言葉の重量はひとそれぞれが感じとるもの | Gwenhwyval(グウェンフウィファル)の舞台日記

Gwenhwyval(グウェンフウィファル)の舞台日記

鑑賞は生中心主義。自分の眼でライブで見たことを中心に、語ろうと思います。

最近気づいたことがあります。


コロナには後遺症があるので甘く見ないように!かかっても軽いからいいや、と思ってるそこのお若い方々!


という感じのことがテレビなんかでよく言われてたときがあった。

私にはその「後遺症」という言葉に、うっすらと長く、違和感があったのだ。もちろんいろいろと後をひく症状が残ることは(味覚障害など?)読んだり聞いたりして知ったけど。

1ヶ月くらい続く咳が「後遺症」なんだ…。でもそれ回復するだよね…1ヶ月で。


そして気づいた。8月が到来して、ようやく。

私にとって後遺症というのは、原爆の後遺症。父も母も被爆者な私はいわゆる被爆2世で、とはいえ、まあここまで生きた両親はそこまでの原爆の影響はない。

でも、たとえば母の従姉がずっと苦しんでいたという放射能の影響や、被爆してすぐに亡くなりはしなかったもののしばらくして(おそらく放射能障害で)旅立ってしまった親戚…などなどの話を聞いてきました。

後遺症=相当な年月、長く続いて人を苦しめ、時として命を危険にさらす、という意味を核として、とらえていたのだと思う。そして、ここ大切だが、回復しないもの。不可逆的、っていうのかな。


そしてもちろんそれはまことに勝手な私のイメージで、咳に1ヶ月苦しんでる人を「たいしたことない」なんて言うつもりはない。


それだけ、言葉の喚起するイメージや重さは、人によって違うんだなー…。


うーまあ、そんなこと言ってては、ろくに話もできないんだけどね(笑)

私は歴史好きなので、つい史観…てほど大仰じゃないなあ…ちょっと引いてみちゃう(なんなら冷たい)癖があるのも自覚しております。行きすぎるとよろしくない。

だけど、小さな違和感を変に潰さず、完璧なんてものにはほど遠いけど、言葉を大切にして暮らしたいと思う。これが「私のなれの果て」でもあるんだから。

例えば、「サイコー」(これってほぼいっこしかない最上級のことなんだよ笑)とか「歴史に刻まれる」とか連発する前に踏みとどまって、考えて。