会にするとすれば、注意された時点で「ごめんね。ちょっと遊びたくなっちゃった。一緒に片付けするから許してちょ。」と伝えれば全く問題なしです。むしろその可愛さで周りの子はその子のことをより好きになるかもしれません。


または、「僕、しばらく遊んでいたいからボール籠そこに置いといて。後で僕が片付けしておくから。」と伝えれば問題なしです。


みんなが気持ち良く過ごせる社会。それが相互尊重の社会です。



反対に「多様性を認め合う社会」という言葉を使うと、これが曲解される可能性が出てきます。

「ボールを片付けないで遊んでいた子には、そういう特性があるから仕方ないのだ」と考える人が出てきてしまうからです。例えばその子に何らかの障がいがあって、そのような社会性を身に付けられていないのだから、周りは配慮した方がいい、とか考える人も出てくる可能性があります。


僕はそれは違うと明確に否定します。その子にたとえどんな特性があろうとも、周りに我慢を強要するような考え方は、多様性の容認ではないと思っています。それはただ面倒なことを避けるために、放任しているだけです。


これが僕が「多様性を認める」という言葉を嫌悪する理由です。


子供だから、障がいがあるから、病気だから、LGBTQだから、とそれを権利の基地にして自分の主義主張を通そうとすることは、僕は相互尊重の意識を欠いたものだと判断します。

確かに、それらの特性に理解を示すことは大切です。そして実際、僕は理解するように行動しています。しかしその権利意識を暴走させて、自己都合を訴えてきた場合には、明確に拒絶の姿勢を示します。


なぜ拒絶するのか?それは、もう一方の人権が蔑ろにされる可能性が高いからです。


ボールの片付けの例で説明します。これは別に特性云々の話ではありませんが、もし仮に片付けしない子に何らかの障がいがあった場合、ボールを片付けようとして注意した子供の方が叱られる可能性が出てきます。


片付けようとした子は当然不満を抱えます。そして貢献しようとしたことが仇になることを学びます。この子たちは貢献することをやめます。するとクラスの力が低減する可能性が出てくるのです。


わがままを装った多様性を認める社会を築くと、共同体の力自体が低減し、巡り巡って社会全体がネガティブな空気に覆われます。こういった社会ではもはや、多様性を許容することもできなくなり、幾多の問題が勃発していきます。それはどんどん未解決になり、更なる大きな問題へと発展していくのです。


その際たるものがいじめ重大事案や学級崩壊等です。これらは、共同体の自浄能力が失われたために起こる現象です。


だから相互尊重の原則を崩してはなりません。誰かの一方的な権利意識によって、もう一方が不公平感をもつことを最大限排除しなければならないのです。


僕が自分の学級経営で最も心を砕いているのはこの部分です。誰にとっても居心地の良い共同体を作るためには、互いが互いを尊重し合わなければなりません。


今の日本社会を見た時に、実はこのバランスが崩れているところが数多くあります。その一つ一つを解決することは不可能に近いですが、「相互尊重をベースにする」つまり【We are OK.】を合言葉にすることによって、問題を問題と認識することができるのではないでしょうか。



相互尊重を原理原則に据えるのです。そこから何事も見ていくようにする。そうすれば、平和な世界を築くことも不可能ではなくなるのではないかと、僕は考えています。


まずは、自分が身近なところから始める。例えば家族、職場、同好会等で実践してみることが大切です。


今横に次男がプラレールを作っています。このブログを書き終えたら、一緒に遊ぼうと思っています。


共に、相互尊重の社会を築いていきましょう。



長文を最後までお読みくださりありがとうございました。