「歴史認識とは何か」:国に捉われることの視野の狭さ | リベラルアーツの精進と実践の日記

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通算97か国訪問し農村・スラムから先端企業徹底取材。世界情勢、歴史、哲学、アート、テクノロジー、ビジネスを繋げ、世界の行方を思索する。

大沼保昭著「歴史認識とは何か」を読みました。

 

2018年に逝去された大学時代の恩師である大沼保昭東大教授の書籍。以前にも読んでいましたが再度読みました。

 

・日本の講和は苛酷なものであったという主張は国際社会では全く通用しない。むしろ、米国や中国が日本の戦争責任について極めて寛大な態度をとってきた。中国政府は、日本の対中侵略は一部の軍国主義者の責任であって、日本国民は中国国民と同じく被害者だと言ってきた。

 

・しかし、このような事実が、日本の侵略という厳然たる事実を日本国民の意識から薄れさせて、日本国民を甘やかすことになった。

 

・中国が天文学的な賠償を放棄してくれたことを日本人がどれだけ知っているのか。

 

・広島、長崎に象徴される戦争の被害者意識があまりに強いので、日本人が多数のアジアの人々を殺戮してそれを戦争責任の問題として考えるべきとの思考が働かない。

 

・朝鮮人や台湾人で日本軍人であった人の中には戦争裁判で死刑になった人もいる。しかし、恩給や年金からは排除される。

 

・戦後、朝鮮人の日本j国籍をはく奪したのは公安警察的発想であった。

 

・第1次大戦までは戦争は国家政策の一部であった。しかし、大戦で大きな被害が出て不戦の意識が高まり、戦争が違法化されるようになった。

 

・真珠湾攻撃の際の詔には国際法遵守の言葉がない。

 

・ドイツ以外の欧米の大国は、戦勝国であったがゆえに植民地支配の悪に正面から向かい合う機会を今日まで持てていない。にもかかわらず、人権、民主主義、環境などにおいて自らが教師であるとして説教を垂れる。こういう傲慢さがムスリムのテロ行為を生むことにもつながる。

 

改めて国というものにとらわれた視点の危うさを感じます。

 

これからの世界を考える上で大変にお勧めです。