先代住職と共に枇杷島同朋の会を立ち上げてくださった髙橋正治さん(法名 顕正院釋相勝 行年97歳)が3月13日お浄土に還られました。
ご葬儀になって本当は「まさはるさん」なのだとお聞きしてビックリしました。
そういえば…
ご自身が名のるときにそう言っておられたような気もします。
ご家族のお話では、若い頃は広島県の江田島の海軍兵学校に学んでおられ、敗戦を迎えたことを機に、戦争に加担しようとしていた「しょうじ」から生き直そうと「まさはる」と名のられるようになったそうです。
そのようなお気持ちがあったことに今になって出あわせていただきました。
2013年先代住職が亡くなってからしばらくして正治さんは眼の病気が進み、お寺に来ることが難しくなり時々電話でお声を聞いたり、お盆やご命日お参りの時にお会いするばかりとなりました。
が、それ以前は推進員として枇杷島同朋の会の世話人としてご尽力くださいました。
会の発足当初はワープロを打てる方もおられず、法話会の案内作りや会計を受け持ってくださいました。
世話人は行通寺以外の方もいらっしゃいますね…



会の取り組み…
案内500枚配っていたのです














法話会の第100回記念のブログより
(2013年1月)












正治先生は…柏崎刈羽の10組の中でも頼りの存在でした。
前住職が組長(そちょう)となった30年前は三条教区を上げて10組が同朋会運動を推進していた時代でした。当時の総代、小林久幸さんと共に正治先生は住職を支え、共に教えを聞き勉強をして後進を育ててくださいました。
一昨年前に亡くなった前会長の海津正樹さんもその一人です。
左、海津正樹さん 右、正治先生
そして…今は坊守となった私も正治先生からお育ていただき、仏法を聞く身になったと振り返ります
写真は1997年10組から推進員養成講座に参加した方々

ご本山東本願寺の御影堂前で
正治先生はスタッフ、私は受講者

まだお寺のこと、真宗のことが全くわからない私…



半年間同じ班でお育てくださいました。この時帰敬式を受け法名をいただきました。
正治先生はすでに帰敬式を受けておられ、「釋相勝」と名のっておられたのですが、今思うとこの「仏弟子としての名のり」は正治先生が、「しょうじ」から「まさはる」になったことと似ているのかもしれません。
仏法を聞き、共に歩んでいく…ということを本当に大事にされていました。
その中で自身が「翻る」(ひるがえる)ということに着目され、そのことに胸を熱くされていたことを思い出します。
しばらくお会いしていなかったところ突然の訃報でした。
先代が病に倒れてからもどれだけお力になってくださったか…色々と思い返す中で
先生と過ごしていた時には気付かなかったことがまだまだあるのだなぁと日々感じています。
南無阿弥陀仏…と手を合わせ、亡き人を思い返していくことは新たな気付きと出遇いをいただきます。
2011年のブログより…
住職と一緒にご葬儀を勤めさせていただき、最後に大事をいただきました。
南無阿弥陀仏
南無阿弥陀仏